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15:皇太后ヴィクトリアの優しさ



 いつの頃からか、上手に息ができなくなった。ずっと息苦しい。いろんなものに押しつぶされそうになっている。

 けれど、これも完璧な妃教育の賜物か、シエナがその不安定な精神状態を周囲に感づかせることは殆どなかった。

 皆が皆、シエナを理想的な皇后だと崇める。そのフィルターを通してシエナを見る。その度に確立されていく彼女に対するイメージが、彼女を縛り付けていく悪循環。


(苦しい。苦しい……)


 近くのバラ園に逃げ込んだシエナは、座り込むようにして生垣の影に隠れる。そして、胸を押さえて必死に呼吸を整えた。しかし、自身の荒い呼吸音が余計に彼女の平常心を奪う。 

 こんなことで心を乱していてはいけないのに、思うようにいかない。

 シエナが落ち着けと自分に言い聞かせていると、後ろからガサッと足音が聞こえた。目に涙を溜めたシエナはこんなところを見られては終わりだと焦った。

 けれども、予想に反し、優しい鈴のような声色が彼女の名前を呼ぶ。


「あら?シエナ?」


 振り返るとそこにいたのは黒髪黒目のアーノルドとよく似た女性。


「ヴィクトリアさま……」

「まあ、また何か悩んでいるのね」


 皇太后ヴィクトリアは自分付きの侍女を下がらせると、シエナの前に膝をつき、彼女をやさしく抱きしめる。

 ヴィクトリアの柔らかい体と、長い黒髪から香る薔薇の香油の匂い、そして背中をさする手の温かさにシエナは次第に落ち着きを取り戻した。


「大丈夫よ、シエナ。落ち着いて」


 ヴィクトリアは大丈夫だと繰り返しながら、涙が止まるまでシエナをあやした。まるで泣きじゃくる子どもをあやすかのように、とても優しく。


(ああ、落ち着く…)


 この人だけだ。この人だけが自分をわかってくれる。シエナは母に甘えるように彼女に体を預けた。


 皇太后ヴィクトリアは自身も長く子どもができなかったということもあり、同じ境遇にあるシエナをとても気にかけている。今のシエナにとっての彼女は、自分の気持ちを理解してくれる唯一の味方だ。


「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。ヴィクトリア様」

「あら、何の謝罪かしら?私はただ可愛い娘にハグしたくなったからしただけよ?」


 ゆっくりと顔を上げたシエナに、ヴィクトリアはにこっと優しく微笑んだ。

 何があったのかをズケズケと聞いてこない彼女の優しさが、シエナの心に沁みる。


「そうだわ、シエナ。少しお時間ある?」

「はい、少しなら…」

「よろしければ、わたくしとお茶でもどうですか?久しぶりにクッキーを焼いたの」


 皇后の座を明け渡して以降、お菓子を作ることが趣味となっていたヴィクトリアは月に一度は、可愛がっているシエナのためにお菓子を焼いている。ヴィクトリアはコクリと頷いたシエナの手を取ると、彼女を自分の離宮へといざなった。

 ヴィクトリアに誘われるがまま、護衛もつけずに本宮を出て、ヴィクトリアが住む離宮へと足を踏み入れたシエナ。

 ヴィクトリアはサロンに彼女を案内すると、侍女や護衛を下がらせた。きっと、悩みを話しやすいように配慮したのだろう。皇后の悩みなど人に聞かせるものではない。

 嫌味のないさりげない優しさが、シエナには、とても心地よかった。


「実は、久しぶりにクッキーを焼いてみたの」


 ヴィクトリアはそう言って、クッキーと紅茶をシエナの前に出した。確かにクッキーは少し焦げていて、かつ形が歪だ。幼少の頃から一向に上達せずに安定してこのクオリティを出してくるのは逆にすごい。


「久しぶりに焼いたら少し失敗しちゃった」


 久しぶりだから、ではないだろうと思いつつ、シエナは苦笑した。


「なんというか、相変わらず芸術的な形ですね。さすがはヴィクトリア様ですわ」

「それ、褒めてないでしょう」

「はい」

「まぁ!あんまり酷いこと言うなら嫁いびりしちゃうわよ!」


 ヴィクトリアはわざとらしく頬を膨らませた。

 そのあざとい仕草が痛々しいおばさんに見えないのは、六十近い年齢には見えないほどの美貌を保っているせいだろうか。自分にはできないなとシエナは思う。


「ふふ。冗談ですよ」


 シエナはクッキーを数個手に取ると、それをハンカチに包んだ。


「あら、食べないの?」

「ごめんなさい。今は食欲がなくて……。後でいただきます」

「そう……」

「でも、不思議ですよね」

「何が?」

「ヴィクトリア様の作るお菓子って、昔からなぜか美味しいんですよね。形はいびつで、焦げていたりするのに」


 美的センスはないが味付けのセンスはあると言うことか。クッキーをまじまじと見ながらそう呟く彼女に、ヴィクトリアは優しく笑った。


「愛情がこもっているからよ」

「愛情ねぇ……」

「あ、愛といえば、アーノルドが愛人を連れてきたそうだけど。あなたの紹介なの?」


 甘さ控えめなジンジャークッキーとダージリンの紅茶の香りが部屋に充満する中、ヴィクトリアはさりげなくずっと気になっていた話題を振った。

 今この話題に自ら触れることができるのは、この城でも彼女だけだろう。シエナは勿体ぶることなく答える。


「違います。勝手に連れてきたんです」

「まあ、そうだったのね。だから私のところに挨拶にも来ないのね」

「そうですね。申し訳ありません」


 誰であろうと、この城に住むことになるのなら皇族への挨拶は必須だ。故に、本来ならば、アメリもヴィクトリアに挨拶に行かねばならない。

 だが、挨拶になんて行ったらアメリがロイだと確実にバレてしまう。かと言って、彼が餌であるなんてことは口が裂けても言えないし。

 何も言えないシエナは誤魔化すような笑みを浮かべた。その笑みに、ヴィクトリアは訳がわからず首を傾げる。


「……?」

「へへへ」

「……それは何の笑み?」

「ヴィクトリア様が目の前にいることに対する喜びの笑みです」

「絶対何か誤魔化しているでしょう」

「そんなことないですよ?」

「はぁ……。まあいいわ。それで?どうするつもりなの?」

「どうもしません」

「私は、早く手を打つべきだと思うけれど」


 平民の愛人になど、百害あって一理なしだということをヴィクトリアはよく理解している。ニコニコと笑顔を張り付けるシエナを心配そうな目で見つめた。


「追い出すのなら早いほうがいいわ」

「ありがとうございます。けれど、お気持ちだけで」

「そう?」

「ええ、来たばかりの彼女を早々に追い出しては、器の小さい皇后に見えてしまいますから」

「確かに、それもそうね。それで?アーノルドはなんと言っているの?」

「……特には何も。ここ数日あまり話していないので」

「あらまあ」


 アーノルドがアメリを連れて来て以降、ろくに話していない。今日、二日ぶりくらいに会話をしたが、結果は勝手に怒って八つ当たりしただけだった。

 ティーカップに注がれた紅茶に映る自分を見つめながら、シエナは唇を噛んだ。 


「シエナ、無理に会話する必要はないわ」

「ヴィクトリア様……」

「だって男の人に私たちみたいな人間の辛さなんてわからないんだから。こちらが精神的に安定しているときじゃないと、話してもこちらが傷つくだけだわ」

「そう、ですかね。いや、そうなんでしょうね」

「あの子の無神経さは父親譲りよ」

「なるほど」


 穏やかに微笑んでいるのに、ヴィクトリアの言葉はどこか棘がある。それほどたくさん苦労して来たのだろう。夫に理解してもらおうと期待するだけ無駄だと、彼女はいつもそう言う。


(やっぱり、無駄なのかな)


 わかってほしいと思うことは愚かなことなのだろうか。期待することは無駄なのだろうか。

 わからなくなってきたシエナはドレスをぎゅっと掴んだ。

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