清美
帰り道、幹夫の足は重たかった。
来る途中はデートの緊張で逃げ出したいくらいの気分だったが、今は家路につくのがイヤになるくらいだ。
『清美』の父親は彼女を『魔女』と称した。だがそれは彼女を形容するに適切と言える言葉なのだろうか。これまでの彼女の言動を見るに、幹夫にはそれが正しいとは思えなかった。
別に、あの父親に悪意があるとも思えない。多分彼は本当に幹夫の事を心配しているのだと思う。『再び、身体の乗っ取りを起こすのではないか』と。
だが、彼女はあの時確かに言った。「夏まで生きられないかも知れない」と。
その言葉を真に受けるのであれば、彼女は『次』を企んでいるワケでは無いように思える。仮に幹夫を『次の依代』と考えているのだとすれば、どんな方法を使うのか知らないが、そんな事を言わずに隙を見て乗っ取れば済む話ではないか。
いったい、彼女に何があるんだろうか。どんな想いで幹夫に『異常な低体温』を教えようとしたのか。混乱するばかりだった。
幹夫は来た道を逆に辿って近くの地下鉄駅にやってきた。そしてキップを買ってホームに入る。遅い時間帯だ。次の電車まで、まだ時間がある。
とぼとぼとホームを歩く幹夫の眼に、ホームの椅子にひとりポツンと座る女性の姿が写った。
そう、彼女だった。とっくに帰ったと思っていた彼女だが、ホームに座ったままじっとしていたのだ。コートこそ着ているが、その姿に黒メガネとマスクはない。
「・・・・。」
彼女は線路の方を向いて黙ったまま下を見ているが、ホームに幹夫がやって来たのを察してるのであろう。じっと、座ったままだ。
幹夫は意を決して、彼女のもとに向かった。そして、何事でもないように隣に腰掛けた。
「・・・。」
幹夫もまた、何も掛けてやれる言葉が無かった。
口を切ったのは、彼女の方だった。
「・・・・どうして?」
相変わらず目線はこちらを向かず、下を向いたままだ。
「え?」
幹夫が短く聞き返す。
「・・・『お父さん』と話をしたんでしょ?ゴメン、見てた。聞いたんでしょ?私の事。だったら、何故此処に来たの?無視してくれて・・・良かったのに」
『無視すれば』というセリフに合わない、最後は消え入りそうな声だった。
逆方向のホームに、電車が入ってくる。
「うん・・・自分でも良く分からない。何故か知らないけど『此処に来なくちゃ』って思ったんだ」
「そう・・・馬鹿ね、アナタって。聞いたでしょ、私は『魔女』なのよ?そんなのの横に居ていいの?」
彼女が自虐的な口調で尋ねる。
「それは分かんないけど・・・でも、少なくとも『あなた』は僕に『そういう目的』で近づいたワケでは無いと思ったんだ。何となくね。何か別に理由があったんじゃないかって。そう思うんだ」
「ん・・・・」
肯定でも否定でもない、彼女の返事は曖昧だった。
「・・・馬鹿ね。ホント、馬鹿・・・」
彼女は俯いている。泣いてるのかも知れない。
多分、彼女は僅かな期待に賭けていたのであろう。幹夫が全てを知って、それでも自分の所に来てくれるのではと。
普通に考えれば、それは全く有り得ない事だ。何しろ、自分の眼の前にいるのは『清美』の姿こそしているが『何者』どころか生き物として有り得ない『化物』なのだから。
更には自分が『乗っ取られて』殺されてしまうかも知れない。それを知ってなお、彼女の元に幹夫がやってくる確率は、ほぼゼロとするのが妥当であろう。
「話は・・・あの・・・お父さん?から聞いたよ。元は看護師だったって?」
幹夫が話を振る。何かこう、雰囲気を変えるキッカケが欲しかった。
「ん・・・そうね。『ひとつ前』はそうだったわ・・・」
手で顔を拭うような仕草をして、彼女が顔を上げる。ただ、それでも幹夫の方を向こうとはしない。
「『私』・・・はね、正直に言うと『私自身』が何者なのか、自分でも分からないの。何しろ自分以外に『こういう人』に出会った事が無いから。多分『こんなの』は世界に私一人だけなのだと思うわ」
それは、想像を絶する孤独に違いない。
自分以外に仲間と思える者が居ないのだ。この広い世界に、ただの一人も。
自分が何者であるのかを告白したり悟られたりすれば、その瞬間に自分の命運は尽きてしまう。『害虫』や『害獣』の一種として乗り移る前に殺されるのがオチだ。そう、相手がよほどの馬鹿でもなければ・・・だ。
そのため、彼女は常に自分を偽りながら生きるしか方法が無い。それが逆に、自分の心に深い孤独を生むことになってしまう。その深さは、常人に察する事が出来る範囲を超えているに違いない。
「『私』はね。・・・他人に乗り移ると、最初は『以前の私』の記憶・人格が前に出てくるの。だからどうしても記憶の混乱が起きて・・・暫くは記憶と人格の整理が大変なのよ。それが時間が経つにつれ、徐々に『乗り移った側』の記憶とか人格と融合されていき・・最終的には『以前の私』の人格や記憶は薄れて、最後には完全に失われてしまうのよ。だから、今はもう『看護師だった私』の記憶はほとんど残っていないわ。・・・自分の名前すら、出てこないほどに。だから・・・聞かれても分からないの。ゴメンね」
幹夫には返す言葉も無かった。
これほどの『業』を抱える者に、何と言ってやれば良いのだろうか。自分ではあまりに経験不足過ぎて、何も思いつかなかった。
「『私』は何時からこの世に居るのかしら。もう、自分でも何も覚えてないわ。数百年前なのか、それとも数万年も前からなのか・・・・でも、終わりが近い事は確かね。・・・『この身体』は、もういくらも『持ちそう』にないから」
やはり、と幹夫は思った。
彼女は、死にかけている『清美』の身体を無理矢理に延命させているのだ。恐らくそれは代謝を極限にまで低下させる方法なのだろう。若い身体は代謝が高いので病気の進行も早くなるのだ。
なので、それを逆手にとって代謝を落とすことで延命を図っていると見ていい。だから『体温』が無いのだ。ただ問題は、それがいったい何の為にそんなことをしているのか・・だが。
そして。彼女は『次』を望んではいない。
このまま『清美』のまま最後を迎える覚悟のようだ。それは、単に『お父さん』との約束だけが理由なのか、それとも何か別に想いがあるのか・・・それ以上は、彼女は語らなかった。
「さ、電車が来たわよ」
彼女が立ち上がる。そして幹夫を促すと二人で電車に乗り込んだ。
電車が走り続ける間、二人は何も語らなかった。
「じゃぁ・・ね。また今度」
先に、彼女が電車を降りる。
幹夫は小さく頷くと、閉まる扉のこちら側から手を振って彼女を見送った。