錯乱
次の週、幹夫はいつも通りに『チェイン』に入った。
そして、いつもの席に座ると、いつもように彼女が注文を取りにやってくる。
幹夫は普段と同じように「ホットを・・・・」と言い掛けて、思い留まった。
そう、今日はひとつだけ『いつも通りではない事』があった。
「ホット・・・チョコレートを・・・」
少し気恥ずかしい気もするが、何しろ彼女の『オススメ』である以上、無視は出来ない。とりあえずお付き合いはしておかないと。
当の彼女は何事も無かったかのようにカウンターに戻り、幹夫の注文をマスターに伝えた。
「へ?」
マスターがキョトンとしている。マスターは幹夫の顔を見て「どうせホットコーヒーだ」と決めて掛かっていたものだから、早々にコーヒーを注ぐ準備をしていたのだ。
それが今日になって突然『チョコレート』なんて言う思ってもみないオーダーだったものだから、呆気にとられていたのだ。「何でそんな注文が出るんだ?」と。
が、しかし。
よくよく考えれば、この店にホットのチョコレートが有るという『情報源』は『ひとつ』しかない。そう、彼女だ。そう気がついたマスターはニヤリと、意味深な笑みを浮かべる。
「ふー・・ん。そう・・・あっそう。チョコレートね・・・なるほど、なるほど」
無論、それ以上は何も言わないが『何処かで気さくに話をする機会があったのだ』位は想像に難くないだろう。
何というか、顔から火が出そうなくらいに幹夫は恥ずかしい気がした。とは言うものの「いえ、そういうアレでは無いですから」とワザワザ否定するのも可笑しな話だ。
仕方なしに、幹夫は出てきたホットチョコレートに口を付ける。
甘っ・・・!
それが第一印象だった。
彼女はコレがお好みのようだが、こんな甘ったるい物を常飲していたら糖分の取り過ぎで病気になるのを心配しなくてはいけないレベルだと思う。
困ったな・・・今更「変えてくれ」というワケにも行かないし・・・
とりあえず、幹夫は一口だけ口をつけたカップを横に置き、ルーチンワークになっている勉強に取り掛かることにした。
ところがだ。
暫く経ってみて、ひとつ気がついた事がある。
確かにそれは甘ったるくて飲みにくいのだが、逆に言えばそれだけ『長い時間を掛けて飲める』とも言えるのだ。
それに、チョコレートはコーヒーと違って、少々冷めても苦にならず飲む事が出来る。コーヒーならば温くなってしまうと極端に味が落ちるので、最後は一気に飲むしかないのだが、そういう心配をしなくていい。
なるほど、良く々思い返してみれば彼女はあの時『案外イケる』とは言ったが『美味しい』とは言わなかった。あの『イケる』というのはつまり『勉強向きだ』という意味であったのか。
幹夫はふと、頭を上げた。すると、それに気づいたのか彼女もこちらを向いて「にっ」と口角を上げて笑ってみせた。それは、この店で初めて見る彼女の戯けた顔だった。
幹夫は笑いながら軽く手を振ってみた。
彼女もそれに呼応するように小さく2~3回手を振り返すと、再び何事も無かったように勉強に戻った。
生きている幸せっていうのは『こういう事』を言うのか、と幹夫は感じていた。
確かに、ホットチョコレート1杯の値段はコーヒーよりも随分高いから、ある意味うまく店の経営に貢献させられているような気もするが、そんな事はどうでも良かった。
彼女との『つながり』を感じられる味がするのであれば、それで充分だった。
だがしかし。
その幸福感は意外なほど短い内に幕を閉じた。
その日、大学の講義が終わって帰路に着こうと校門を出た時だった。
ひとりの男が幹夫の前を塞ぐように立ちはだかったのだ。
その男は大ぶりなコートに黒の中折帽子を被っていた。よく見えないが、ある種の貫禄を感じる。男は何も言わず、黙って帽子に片手を添えたまま下を向いている。その様子は顔を隠したいようにも見えた。
何だこの人・・・?
幹夫は訝しがる。
「・・・あの、失礼します」
男の横を通り過ぎようとした時だ。
「・・・『あの女』にこれ以上、近づくんじゃない」
嗚呼も憂うも無い、断定的な命令口調だった。
「え?」
幹夫は聞き返す。いったい、この男は何の話をしているのだ?多分、誰かと勘違いをしているのだろう。迷惑な事だと内心、ため息をつく。しかし、男には確信があるようだった。
「・・・身に覚えが無い事は無いだろう?チェインのウェイトレスだ。忠告しておく。『あの女』にこれ以上近づくな!」
「いや・・あの・・・?」
幹夫には何が何だかサッパリ分からない。いきなり『そんな事』を言われて『はいそうですか』と退散できるハズが無かった。何か理由を聞かないと。
だが、男は幹夫の疑問を遮った。そして、思いもよらないセリフを投げ掛けてきたのだ。
「いいな?絶対だ。・・・・『死にたくなければ』、・・・だ」
・・・・っ!
幹夫は絶句した。
尋常な警告ではない。多分、男の『それ』は単なる脅しや比喩ではない。本気の『忠告』なのだと分かる。何故なら、そう語る男の声が微かに震えているのが分かるからだ。
何も言い返す事が出来ず立ち尽くす幹夫を後ろに、その男はそれだけ言うと足早にその場を去って行った。