行方 —未だ知らず—
書いてみました。
行方の続きになります。
軽い微エロがありますので苦手な方はご注意を。
長めですがよろしくお願いします。
私はオフィスに戻って来た。カードキーを翳し、ピッという電子音とともにロックの解除されたその重たい扉を自分の手で開く。その途端、負荷が掛かって指や手首に痛みが走ってつい顔を顰めてしまう。
お昼から戻った時はいつもなら一緒に居る美和ちゃんが開けてくれるからこんなことは久しぶりだった。
こんな病気になってしまったから痛みは仕方のないことだけど流石にちょっとへこむ。それにたかだか五分程度のことなのに、今隣に美和ちゃんが居ないことをやけにはっきりと実感してしまった。
でも、もう美和ちゃんは直ぐ其処だ。
「居た」
オフィスに入って直ぐにウチの課の方へ視線を向けると既に自分の席に座っている美和ちゃんを見つけた。美和ちゃんがそこに居るのは当たり前のことだけど、私の隣の席で私を待っていてくれることがやはり嬉しくて私は自然と笑みを浮かべていた。
でも席に座って俯いて何かを考えている美和ちゃんの様子はどこか暗くてどこか痛々しくも見えてしまう。
それに気付いた瞬間に私の浮かべた笑みは消え去って、代わりに私の胸にも鋭い痛みがやって来た。
それでも私はもやもやと頭に浮かんで来る嫌な予感を振り払ってそれを無視することにして、いつものように私らしく振る舞うことにした。
私はわざとよいしょと声に出して自分の席に座る。こうして私が戻って来たことを美和ちゃんに意識させてから、椅子ごと美和ちゃんの方を向いて美和ちゃんが纏っている暗い雰囲気と私の胸の痛みを敢えて無視して明るく想いを伝えることにした。
とは言え遠回しの言い方になるのは仕方ない。まだ昼休みだから周りに人は少ないしオフィスだからそれなりに騒ついてはいるけど、何処に耳ありメア…目ありかなんて分かったものじゃないからだ。
「美和ちゃん、私本気だよ」
美和ちゃんはちらっと私を見て一瞬だけとても嬉しそうになった顔を直ぐに歪めて、はいと言った後また視線を下に落としてしまった。
「美和ちゃんは?」
「…私もです。けど…」
「けど?」
「ねぇ吉野さん。今夜ちゃんと話しませんか?」
美和ちゃんが俯いたまま弱々しい声でそう提案して来る。それは私も考えていたことだから直ぐに同意した。
「うん。そうだね、そうしよう。じゃあ仕事が終わったらウチに来てね」
「はい?」
美和ちゃんが顔を上げて私を見てくれた。私の提案に驚いて少し慌てている。私はにっこりと笑みを浮かべて分かってるよねと念を押しておく。この話は場所を選ぶ類いのものだ。そこら辺で気軽に出来るものではないんだから。
「来てね」
「…はい」
美和ちゃんもそれを分かっているらしく戸惑いながらも同意してくれた。
色々と思うところがあるのだろう。美和ちゃんの暗さや痛々しさは相変わらずだ。思うところは私もあるから同じだけど難しいことは後で美和ちゃんとたっぷりと話し合おうと思う。
たった今、私達はお互いに好き同士だと確認出来た。それはとても素敵なことだしとても幸せなことだと私は思う。
だから美和ちゃん、どうかそんな顔をしないで欲しいよ。
そう気持ちを込めて美和ちゃんに微笑むと、美和ちゃんも弱々しく微笑み返してくれた。きっと今の美和ちゃんにはそれが精一杯の笑みなんだと思う。それなら今はそれで十分。私は気持ちを切り替える。
伝えるべきことはちゃんと伝えて置かないといけないのだ。
「そうそう。ところで美和ちゃん」
「はい」
「なんで私を置いて先に戻っちゃうかなぁ」
「へ?あっ…ぁぅ、ごめんなさい」
やってしまった。私は嬉しさのあまりに、つい吉野さんの呟きに答えてしまった。
私が想ったあの瞬間にほんの少し遅れて聞こえて来た本当は欲しいと焦がれていた吉野さんのあの言葉。
私はあの時嬉しくて堪らなくなって涙まで零して自然に私の気持ちを伝えていた。その後直ぐに顔が火照るのが分かって恥ずかしさのあまりに視線を逸らし、舞い上がってしまって慌ててその場から逃げるように身体が動いてしまった。
けどオフィスに戻る途中から、吉野さんはただ友人として好きだと言っただけかも知れないのに私が勘違いをして吉野さんに好きだなんて伝えてしまったのかもと焦りと後悔の念が湧いて来てしまった。
あの場から逃げないでちゃんと吉野さんの気持ちを聞いておけば良かったなんて考えしまうけど今更だから意味はない。私は逃げてしまったんだから。
もし勘違いだった場合、私が好きと伝えてしまったことをどうにか誤魔化そうとして、私も友達として好きですよなんて惚けて見せたとしても、涙まで零して照れて顔を赤くして、如何にも貴女が好きですみたいな様を見せてしまっては、私をよく見ている吉野さんにはそんなのは絶対に通らない話だし、吉野さんは一応話は聞いてくれはしても心のうちでは決して納得はしてくれない。それはつまり、私の気持ちはもう吉野さんにバレてしまっているということだ。誤魔化すことなんて出来る訳がない。
「どうしよう」
こうして吉野さんを待ちながらひとり席に座っている今も、その焦りと後悔の念はどんどん大きくなっていく。
だけど私の後悔の理由は当然それだけじゃない。
もしも吉野さんが本当に私を好きになってくれているとしても、もしも私と付き合いたいと思ってくれているとしても、いくら私が吉野さんを好きだからと言って、描く先の無い私が私の事情に吉野さんを巻き込むことなんて出来ないしそんな身勝手なことはしたくない。
けど私が吉野さんのあの言葉を聞いてしまった今、出来ない、したくないと思いながらも出来ることなら吉野さんと結ばれたいという、どうしたって抑えられそうもない浅ましくも恥ずべき欲が私の中に生まれてしまった。
吉野さんのことを第一に考えればそれは絶対に駄目なことだから止めて置けと、どれだけ自分を戒めようとしてみたところで最早それには意味はない。情けないことに私の答えはもう既に決まってしまっているのだから。
私は吉野さんを手にしたい。初めて目にした時からずっと欲しかった吉野さんの横顔を、吉野さんの全てを、私は手にしたくて堪らなくなっている。私にそう思わせる私の身勝手で浅ましくも恥ずべきその想いが吉野さんを私の事情に巻き込んでしまうことを是としている。
きっと今の私は豆粒ほどの些細な切っ掛けにさえ、ちょんと背中を押されでもしたのなら、喜んで吉野さんにこの手を伸ばしてしまうだろう。この社会の常識も、怖さも、吉野さんの立場さえも一顧だにせず喜んで吉野さんの全てを手にしてしまうだろう。
酷い話だと思う。けど私はそうなることを望んでいる。
それが私の後悔の根源であり、それが私を落ち込ませる。本当になんて酷くて醜い話であることか。
他にも気掛かりなことがある。それは吉野さんが私がレズビアンだと知ったなら私をどう思うのかということだ。私はそれが凄く怖い。怖くて怖くて堪らない。
けど、たとえそれを知るのは凄く怖いことだとしても、こうなってしまっては伝えることも覚悟しておかないといけない。もしも私の勘違いじゃないのなら、私を好きだと言ってくれた吉野さんにちゃんと向き合わないといけない。
「ああもうっ」
私はなんてことを口にしてしまったんだろう。あの嬉し過ぎた出来事は対処出来ない突発的な事故みたいなものだったとは言え、私は絶対に吉野さんには踏み込まないとそう決めていた筈なのに。
そろそろ戻って来るだろう吉野さんを待ちながらそんなことを考えていると、私の気分がどんどんどんどん落ち込んで行く。
戻って来た吉野さんはとても嬉しそうだった。席に着くなり本気だよと言ってくれた。
その笑顔と言葉が凄く嬉しくて私は素直に私もそうだと言ったけど、どうするべきなのか分かっていてもそうはしたくないだなんて、そんな風に頭の中で葛藤していて考えは全然纏まらないし、これで私のことを伝えなくてはいけなくなってしまったし、気分は落ち込んだままだから私はあまり上手く笑えなかった。
それでもなるべく早いうちに私達のことを話すべきだろう。そう思って今夜時間を作って下さいと言うと吉野さんの家にご招待されてしまった。
確かにそこらで話せるような内容じゃないし、吉野さんの病気のこともある。吉野さんにとっては外で話をするよりも自分の家の方がいいと思う。
だから私はその言葉に頷くことにしたけど、 思いがけず好きな人の家に行くことになって少しばかり浮かれてしまう私はやはり救い難い愚か者だ。
この話はその時にということで、私達は話を切り上げて午後の仕事に戻ることにした。
けど、それから午後の仕事が終わるまでずっと吉野さんのなんで私を置いて先に行くのかなぁという呟きを聞き続ける羽目になってしまった。
「ねぇねぇ美和ちゃん」
「なんですか?」
「なんでかなのかなぁ」
「あぅ」
「なんでかなぁ、なんでなのかなぁ」
「…ぁぅぁぅ」
「うふふ」
「…吉野さんは意地悪ですね」
「そうだよ。知らなかった?」
吉野さんは私をちくちく責める度ににんまりと笑っていた。本当に意地悪だ。
けど、こんな掛け合いも実は何気に楽しくて私の気持ちは少し楽になっていたりする。
吉野さんは置いて行かれたことをただ拗ねるだけじゃなくて、それを狙ってもいたんだと思う。
吉野さんは落ち込んだままの私を心配してくれている。私を気にしてくれている。笑顔になってと言外に伝えてくれている。だから吉野さんは今もこの掛け合いを終えないでいる。つまり私は幸せ者なんだということになる。
そしてまた私は、吉野さんが欲しくて欲しくて堪らなくなる。
仕事を終えて美和ちゃんと一緒にオフィスを出た。そして約束通り今ウチに来て貰っている。
美和ちゃんはウチに入るなり、ほぇ〜広いですねぇと声を出し、興味津々、なるほどここが吉野さんのウチなんですねといった雰囲気を丸出しにしてきょろきょろと部屋を見回していた。
私に隠そうそうともしなかったその態度は、まるで美和ちゃん自ら作っていた壁を美和ちゃん自ら取っ払ってしまったかのようで私はとても嬉しかった。
ふたりで一緒に帰っている間、私達は電車に乗っていても並んで道を歩いていても本題に触れることはなかった。
その間も美和ちゃんの暗い感じは変わらなかったけど、混雑した駅の通路や電車の中で庇うようにしてくれたり、見つけた座席の空いた隙間に、吉野さんは細いからいけますよと私を詰め込んでくれたり、いつものように歩調を合わせてくれたりと私を気遣ってくれる態度も普段と変わらなかった。
私のウチの最寄駅で降りた時に、美和ちゃんがお腹空きましたねと言ったから駅前にある商店街の定食屋で夜ご飯を済ませることにした。
これで焼肉定食に唐揚げを三つ追加してもりもりと食べていた美和ちゃんがウチで話をしている間に空腹に苛まれることはまずないと思う。多分大丈夫、な筈。
美和ちゃんが追加した唐揚げにはタルタルソースが付いていて、それをたっぷりと付けてぱくぱくと美味しそうに食べる美和ちゃんの姿がとてもカッコよく思えたから私はついついじーっと見つめてしまった。
その時の美和ちゃんは私の視線にとても美和ちゃんらしい勘違いをしていた。
「じー」
「えっと、ま、まさか吉野さん、かかか唐揚げ、たたたた食べたいですか?」
「ん?いいの?」
「い、いいですよ。他ならぬ吉野さんになら……あげますよ…くっ」
「あはは。美和ちゃん、手震えてる。唐揚げ落っこっちゃうよ?」
この世の終わりみたいな顔をしながらふるふる震える箸で差し出して来た唐揚げは結局貰わなかったけど、私にはそんな美和ちゃんがとても可愛いく思えて仕方なかった。やっぱり美和ちゃんはほんかわだ。
ちなみに私はサバの味噌煮定食を食べた。私がそれを淡々と食べ進めていると、サバを口に運ぶ度に美和ちゃんが目で追っているのを感じたから、私は有無を言わさず箸で切った一切れを素早く無言で美和ちゃんの口に突っ込んであげた。
美和ちゃんは私がやってあげたあーんの雑バージョンにとても驚いた顔をしてフリーズしていたけど、それでも口だけはもぐもぐと動いていて、それを飲み込んだ後に急だったので味がよく分かりませんでした、もう一度お願いしますと照れながら言ってくれたのもとても可愛かったから、私はそれをもう一度してあげた。
私はそれをしながら今までなら決してあり得なかった美和ちゃんの言動にこれがデレと言うのヤツなのかと感動してしまった。それに美和ちゃんが覚悟を決めてくれたという気がしてとても嬉しくなってしまった。
でもまぁ、二度目の雑なあーんの後、美和ちゃんは、ふむ、サバの味噌煮もご飯のお供にいいですねとぼそっと呟いていたから、もしかすると美和ちゃんはただサバの味噌煮を食べたかっただけなのかも知れない。
そして私達は今、私の部屋のソファで隣り合って座っている。万が一を考えて美和ちゃんのためにコンビニで買ったお菓子もソファの前にあるテーブルに置いてあるから大丈夫。完璧。
最初私達は微妙な距離を開けて隣合って座っていたけど、私が当然のように距離を詰めたから今は腕や肩が触れ合うように座っている。私はそれだけで幸せな気分になっていたけど、美和ちゃんはそれには何も言わずにただ苦しそうに私をじっと見ていただけだった。
ふと私の頭にもしかして美和ちゃんは食べ過ぎちゃて苦しいのかも知れないなというアホな考えが浮かんで来た。でも美和ちゃんにとってあのくらいは普段と変わらない量だから、もしあれくらいで食べ過ぎちゃっていたとしたらそれは美和ちゃんも緊張しているということだから、私のアホな考えはあながち的外れでもないのかも。
ともあれこれで心置きなく話すことが出来る。ならばと私は、先ずは話をしやすいように美和ちゃんの方へと向き直り、それから緊張を解すように咳払いをしてから微笑んだ。
「んっ、んん。美和ちゃん」
「はい」
さて。仕切り直すためとは言えあらためて気持ちを伝えるのは些か照れ臭いけど今度はちゃんとした言葉で気持ちを確かめ合いたい。私はどこか微妙な空気が漂う中でもう一度私の想いを口にする。
「私、美和ちゃんが好き」
私がそう言っても美和ちゃんは直ぐには答えてくれなかった。伏し目がちに自分の膝に置いた手を見つめていて眉間に皺が寄っている。その姿は何かを怖がっている子供のようにも見えてくる。
一体何を怖がっているのか分からないけど、私はもう一度気持ちを伝えた。
「好きだよ」
美和ちゃんは顔を上げて、私も好きですと泣きそうな小さな声で微笑んでそう言ってくれた後、先ずは言わないといけないことがありますと今度は辛そうな顔をした。
そう言われた瞬間に私の胸にまた痛みが走って息が詰まる。泣きそうで辛そうな美和ちゃんの顔を見ていると凄く嫌な予感がしてしまう。断られてれてしまうのかな、嫌だなぁと私の高揚していた気分が一気に冷めていくのが分かって私もまた辛い気分になっていく。私は顔を俯けてしまった。
そんな私の心情に構うことなく美和ちゃんが言いにくそうに口を開いた。
「私……レズビアンなんです」
私が思っていた拒絶の言葉とは違っていたから、私は一瞬美和ちゃんの言ったことがよく分からなかった。
でも直ぐに言われたことを理解して、顔を上げて美和ちゃんを見ると、真っ直ぐに私を見つめていてとても悲しい顔をして頷いた。
私は、なんと言うか、確かに美和ちゃんがそういう女性だったということには驚いたけど、それよりもなによりも美和ちゃんが女性同士なんてやっぱりおかしいですよとか言い出さずに私達のことを否定しなかったことが嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
だから美和ちゃんの告白は今の私には本当にどうでもいい話だった。
今目の前で暗い顔をしている美和ちゃんの覚悟を決めた告白に対して少々不謹慎かも知れないけど、これが私の偽らざる本音だった。
それが思わず口に出てしまう。
「そっか。なんだよかった。ああよかったぁ」
「はあ?何言ってんの?」
美和ちゃんがとても怖い顔をした。こんな顔を見たのは初めてだった。巫山戯んなと私を睨んでいる。しかも初めてのタメ口だった。
でも私はふざけている訳ではなくて本当にほっとしただけだ。だから私はそれを説明する。
「今フラれちゃうのかと思ってどきどきしてたから。よかったよほんと」
「…それだけですか?」
「そうだよ」
いまだよかったぁと息を吐いて、胸を撫で下ろしている私に向かって、美和ちゃんがなんとも言えない微妙な顔をしてだんだん頬を膨らませていく。
「どうしたの?なにか不満?」
「なにかって、吉野さん話聞いてました?私レズビアンなんですよ。同性愛者なんですよ。なんですかその反応は」
「なんですかって、なにが?」
「なにがって、その、気持ち悪いとか……」
美和ちゃんの膨らんでいた頬が萎んでまた暗い顔になっていく。その代わりに私が頬を膨らませる番だった。
私怒りますよと膨らませた頬を見せてそれを直ぐに引っ込める。そして今は顔を伏せてしまった美和ちゃんの膝の上にあった手を、下から掬うようにしてそっと握った。びくっとしたのが分かって、私は驚かせてごめんねともう片方の空いている手でぽんぽんと美和ちゃんの手の甲を優しく叩いてそのまま包むように握った。美和ちゃんは私が握った手を、少し力を入れて手を握り返してくれた。
「ねぇ美和ちゃん」
「…はい」
「先ずね」
私が女性の美和ちゃんを好きなのに、女性を好きなレズビアンのことを気持ち悪いとか思う訳がないでしょう?
「あっ」
「それに私はね」
そう思う人が私の想像以上に多いのは知っている。でも私は違う。そうじゃなければ私は美和ちゃんを好きになっていない。私は美和ちゃんだから好きになった。いい歳をして十代の様なことを口にするのは恥ずかしいけど、要はそういうことだとしか言えない。
私は女性が女性を好きになることを特に何とも思っていない。嫌じゃないのかと言われたら、それはもちろん嫌じゃない。元々生理的な嫌悪感は抱いていないし、当事者ことは当事者にしか解らないことがあるものだから、理解できないからとそれを後から否定することもない。
そしていざ自分が当事者になってみると、見えなかった物の一端が見えて来る。彼女達にはと言うか美和ちゃん達にとってそれが自然なことなんだと解る。生き物は呼吸することを意識しない。それと同じ。それがすとんと胸に落ちて来る。
「ね。そういうことだから。それについては何の心配も要らないんだよ」
「はい」
美和ちゃんは泣きそうな顔をして頷いた。でもそれはさっきまでの心底悲しい感じとは違っていて、今の美和ちゃんの顔は嬉しくて泣きたいように見える。
その様子を見ていたら、私は美和ちゃんの抱えているモノが美和ちゃんに齎す影と言うか重さと言うか負の部分と言うか、どうにもうまく言葉に出来ないけど、とにかくその一端を垣間見たような気がしてとても哀しくなってしまった。
美和ちゃんは今までにも辛い思いも悲しい思いもいっぱいした筈だ。それを乗り越えることはとても大変だったろうなと思ったけど、私には慰めを言葉にすることも態度に出すことも出来ない。
私はまだ当事者ではないし、悩み苦しむ姿を見てもいない。美和ちゃんのこれまでも辛さは美和ちゃんだけのものだからそれについて私から何かを言える訳がないと思うから。
でもこれからは、せめて頑張ったねくらいは言えるようになりたい。だから私は微笑んで話を続ける。そのためにも私は今から私の覚悟を話すのだ。
「それでね」
私がそうだからって、美和ちゃん達の表面しか見ていない、見えていない今の社会がそれを許容出来る筈もないことは何も変わりはしない。
だから私達は好き好き大好き愛してるだけじゃ、それが幾ら心強いことであっても絶対に上手くいかない。
進む先に大変なことがそれなりに待っていて、嫌なこととか面倒なこととか辛いこととかどうしようもないことが、時には私達に降り掛かって来ると思う。
もしそれに耐え切れずに終わってしまっても私は次に男性を好きになる可能性もあるけど、美和ちゃんはそうはいかない。この先美和ちゃんがまた女性と付き合ったとしても、変わらずそれに耐えていかなくちゃいけない。私にはそれが一番耐えられない。
「ねぇ美和ちゃん、私にはあるんだよ。それを美和ちゃんと一緒に受け止める覚悟がさ」
美和ちゃんが美和ちゃんの事情に私を巻き込みたくないと思っているのも知っている。美和ちゃんは優しい人だから、大変だからこっちに来るなと思っているところがあって、それで葛藤してることも分かっている。
でも私は伊達に三十二年近くも生きていないわけ。そのくらい対処出来る。これから美和ちゃんが私の隣に居るのか居ないのか、それを思えばそんなことは別にどうということはない。そんなこと比べるべくもない。
そりゃあ、偶には受け止めないでひょいっと横に避けちゃうこともあったりするかもしれないんだけど、基本なるべく全て受け止める方向で美和ちゃんと一緒に生きて行くから。
今はまだ知識は無いし方法とかよく分からないんだけど、どうすればお互いを守れるのかとか、どうすればいっぱい幸せになれるかとかは、これから一緒に学んで考えていくからね。
「吉野さん…」
「だからね美和ちゃん」
「はい」
「えっとね、その……わ、私と結婚を前提にするような感じの方向でこれからよろしくお願いします」
「は?」
私はぺこっと頭を下げたけど、美和ちゃんは、は?と言った後何かを言う気配がしなかったので、様子を窺おうと顔を上げてみると、美和ちゃんは私の手を握ったまま大口開けて固まっていた。
まぁそうだよね。生半可な気持ちでは美和ちゃんが首を縦に振らないだろうと思ったからと言って、いきなりそれを伝えたのは我ながらどうかと思うけど、遅かれ早かれ伝えることになった言葉を今言っただけのことだし、私はそのつもりで美和ちゃんと付き合っていきたいと思っているんだから。
言うなれば、今の言葉は決して貴女から離れないという私の宣誓なのだ。
言いたいことはひとまず言えた。だから私は取り敢えず、美和ちゃんが再び動き出すまでこのまま待っていることにした。
今握っている美和ちゃんの手はそのままにしておく。離すつもりなんて欠片も無いけど。
フリーズから復活して再起動した美和ちゃんはとても真剣な表情と口調で私と付き合うと婚期が遅れますよと言った。子供を持つのも遅れてしまいますよとも。
そして、私のせいで吉野さんの人生が台無しになるのは絶対に嫌だと強い口調でそう言ってくれた。
美和ちゃんは私のことや美和ちゃん自身のこと、それに仕事や家族やこの社会、そういった色々な事情にとても真摯に向き合って私を想ってそう言ってくれたのだ。
私はそれを聞くことが出来て、美和ちゃんを好きになって本当に良かったなと思った。
そして私にはこれが美和ちゃん自らが作る最後の壁だと分かった。これを乗り越えてしまえば美和ちゃんと私は結ばれる。
だから私は美和ちゃんに結婚と出産について私が決めたことを話し、私が美和ちゃんをどう想っているかをもう一度伝えた。
私が話している間難しい顔をして聞いていた美和ちゃんは、私が話し終えるとふぅと大きくため息を吐いた。
「私と付き合うということは、さっき吉野さんが言ってくれたようなことが必ずあります」
「うん。私もちょっとは調べたからね。知ってるよ」
「私の気にしていたことを先に言ってくれましたけど、吉野さんは本当にそれでいいんですか?」
美和ちゃんは再び真剣な表情と口調で私に問いかける。でも私にはこの瞬間、美和ちゃんの壁はもう粉々に壊れて消えていることは分かっていた。
これで私達は結ばれる。それが嬉しくて私は笑みを浮かべて言った。
「いいんだよ。それが私の望みだから」
私がそう答えると美和ちゃんは分かりましたと頷いて、握っている手をたわわな胸に抱くように引き寄せた。
「ありがとう」
そう小さく呟いてから私の手を解き、両手を回してそっと私を抱き締めてくれた。その身体が少し震えているなと思ったけど、それは私の方かもしれなかった。私はこうやって女性に抱き締められるのは初めてのことで今少しだけ緊張しているから。
でもこうして美和ちゃんに抱き締められていると、美和ちゃんは凄く柔らかくて髪や身体が凄くいい匂いで私の胸に当たる美和ちゃんの大きな胸になんだかときめいたりと、全身を美和ちゃんに包まれていることに頭がくらくらするくらいの幸せな気持ちが湧いて来て、私の緊張なんて直ぐにどこかに消えてしまって、震えもまた止まっていた。
もしかするとそれは美和ちゃんもそうだったかも知れない。
「好きです」
「私も好きだよ」
私の耳元で囁くように伝えてくれた好きという言葉に、私はとても嬉しくなって思わず美和ちゃんを力強く抱き締めていた。
苦しいけど嬉しいですとまた耳元で囁く美和ちゃんを、私はどうしていいのか分からないくらい可愛いなと思って益々力を入れて抱き締めてしまった。美和ちゃんは少し苦しそうだったけど私は止めなかった。私はその時、どうしても美和ちゃんと一つになりたかった。力一杯抱き締めれば私達は一つになれると本気でそう思ったから。
「穂乃香さん」
お互いに想いを伝え合うと、私達は一度身体を離す。
「美和ちゃん」
私の唇に美和ちゃんの唇が近づいて来て、私は目を閉じて少しだけ唇を開いてそれを迎えた。重なってきたそれは、私の想像を遥かに超えた柔らかさと優しさを、それに美和ちゃんの想いを伝えてくれている。そっと入ってきた美和ちゃんは私と優しくじゃれ合ってくれて、私はもう訳が分からないくらい陶然として夢中で美和ちゃんを求めていた。
暫くして美和ちゃんの唇が離れてもなお陶然としていた私を、美和ちゃんがとても優しい目をして見つめていた。
「抱いてもいいですか?」
その言葉が私を現実へと引き戻す。私は美和ちゃんを少し咎めるように睨む。
「どうしてそういうこと言うのかなぁ?」
雰囲気ってものがあるでしょうと私が膨れているのにも意に介さず美和ちゃんは先を続ける。
「一応礼儀だと思ったんです。穂乃香さん初めてだから…女性、初めてですよね?」
「そりゃあ初めてだよ。って当たり前だよね?」
「で、今直ぐ抱いてもいいですか?」
美和ちゃんはもう止まらないみたいだ。表情は優しいままだけど獲物を捕らえた猛禽類が如きという感じがする。この様子から察するに、美和ちゃんはたちとか言われる方の人なんだろう。
何故私がそれを知っているかと言うと、何を隠そう実は私は万が一にもこうなった場合のことを妄想して夜な夜……考えて夜な夜な勉強していたのだ。検索検索検索検索という感じでほんのさわりを百合漫画でだけどとてもどきどきした。だから私はねこのことだって知っている。
もしこのことを美和ちゃんに伝えたら、流石は私の吉野さんですねと褒めてくれるに違いない。
「いいですか?」
その美和ちゃんは私からまったく目を逸らさない。じっと私に向けられた瞳は瞬きすらも忘れているかのようで爛々と、いや、ぎらぎらと輝いている。
私はこれから起こることの相手が女性であることをやけに気恥ずかしく感じてしまうけど、構わないと思っているし大好きな美和ちゃんになら抱いて欲しいと素直にそう思う。
でもやけにぐいぐいと迫り来る美和ちゃんに少々腰が引けてたじろいでしまった。
「えっと、その…」
「もう我慢できません。抱きます。ベッドに行きましょう」
「う、うん。わかった」
美和ちゃんは返事を聞くなり私の手を引いてリビング続きのベットルームの扉を開けた。何故ウチのここがそうだと分かるのかは分からないけど、美和ちゃんは捕食者たる猛禽類とは違って私を優しく労わるようにそっとベッドに横たわらせてくれた。
好きですと何度も囁いてくれて、私の横に自分も身体を起こすように横になってその唇で私の唇に触れながら服をたくし上げるようにして私の美乳に触れようとしている。私は思わずその手を押さえてしまった。
「ちょっと恥ずかしいかも。私ほら、その…び、美乳だから」
「大丈夫です。微乳なんて私は気にしませんよ。さぁその手を離してください」
「ん?んん?ちょっ、微にゅ」
「穂乃香さん、もう黙って」
そのまま私の声を塞ぐように激しくキスをされて、優しい指で触れられて、囁くように何度も名前を呼ばれているうちに、何か引っ掛かっていた筈の私はそれを忘れて再び陶然となって、自然と美和ちゃんに身を任せていた。一枚ずつ私を覆い隠す布をそっと脱がされて、その度に強くなっていく心地よい感覚。私はその押し寄せる波に息を荒げて身を震わせていた。
美和ちゃんが与えてくれるどれほど続くのかも分からないほどの心地よさに我を忘れていたけど、美和ちゃんが私に合わせてくれた時、私はこれまでにないほどに声を上げてそれが齎らすあまりの刺激により身体を震わせながら、もはや何が何だか分からないくらいの未知の感覚に暫くの間深く溺れていった。
私は美和ちゃんたわわな胸に優しく包まれながら、凄く幸せな満ち足りた気分に浸っている。
初めてということもあってとても緊張していた私を、美和ちゃんは私の体調を気遣いながらとても優しく愛してくれた。
無骨な男性とは違う柔らかな身体や滑らかな肌、繊細でどこまでも優しい指と唇、そしてとても熱かった美和ちゃん自身。その全てが私を包んでくれて愛してくれた。私は今まで味わったことのないその感覚に慄き翻弄されてしまって、あそこまで淫されてしまったのは初めての経験だった。
そして美和ちゃんは私が男性とでは一度も至れなかった頂きまで私を何度か連れて行ってくれた。
「大丈夫ですか?」
私が落ち着くまで頬や額にキスをしてくれた美和ちゃんがそう尋ねてくる。私は美和ちゃんのたわわな胸から顔を上げてその唇にそっと触れた。
「うん。大丈夫だよ」
「そうですか。えと、その、嫌じゃ無かったですか?」
美和ちゃんは声を緊張させていた。薄暗い部屋の中でも私をじっと見つめているのが分かる。私はもう一度唇を寄せて行く。これが答えだよと伝わるように私から少し積極的に絡んでみる。事の最中に何度もキスをしたししてくれたけど、こうしていると好きな人の唇とはこんなにも愛おしいものなのかとあらためて実感する。
やがてお互いの唇は離れてしまって、充たされていた分だけ余計に寂しさが込み上げてきた。
「嫌そうに見えた?」
「いえ。穂乃香さん、凄く気持ち良さそ」
「ちょっとっ、そこまで言わなくていいの」
私は美和ちゃんの声を遮った。
出たよ出たよ。美和ちゃん得意のすっとぼけで無意識に私を恥ずかしがらせようとしているけどそうはさせない。
「でも、あんなに大きな声でもっともっととかいって、痛い痛い。痛いですよ」
私を言葉を無視して更に続けようとする美和ちゃんのちょっとだけお肉が付いて柔らかい脇腹を抓ってやった。
「や、め、て」
「はい」
私が恥ずかしがって少し怒っているのに、なんか凄く怖いですよ穂乃香さんと首を傾げて平然と言って退ける美和ちゃんが何となくほくそ笑んでいるのが分かる。
私はもしかすると美和ちゃんのすっとぼけは計算ずくなんじゃないのとちらっと思ってしまった。
「私のこと好きですか?」
美和ちゃんが突然そんな今更な質問をして私をぎゅっと抱き締めた。美和ちゃんは事を終えてこうして裸で抱き合っていても、私と美和ちゃんの違いをいまだに気にしているんだと思う。
きっとどうしても不安になってしまうのだろう。私としては気にしなくていいのにと思うけど、こればかりは言葉だけではどうにも出来ない理屈じゃない所だから仕方ないことだ。
この理屈じゃない所はいずれ美和ちゃんの不安がなくなるように私が良く見ておかなくてはいけないところだと思う。
私は美和ちゃんには私と恋人になったことを心から喜んで欲しいと思っている。なるべく早いうちにふたりで心から笑い合おうねとそう思うのだ。
「好きだよ。でもね」
「な、なんですか」
「その余所余所しい口調とか止めてくれたらもっと好きになっちゃうかもね。あとね、呼び捨てされたら更に倍だね」
私はそう言って思い切りにやりと笑ってやった。
そんなことを言った吉野さんはとてもいい笑顔だった。私はもう吉野さんに対して壁を作る必要は無くなった。だから喜んでそれを受け入れることにした。それにもっと好きになってくれるなら私がそうしない訳がない。
「なるほどそうきましたか……なら穂乃香も私をちゃん付けしないで」
「おぉぉ。なんかいきなり変わったね」
私が嫌なら元に戻しますと言うと、吉野さんはなんか新鮮だし、仲良しな感じがするからそのままでと笑ってくれた。
「私は元々はこうだから。丁寧だったり苗字呼びはわざとなのよ」
「ふーん。それで私と仲良くならないようにとでも思ってたの?浅はかだねぇ」
「そうだったんだけどね。穂乃香がぐいぐい来るもんだから」
「つまりは私の勝ちということだね」
「そうね。穂乃香の勝ち」
「やったね」
私が苦笑しながら負けを認めると吉野さんは両手を高く突き上げた。
とても嬉しそうにしている姿を見て私もまた嬉しくなった。そしてこの胸に広がって行く愛しさが何にも代え難いものになって、今私を温かく包んでくれている気がしている。
「で、私の名前、呼び捨てで呼んでみて」
「いいよ。簡単だよそんなこと」
吉野さんは簡単だから任せなさいと、ふぁさぁっと片手で髪をかきあげてから私の方を見た。
それから何故だか急にもじもじし始めて、んっうんなんて咳払いをして少し溜めを作った後、じゃあいくよと言って名前を呼んでくれた。
「み、み、美和」
「何それ?ふふふふふふ」
「ふぅ。なんか緊張したよ」
私は心から笑っていた。私にとってこうして好きな人の前で笑うのは本当に久しぶりのことだった。
吉野さんは楽しそうに笑う私を優さしい目をして見つめてくれていた。そうやって美和が笑っていると私はとても嬉しいよとその目が伝えてくれていた。
吉野さんが今夜は泊まって欲しいと言ってくれたので私はそれに甘えることにした。泊まるのに必要な物が幾つか無かったけど、ひとつを除いて後は吉野さんの物を使うことになった。
多分落ち着かなくてすーすーするかも知れないけどそこは吉野さんと一緒に眠るためなら余裕だから。
私達はお風呂に入った後に少し話をした。何が好きとか嫌いとか休みの日には何をしているとか、子供の頃はどんな感じだったのかとかそういうことをより詳細に語り合った。これまで話していなかったことを沢山話して今までより深くお互いを知ることが出来たと思う。
それから今週末に一緒に過ごす約束もした。
「週末何してるの?良かったら映画でも観に行こうよ。デートしようデート」
「嬉しい。けど穂乃香の体調が悪くなかったらだからね」
「ぶー」
「ふふふ」
こんな会話も久しぶりだから私は凄く幸せな気持ちになっていた。
私の家族の話になった時は、吉野さんは私と一緒になって怒ったり悲しんだりもしてくれて私の弟を褒めてもくれた。
その語り合いは凄く楽しかったけど吉野さんは最後に変なことを尋ねてきた。私はすっかり油断していたから焦ってしまった。そんな質問だった。
「ところでさ、実際に触れてみて美和は私の胸ってどう思った?」
「え?っと、微にゅ、美乳かな」
「やっぱり。私って微乳だよね?」
「うん。もちろんよ」
「美和そこ座って。正座ね」
「え。なんで?」
吉野さんは床を指差しながらきょとんと首を傾げている私を疑いの眼差しでじっと見ている。私はその眼差しを平然と受け止めている、筈だった。
けど、私は私達が見つめ合う間に訪れた妙な沈黙に耐え切れずぷっと吹き出して肩を小刻みに震わせてしまった。その瞬間吉野さんが私を睨む。
残念。私のすっとぼけは計算ずくだとバレてしまったみたいだ。
「美和アウト。正座」
こうして暫くわちゃわちゃした後に私達は早めにベットに入った。吉野さんには寝不足は良くないし、私は明日の朝早くに、着替えるために一度自分の部屋に帰らないといけないからだ。
今吉野さんは仰向けで眠っている。その吉野さんがすうすうと立てる規則正しい息遣いを聞きながら、私は隣に寄り添ってその綺麗な横顔を眺めている。
吉野さんはこんな感じで眠るんだなと新しい発見を楽しく思いながら、今この瞬間、吉野さんの綺麗な横顔は私だけのものだとそう思うと眠るのが勿体無くてかれこれ一時間近くこうして眺めてしまっている。
そして私はその綺麗な横顔を眺めながら、どうしたら吉野さんとずっと一緒に居られるのかも考えていたけど、それについていい考えが浮かんで来ることは無かった。
今日、思いがけず吉野さんと結ばれた。私を大好きだと呟いてくれて、本気だと言ってくれて、果てには結婚を前提にするような感じの付き合いを望んでくれた。
それはきっと、ずっと一緒にいようねということを結婚という言葉を使ってより私に伝わるように言ってくれたんだと思う。そして吉野さんはその言葉で自分を縛ったのだと思う。それに当然私のことも。
吉野さんは分かっている。私がこの付き合いがずっと続いて行くことはないと諦めていることを。いずれ何処かのタイミングで吉野さんが私の隣から消えてしまうと覚悟していることを。私と吉野さんの違いがどうしたって私にそう思わせてしまうことを。ふたりで一緒に過ごしている時は意識しなくて済んだとしても離れてしまえばその時は、その違いが不意に私の中で顔を覗かせて、時として私達に影を落としてしまうということを。
だからこそ吉野さんは、まるでプロポーズをするかのように結婚という言葉を使って私に想いを告げてくれたのだ。
そんなことまでしてくれて、何も心配するなと言ってくれた吉野さんには申し訳ないと思うけど、今はまだどうしても後ろ向きなことを考えてしまう。
そして吉野さんは思っている。私が、私達が結ばれたことを凄く喜んではいても、私の事情に巻き込んでしまったことをきっと後悔しているだろうと。
けど、私はもう違うのだ。私はもう後悔はしてはいない。起こったことを悔やんでもそんなことに意味はない。私は恐れているだけだ。今私が心から恐れていることは手にした吉野さんを失うことただそれだけだ。
ああ、だからどうかお願いします。何ものにも私から吉野さんを奪わせないでください。
居るかも分からない神様にそう願いたいほどに私は恐れている。ただそれだけだ。
「美和、眠れないの?」
「そうじゃないけど、ってなに穂乃香、起きてたの?」
気付けば部屋の薄明かりの中で、吉野さんが私をじっと見つめていた。
今私が恐れから浮かべている涙には気付かないだろうけど、その澄んだ瞳は私の全てを見透かしているかのように思える。
「美和、大丈夫だよ。私達はね、なれるよ。幸せに」
「穂乃香…」
「だからね」
「うん」
「ひとりで泣かないで」
私の涙はバレていた。けどそんな風に言われたらもう我慢出来なくなってしまう。私は呻くように声を上げた。
「ううっ」
「おいで。泣き虫さん」
吉野さんは私に腕を回して抱きかかえるようにしてその胸へと私を誘ってくれた。美和みたいにたわわじゃなくてごめんねと苦笑しながら私の髪を優しく撫でてくれた。
そして吉野さんは静かに語り出した。
私は別れる気なんて更々ないけど、それでも私達が続いていくのか思い出になってしまうのかなんて分からないのは仕方ないことだよね。だって未来のことなんて私達に分かる訳ないんだからさ。だから美和が怯えてしまうのはよく分かるしそれも仕方ないことだと思う。
でも、それは他の誰にでも言えることでしょ?付き合っても結婚しても別れちゃうカップルなんて沢山いるんだから。なにも私達のような組み合わせだけが特別そうなる可能性が高いという訳じゃないと思うよ。美和は気にし過ぎなの。今の私達は幸せなの。幸せなんだから笑っていないと勿体ないよ。ね。
美和は私を大変なことに巻き込んだなんて思っているみたいだけどそれは違うよ。私は私の意思で私から美和に飛び込んだんだから、私は被害者なんかじゃないの。私が加害者なの。私を舐めてはいけません。美和が私を巻き込んだなんて思い上がりも甚だしいということだよ。
それに美和はさ、自分だけが私達が付き合う上でのお荷物みたいに思っているようだけどそれも違うよ。私も病気持ちだからきっと迷惑を掛けると思うんだ。美和がお荷物なら、健康面から言えば私も同じお荷物なんだよ。それでもしも私の病気が酷くなって生活する上で何か支障が出たちゃったら、そうしたら美和は私を捨てて何処かへ行ってしまうの?違うでしょう?
私達はお互いにちょっとした問題があるだけで、それをお互いに補完し合っていけばいいと思うんだよ。
それに大事なことは別れに怯えていることじゃなくて、どうしたら私達が幸せになれるかをちゃんと考えることだけだよ。
まだ分からないって言ったけど、結局私達の辿り着く先は私達が私達自身で決めるんだよ。それならさ、かも知れないことを怖がって怯えているよりもふたりで楽しく笑い合って其処へ向かって行く方が良いと思うんだ。そうしたらきっと行き着く先は幸せなんだよ。だって楽しく笑い合っているんだからそうならない筈がないでしょ?
ねぇ美和。きっとこんなこといくら口で言っても不安はなかなか消えはしないだろうけど、私はいつも美和に言うよ。
「私はずっと美和の傍にいるよ。だから心配しないで笑っていてね。愛してる」
私は泣いていた。だから少し遅れて私は声を絞り出す。
「わだじ、も、あい、じでる」
ありがとう。だからさ美和。来年も五年後も十年後も二十年後もその先も、ずっと変わらず隣で笑っていようね。
「ね、美和。それでいいでしょ?」
吉野さんの言葉に頷きながら私はずっと泣いていた。吉野さんに優しく抱かれたまま、眠りに着くまでずっと涙を流していた。そして知らぬ間に眠ってしまった。
だけど私は明日の朝、目が覚めた時からその先は、きっと新しい私になれるとそう思っていたことは覚えている。
終わり
読了お疲れ様でした。
美和と穂乃香のお話はこれで終わりです。
読んでくれてありがとうございました。
しは かた