番号札5番と主任
閉庁時間から1時間経過しているのだが、僕は机から離れなかった。独り、バインダーに綴られた書類を読んでいる。これまでに認定処理をしてきた「生きる力」を給付する制度の、申請用紙だ。
「番号札5番」
先週末、時間外にすべり込んだ件か。住民登録・戸籍の届け出・福祉関係は、閉庁時間になったらすぐに窓口を閉めることは難しい。業務終了の鐘が鳴り終わるまでに来庁があれば、たとえ他の部署で1時間かかろうが、必要な手続きが完了するまで、待っていなければならない。
余計なことをしてくれる。あきらめて別の日に来ればいいだろう。この日しか来られないから、という言い訳テンプレートは聞き飽きた。あなたの都合で動かされる身にもなってもらいたい。あなたが仕事をしている時、あと1分で退勤できるのに客が入ってきたら、どういう気持ちだ? と。どうせ生活のために自分の貴重な時間を売り物にしているのだから、親切心などひとかけらも無いだろうに。心を込めて仕事をしている人などいるわけない。偽善だ。もしくは……「変わり者」なのだろう。病院で診てもらう必要がある。
「番号札5番の、思い出は……この人……」
対応した人を覚えておく必要は無かった。主任から、あのことを知らされるまでは。この手当の申請者、申請に必要な「思い出」の関係者が、消失する件があった、ということを。主任はなぜ、上層部から排除されないのだろうか。上層部にとっては、手当の内情を知られすぎたら都合が悪いのではないだろうか。……主任が休みがちな理由は、排除から逃れるためなのか? 僕には無関係……としておこう。
「この人は……あの日の『番号札1番』なのか」
番号札5番、思い出の関係者は、配偶者。婚姻前、配偶者は、交際相手に捨てられて心が傷ついていた。自身も長年交際していた相手の不貞が原因で破局し、今度お付き合いする人とは結婚しようと考えていた。
二人の願望は一致し、交際6ヶ月を経て婚姻。幸せな暮らしが待っていると思いきや、配偶者は自分の思い通りにいかないと、やつあたりをしてくる、要求をするだけして、こちらには何もお返しをしない。要するにわがままな人物だったというのだ。勤務先の誰それが妊娠したらしい、悔しい、失敗すればいいのに。妊娠・出産さえすれば、このつらい仕事を辞められる。前の交際相手がいる職場から離れられる。だからお願い、子どもがほしいの! どうして私たちにはできないの! おかしい、あの人は性格が悪いのに結婚してすぐ子どもを授かっている! 前の交際相手とあいつが、堂々と結婚しやがった! 不公平だ! 許せない! ねえ、どうにかしてよ! 私を幸せにしてよ!
……申請者は耐えられず、配偶者と離れたいと思った。この手当で、新たな幸せをつかみたい。とのことだった。
配偶者の名前が、僕が受け付けた番号札1番と一致している。生年月日、住所、性別も。脳内に、細く鋭い電流が走るような感覚がした。
この元申請者は、認定されたことで、消されてしまうのだろうか。部活動の思い出を提出した未成年の申請者(番号札3番とする)も、介護に疲れた申請者(番号札4番とする)の親も、直ちに「行方不明」とはならなかった。番号札3番の思い出の関係者による申請と、番号札4番の申請が認定され、支給の処理が委託業者で行われる際に起こっていた……と主任が話していた。
両手で机を強く叩き、僕は勢いよく立ち上がっていた。なぜ、このような無駄な動きをしたのだ。自宅に帰るためだけだ、最小限のエネルギーで済むのだ、それが、なぜ……。
この部署で残っていたのは僕だけだった。消灯し、更衣室兼備品倉庫に入る。専用のロッカーを開け、制服のブレザーを脱ぎ、ハンガーにかける。ビジネスバッグを取る。そして、閉める。さあ、退勤だ。
「フクヤマさん」
真後ろに立たれて驚かない人はいない。僕もだ。だが、声を上げる無様な真似はしない。眉を数センチ動かすだけだ。
「主任、休暇だったのでは?」
「そうです、休みをいただいていましたよ、大事な用がありますから」
「そうでしたか。では僕は失礼いたします」
「待ちなさい」
腕をつかまれて、胸の内で舌打ちをした。勝手に触るな。
「あなたに、用があるのです、来なさい」
「業務は終了しました、退勤させていただきます」
「来い!!」
普段おどおどしている役人から、ドスの利いた声が出された。
細身の身体にありそうにもない強い力で僕を室内奥の積まれた段ボールまで引っ張る。
「何を」
「行けば分かる、お前も知らねばならない、私だけでは対処できない、未来を担う職員のお前には、目にしてもらわねばならない」
口調が荒くなっている。これが本性か? 演技か? 内と外で人格を変える理由が分からない。意味が不明。
僕をつかんでいない手で、段ボールを右や左にずらしていく。最後の段ボールをずらしたコンクリートの床に、×印が付けられていた。
「まだばれていないか、これだけ目立つようなことをしても、お咎めなしとは、阿呆が多すぎる」
主任が×印を踏みつけると、蓋が現れた。印を囲んだ正方形の蓋。
「フクヤマ、これから起こる事に、目をそむけるなよ」
足で蓋を除けると、下り階段があった。地下に続いていたのか。無言で、主任は僕を連れて地下へ進んでゆく。更衣室から遠ざかるにつれて、何かを打ち付ける音、モーターが回る音、金属の音が聞こえてくる。
「あの手当の申請を処理した後、委託が何をして給付をやっているかわかるか、わかるわけないな、お前は書類とにらめっこしている以外は興味ないからな、このロボット野郎」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「と心にもないことを言って、私を満足させた気なんだろう、本音はぴーちくぱーちく文句たれといてな」
「仰っている意味が、分かりかねます」
「どうでもいいわ、ほら、着いたぞ」
やっと平らな地面に到る。背中を押され、前へ進まされると、あまりにも大きなガラス窓に鼻をぶつけた。距離をとり、窓に映る光景に僕は、息をのんだ。
「工場…………?」