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年末の瑣末事情。

作者: 枕くま。

【率直に物を言うのが、そんなにまで好きだったら、僕はざっくばらんに言うが、君のその病気は至るところで飛んだ喜劇を仕出かすぜ。】(人間ぎらい/モリエール/内藤濯 訳)

■1.


 年の瀬の迫る頃、街はすっかり浮かれ気分に浸っていた。居酒屋の立ち並ぶ駅前の辺りは、思春期に返り咲いた中年のサラリーマン達が赤ら顔で大笑い、各々の不安を蹴散らそうと肩を組んで列をなしている。近くに大学があるため、やはり若者の入りも激しい。あちこちで軽薄な言葉が飛び交い、女を酔わせて連れ帰ろうと眼光を怪しく尖らせている。伊藤も、そうした学生達と同じ身分でありながら、だからこそ同じようには浮かれていられないと己を律していた。単に、共に馬鹿騒ぎをやってやれる人間が傍にいなかっただけの話ではあったけれど。そんな伊藤でも、年末となると年の憂さを存分に晴らしてやれと云う知り合いに誘われ、忘年会の一つや二つは付き合わざるを得ないのだった。

 以前に行った忘年会は酷いものだった。どこぞの金持ちの坊が大学の日蔭者を挙って発足したと思しき文学愛好会とか云う時代錯誤の会が興った。伊藤は参加を拒んだのだが友人に懇願され、名前だけ貸していた。どうやら、日蔭者の中にもみっともなさを避ける常識人が多いらしく、会はサークルと認められる程度の人数しか集まらなかったようだった。

 週に五回も会合があり、空き教室を渡り歩いて細々とやっている。めいめいが好きな文学者や作品を挙げ、褒めそやすのが常である。伊藤は一度だけ参加したが、血色の悪いうらなり顔が互いの傷を舐め合う様など見ていられなかった。誰誰の何何と云う作品はナントカの耽美的な抒情性を踏襲しており素晴らしく高尚であるとか、何だか薄気味悪いことばかり云い合っていて、伊藤は背筋が寒くなった。近頃の流行を斜に見て貶す雰囲気があったことも忌避したくなった要因の一つだった。いやに大声で話すので、廊下を通る人が騒ぎを聞いて中を覗き見る度に伊藤は恥ずかしさで死にそうになった。

 以降は適当な嘘を並べて欠席し続けた。初めから名前を貸すだけと云う約束だったので、会から積極的に参加を促されることもなかった。

 そうして一年が過ぎたのだが、忘年会には参加するようにとお達しがあった。実家に帰るにしてもまだ早く、特に予定もなかったため、伊藤は深く考えずに参加を決めた。友人が一人居るので、虚しい思いはせずに済むだろうと思ったのだ。しかし、それは間違いだった。いざ会場の居酒屋に着くや、友人の姿がなかった。傍に居た幹事にそれとなく訊ねると、家族に不幸があり、一足先に故郷に帰ったのだそうだ。下手な嘘を吐くものだと呆れ、伊藤もすぐに帰りたくなったが、他の面々がそれを許さなかった。酒を飲み、気分だけでも盛り上げておこうと杯を空け続けたが、いつにも増して聞くに堪えない文学論を延々聞かされ、段々と苛立ちだけが募っていった。そして、ついに奴等は触れてはならない部分に触れたのだった。

「それにしても、近頃流行りのナントカ云う作家は駄目だな」

 会長の男が青い顔を朱に染めて云った。酒は日本酒以外飲まんと云いつつ、苦い顔で御猪口を呷った。伊藤は会長の方を見た。そのナントカ云う作家が自分の御贔屓だと瞬時に察した為だった。

「ナントカってのは、アレのことかい」

 伊藤が訊ねるや、会長は猫が子鼠を玩具にするような愉快そうな笑みを浮かべて、「詩情がないんだ」とのたまった。この会長は小説を評する際に、詩情詩情と喧しいので、影では詩人さんと呼ばれていると伊藤は友人から聞いていた。

「あんたの云う、詩情性とは何だ?」

 伊藤が食い付くと、周囲に幽かな緊張が漂った。詩人はチンケな物でも見るような目で伊藤を見やった。

「俺の云う詩情とは、作品の根底に流れるムードって奴だよ。君も読書家の端くれなら、わかるだろう?」

 余りにも得意げに語るので、伊藤は挑発的に笑った。

「その曖昧な物云いでわかった。君は随分と見栄っ張りだね」

「何だと?」

「おい、伊藤。止めておきなよ」

 隣に居た幹事が伊藤の肩を押さえた。だが、伊藤は口を噤むつもりはなかった。

「お前は怖いだけだ。昔の作品なら、お偉い先生方がすっかり太鼓判を押して、作品評価がひっくり返る心配もない。たとえそうなったとして、いくらでも後ろ盾があるんだ、適当に受け流せると云うわけだ。わかる奴だけわかればってさ」

 後のことは余り憶えていない。伊藤も煩わしい御高説を振り切ろうと随分と酒を飲んでいた。詩人と掴み合いになり、他の会員に引き離され、幹事から良いから帰れと云われたような憶えがぼんやりとあった。

 店を放り出されて、寒空の下、どのように借家に帰ったかわからない。酷い渇きと宿酔いの不快感に目を覚まし、きちんと帰り着いている自分にまず驚いた。そして、昨夜の出来事を思い返したが、頭痛と吐き気の中、曖昧になっていることに煮え切らなさを感じた。云い負かしてやった気もする。記憶には残っていないので、苛立ちだけが胸の内に虚像としてあった。右目に残った青タンがじくじくとした痛みで敗北を嘆いている。

 四日が過ぎても、伊藤の怒りは収まらなかった。右目の痛みのせいだ。自分では確かに云い負かしたと思っているのに、青タンの野郎がすっきり飲み込ませてくれないのだ。道行く人が一々伊藤の顔をちらと見て過ぎていく。まったく腹立たしい限りだった。

 今日はまた忘年会があった。四日前のような不本意な会でなく、それなりに親しい仲間が集う好ましいものだった。あの日、会に出なかった友人も出席する筈だった。二三、詰問を受けるだろう。余り不機嫌面をして、行くのも悪い。そう思いながら、伊藤は上着の襟を立たせた。

 冬の夜空は粉雪が舞い、力強い風の勢いと共に人々の緩み切った赤ら顔にサッと水を差していく。きっと、神様も浮かれた人間が嫌いなのだと思った。そう云う人間達のせいで、己にとばっちりが来ていると思うのは、少々思い上がりが過ぎるだろうか。伊藤はしばらく考えるふりをしたが、瑣末に過ぎて次の寒風の間にころりと忘れてしまった。

 四日前と、まったく同じ道を行くのは、少しだけ気が進まなかった。

 記憶の欠落と宿酔いの苦しみを思い、今日は酒は止そうと思った。

 鼻を鳴らして、歩みを急ぐ。

 予約されていた店に入り、幹事の名を告げて案内を受ける。廊下をいくつか過ぎて部屋に着くと、既に四人の顔馴染みが席に着いていた。伊藤は反射的に笑みを浮かべてしまい、右目の痛みに幽かに呻いた。あの友人はまだ来ていないようだった。空いた場所に座り、掘り炬燵に足を下ろした。案の定、右目のことを聞かれ、伊藤は笑い話にでもしてしまおうとあの日の会合について所々脚色し、語った。詩人には腹が立つが、相手の知らないところで過剰に悪く云うのも憚られ、右目については、記憶にないが、やられつちまったらしいとはぐらかしておいた。

 皆の近況に耳を傾けていると、店の人が鍋と食材を運んできた。それを見た鍋奉行が目の色を変えて待ち受けた。詩人の目の輝きを思い出し、伊藤は微かに顔を顰めた。

「何だこれは、水炊きだ? 馬鹿野郎、こうも寒けりゃキムチだチゲだ色々あるだろう」

 毎年の忘年会を鍋で行うとは、鍋奉行の提案なのだった。率先して仕切るだけあって、手際もよく、実際従った方が巧くことが運ぶ。長い付き合いの中で、皆それを知っているのだ。しかし、伊藤にしてみれば先日の件がちらついて仕様がなかった。

「市販の出汁を使ってんじゃねえだろうな」

「そんなこと、いいじゃないか」

 伊藤は思わず声に出していた。他の面々が好きにやらせとけよと赤ら顔で笑った。

「いや、そうはいかねえ。どうせ鍋を食うならな。鍋は何と云うか、ただ食材をぶち込むだけじゃいけねえ。気品がねえと、高尚さがねえと、どうもいけねえ」

「高尚さって奴は、お前のような凡人にはわからなくって良いことさ」

 伊藤が云うと、鍋奉行は快活に笑った。

「これは俺なりの流儀って奴だ」

 棘のある皮肉を云い、一番戸惑ったのは伊藤自身だった。素面で下手な口を聞くとは、思っていなかった。余程腹に据えかねているのだ。伊藤は詩人と鍋奉行を同列に見た己を恥じた。冗談と受け取った鍋奉行は、また何かぐちぐちと云っている。

「よお、やってるな」

 そこに、文学愛好会員の友人が遅刻をものともせずにやって来た。いつも遅刻や欠席を繰り返すが、注意や批判をのらりくらりとかわしてしまう友人を、皆ノラと呼んだ。

「来たな、ノラ」

 伊藤が云うと、ノラは伊藤の右目を指して、にやりと笑った。そして、伊藤の隣に座った。鍋奉行は別の相手に向けて、鍋の素晴らしさを説うている。皆、聞き流したり、煽ったり、酒を飲んだりで忙しそうだった。ノラと伊藤の会話は店の喧騒に紛れて、誰の耳にも入らなかった。

「中々大袈裟にやったもんだ。詩人の奴、随分とお冠だったぜ」

「構うものかよ」

 伊藤は吐き捨てるように云った。

「ああ、構うなよ。決して構うな」

 ノラの言葉は伊藤の内にあった種火に水を引っかけた。伊藤は微かに笑った。

「なあノラおい、伊藤には厭味ったらしく云われたがよ。鍋の高尚さについてお前もちょっと聞いていけ」

 鍋奉行が云うと、ノラは気さくな笑いを上げて、

「高尚さなんて、いらないのさ。問題はうまいか、うまくないかだ」

 それを聞いた伊藤は、すっかりその通りだと思えた。詩人への怒りも、詩人に対して発した懐古主義の否定も、鍋奉行の仕切る鍋の美味そうな匂いと皆の酒臭い吐息の中へ、ふわりと溶けてなくなった。

 ノラと鍋奉行は冗談交じりに云い合っている。伊藤にはそれがとてつもなく遠い場所で起きている出来事のように思えた。喧騒が遠退いていた。

 先日のことが、思い起こされた。酔っぱらった伊藤と詩人の云い合いは議論としては最低で、二人は等しく馬鹿だった。店を追い出された後、足を滑らし、硬い路面に額を打ち付ける瞬間の肝が冷える感覚がすぅっと蘇る。伊藤は少し自嘲の気を出して、ちょっと笑った。

「すっかりその通りさ」

 喪失を確かめるように、伊藤は一人、呟いた。


 2015年の頭くらいに友達にキーワードを三つ出して貰って、書いたもの。鍋と炬燵と店、だったかな。短いながら、当時に書きたいと思ったことが書けたのでたいへん満足していた。またなんか思い付かないかなと、思いながらも暮れる日々です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] すごく丁寧に書かれていて、読みやすかったです。 しっかりした文章力ですねー!うらやましい!
2016/02/01 19:25 退会済み
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