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1:始まりの季節


 雪が溶け、新しい命が芽吹き始める季節。

 大陸の半分を占める大国、トルカ帝国の皇后シエナは宮殿の外れにあるお気に入りの庭園で、自分付きの侍女エマと優雅にティータイムを楽しんでいた。

 シエナは長い冬の終わりを告げるこの時期の空気を一番好む。暖かな日差しと、柔らかい風が運んでくる幼い緑の匂い。まだ少し冬が残っているかのような少し冷たい空気も含めて、全てが心地いい。新鮮な空気が心を綺麗にしてくれて、少し冷たい風は気を引き締めろと自分を奮い立たせてくれる。


(しっかりしなきゃ……)


 シエナは風に靡いたその白銀の長い髪を耳にかけた。

 数年前に戦争が終わったとはいえ、未だ完璧に統治できているとはいえぬ土地を抱えている以上、気を抜くことは許されない。最近では沿岸部を中心に正体不明の麻薬が出回っているという話も聞くし、宮廷内では先帝時代に幅を利かせていた保守派の大貴族たちが、今も大きな顔をして城に出入りしている。傍目にはそう見えなくとも、意外と周りは敵だらけだ。

 そんな中、皇后という立場にある以上、彼女は現状の平和に甘んじることなく、初心を忘れずにいなければならない。

 

「シエナ様っ!お茶のおかわりはいかがですか?」


 侍女である未婚の子爵令嬢エマは、シエナのカップが空になったタイミングでお茶の入ったティーポットを手にした。そしてカップに並々とハーブティーを注ぎ、小首を傾げた。その仕草が可愛らしく思えたのか、シエナの頬は自然と緩む。

 すると、その微笑みに当てられたのか、エマの顔は首から頭のてっぺんまで一気に赤くなった。まるで茹でたタコだ。


「ありがとう、エマ」

「ど、どういたしましてです!」

「ふふっ。動揺しすぎよ。あなたはいつもすぐに赤くなるわね」

「わ、笑わないでくださいよぉ!シエナ様はみんなの憧れなんですから、その笑顔を向けられたら誰でも赤くなりますって!」


 揶揄からかうようにくすくすと笑うシエナに、エマは頬を膨らませた。

 しかしながら、このエマの反応は当然と言えば当然だ。

 なぜならこのシエナ・フォン・アインシュヴァルツという女は、同性から見ても惚れてしまいそうになるほど美しい造形をしているから。

 艶やかな長い白銀の髪は歪みなく真っ直ぐと下に伸びており、紫水晶の大きな瞳はどこまでも透き通っている。色素の薄い肌は陶器のような冷たさを感じさせるものの、いつも弧を描くピンクの口元がその冷たさを緩和してくれるので、程よい威厳を出しつつも、どこか愛嬌がある女性を演出してくれる。そして長い手足に上品に凹凸のある肢体。どこぞの彫刻よりもずっと美しい。

 さらに付け加えるならば、彼女はその美しさだけでなく、家柄・知性・品性のどれをとっても一級品だ。その上、性格は常に冷静沈着で気高く慈悲深い。


「まさに大国の皇后としては完璧な女性なのですよ!」

「そう?ありがとう」

「シエナ様は全然わかっていらっしゃらないようですけれど、貴女様はその存在こそがある意味で罪なのです!微笑みを向けられれば誰でも心を奪われてしまうのですよ!ハート泥棒です!」

「ハート泥棒って……」


 語彙力の不足が心配される例えだ。興奮気味にそう語るエマは鼻息を荒くし、可愛らしい茶色い瞳をこれでもかというほどに見開いてシエナに顔を近づけた。

 無礼にすら値する距離感の侍女に、シエナは貞操の危機を感じて体を少し後ろへ引く。


「ありがとう、エマ。貴女の褒め言葉はとても嬉しいけれど、鼻息が異様に荒くて少し怖いわ」

「はっ!申し訳ありません!つい……」


 エマはペコペコと頭を下げた。勢いよく頭を下げたせいか、彼女の肩の辺りまで伸びた赤茶けた髪が少し乱れてしまう。シエナは彼女の髪に触れると、それを整えてやった。


「まったく、貴女はいつもこうね。可愛らしいけれど、もうすぐ20になるのだからそろそろ落ち着きなさいな」

「ヘヘっ。すみません」


 呆れ顔で微笑むシエナにエマは恥ずかしそうに肩をすくめた。

 シエナのこととなると、エマはいつもこうだ。シエナのことが好きすぎるせいで、婚期を逃し続けて早五年。元々は結婚相手を探すために城に上がったはずなのに、恋愛の『れ』の字も知らないまま、無常にも時間だけが流れていっている。

 そして何より問題なのは、本人がそのことを問題視していないことだ。


「私付きになってもう三年だけれど、そろそろいい人は見つかった?」

「うーん。正直もう結婚はいいかなと思ってます。うちにはお兄様もお姉様もいますし、私が生涯独身でも誰も困りません」

「またそんなことを言って。子爵が泣くわよ?」


 結婚なんてどうでもいいと言いながら呑気にジンジャークッキーを頬張るエマに、シエナは呆れたようにため息をこぼした。

 貴族の子女にとって、結婚することは最大の義務であり、同時に最大の幸せだとされている。その考え方には多少思うところはあれど、それが慣例。この国、あるいはこの世界においての常識だ。それに逆らっているエマは、年齢的にもそろそろ『行き遅れ女だ』と陰口を叩かれてしまうことだろう。

 そう思うとシエナは心配になる。だって、この世界は型にハマらない女を許してはくれないから。


「誰か紹介する?貴女の年齢なら、まだ歳の近い独身男性はたくさんいるわよ?」

「いいえ。ご遠慮いたします」

「あら、どうして?」

「私は誰に何を言われようとも、シエナ様のお側で侍女として生きて死にたいのです。それを理解してくださる方が現れない限りは結婚できませんわ」

「そ、そう……。すごい覚悟ね」

「シエナ様、私は仕事に生きる女性がいても良いと思うのです。貴族だろうと平民だろうと、女だろうと男だろうと、自分の人生は自分のものです」


 エマは確固たる強い意志を持ってそう言い切った。

 まだまだ保守的な考えを持つ貴族が多いこの宮殿の中でその考えを公言するのはかなりリスクの高いことだが、自分の生き方を誰にも指図されたくないという彼女の気持ちが痛いほどわかってしまうシエナは、そう断言できる彼女が少し羨ましい。

 

「……ああ、皇后になってもう三年か」


 シエナは、ふと、遠い目をして空を見上げた。


「三年という時間は早かったですか?」

「どうだろう?私は生まれた時から皇后になることが決まっていたから、これといって大きな変化はなかったかも」


 決められたレールの上を歩くシエナにとって、皇太子妃も皇后も大差なかった。変わったことといえば『早く世継ぎを産め』と元老院のジジイたちにせっつかれるようになったくらいだ、と彼女は冷ややかに笑う。


 生まれた時から現皇帝であるアーノルドの相手として名前の上がっていたシエナは、立派な皇后になれるようにと厳しく育てられた。

 結婚相手だけではなく、付き合う友人や学ぶ学問、趣味として持てる娯楽。話し方、所作、思考。皇后にふさわしいかを基準に、何から何まで厳しく管理された彼女の人生にはあまり自由がなかった。

 比較的リベラルな考え方をする子爵の元で自由に育ったエマとは大違いだ。

 別に今の生活に大きな不満があるわけではないけれど、それでも天真爛漫なエマを見ていると、たまに普通の家庭に生まれていたらどんな人生だったのだろう、なんてくだらない事を考えてしまう。


(絶対に口には出さないけれど……)


 シエナはそんな心情を誤魔化すように、ハーブティーを口に含んだ。


「エマ、何か楽しい話でもして?」

「唐突すぎませんか?急に言われても困りますよ、と言いたいところですが、実はさっき、廊下でチラリと聞いてしまった話があるんです!」

「随分と嬉しそうね?何かあったの?」

「ウィンター辺境伯夫人が平民の庭師と不倫したそうですよ?」


 ウィンター辺境伯夫人といえば社交界では幅を利かせている女性で、なかなか子どもができないシエナに何かと突っかかってくる女性でもある。

 夫婦関係の終わりを示唆するかのように、エマはわざとらしくハート型のジンジャークッキーを半分に割った。ざまあみろ、とでも思っているのだろう。少し上がった口角はまるで小悪党。間違っても淑女の作る表情ではない。

 しかし、シエナは眉一つ動かさずにしれっと『そう』とだけ返した。



「……え、反応薄くないですか?」

「辺境伯夫人の件なら、騒ぎになる前に夫人から直接聞いたもの」

「そうなんですか?なんだぁ、残念」

「夫であるウィンター辺境伯に離縁を思いとどまるよう、口添えをして欲しいらしいわ」

「うわぁ……。厚顔無恥とはまさにこの事ですね。それで、口添えはしたんですか?」

「一応、ね。夫人は子どものためにも離縁はしたくないと言っていたから、辺境伯には『この話は夫妻だけの問題ではありません。もし閣下にご子息を思うお気持ちがおありならば、どうか彼の意志を尊重して差し上げてください』と言っておいたわ」


 そう言ってにっこりと笑うシエナに、エマは背筋が凍るような感覚を覚えた。

 シエナの助言は一見、子どものために夫婦関係を続けたいとするウィンター辺境伯夫人の意を汲んだもののようにも思えるが、実際はそうではない。

 実のところ、辺境伯の息子は夫の財産で散財し、息子を気にかけることもしない夫人をよく思ってはいないのだ。つまり、子どもの意志を尊重せよ、というシエナの助言は結果的に離縁を後押ししているのと同義。


「言っておくけれど、夫人のことが嫌いだからと意地悪で助言したわけではないのよ?」

「わかってますよ。南の国境の守護を担う辺境伯家が離縁するしないでいつまでも揉めているのはよくないですからね」

「そういうことよ。こういう問題は早めに解決してもらわないとね」


 シエナはハート型のクッキーを手に取り、それを真ん中から半分に割った。

 本音を言うと、子どもにも恵まれたくせに不倫なんてする夫人が許せないという感情も少なからずあるが、それはただの僻みでしかないので口には出さない。


「人って欲張りね……」


 自嘲するようにそう呟いた彼女は、半分に割れたハートを少しかじった。


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