選択の整合性
死の川を渡り行く船頭達が、幾度も手を招いて誘ってくる。甘い誘惑に負けないため、その都度、彼は川の水をすくって顔を洗い、それが放つ生々しい鉄の臭いで意識を保つのだ。
必死に目指した希望の光は絶望の始まり。レンを待っていたのは、数えることも嫌になる程の魔物の群れである。その集団のおぞましい叫び声が耳に入っていたのにも関わらず、彼は一心に光を目指し、歩みを止めなかった。それ程、その時の彼は切迫していた。
狡猾な目を持つ狼。翼を広げる小さな爬虫類。二足歩行の牙獣。地を這う巨大な多足類。様々な魔物が暗く湿った空間で互いを潰し合っている。おそらく、各種の領土を広げるための縄張り争いだろう。その中心地がまさにここである。
当然のことながら、その地に足を踏み入れた彼は否応なしに襲われた。
真っ先に反応したのは狼である。そいつはレンの顔を目掛けて突進してきた。彼は間一髪で回避したのだが、その仰け反った体勢を崩すように別の狼が脚を噛む。堪らずレンはその場に倒れ込み、二匹の狼が体に乗っかってきた。素の力で振り払おうと試みるが、押さえ込まれてどうにもならない。
「……!?」
左肩に牙が食い込む。さらに胸部、腹部を鋭い爪で引き裂かれた。
激痛に打ち負かされそうになる直前で、レンは極鍛術の使用を決意する。
一瞬、何かが彼の中をよぎったが、それを無視し、力を体に余すことなく巡らせ、意識は中央に、中心に向けた。
そして、彼の目は黄金色に輝き、微かな淡い光が全身を纏う。さっきのような吐き気は襲ってこない。
レンは全力で、顔に牙を向ける一匹の狼を頭突きで振り払い、肩を噛んでいる狼を右の拳で殴り飛ばした。その際、二匹の血が彼の体中に降り注がれる。頭突きをされた狼の頭は原型を留めていなく、また、殴り飛ばされた狼も、おかしな方向に四肢が曲がっていた。
レンは立ち上がって周囲を見渡す。
地獄絵図。これほど醜い光景を今まで目にしたことはなかった。虫は毒液を吐き散らしながら牙獣に巻きつき、その膠着状態にある二匹を爬虫類が炎で丸焼きにする。かと思えば、その爬虫類は狼達に囲まれ、あっという間に亡骸と化した。ある所では、地面に転がる爬虫類の肉をめぐって、牙獣と牙獣が争い、また別の所では、蜘蛛が糸を張り巡らせて、その他の虫を捕食していた。
凄惨な悲鳴と飛び散る肉片。滴る体液に、むごい悪臭。
初めて体感する出来事だ。きっと……いや、どうだっただろう。分からない。
魔物は次々と襲い来る。レンが奮闘して倒した数は十、二十くらいだろう。それでも、その数は全体の十分の一にも満たず、どこまで続いているか分からない、どこまで深いか分からない闇の中から、さらにおびただしい数の魔物が出てくるのであった。
レンはその場から離れることを決心し、来た道を戻る。後ろを振り返っても何もなかった。無残な黒だけ。しかし、それでも地獄にいるよりは良いだろう。進んできた道を辿るというのは、とても辛いことだ。全てが正しくなかったことのように思えて堪らない。
傷だらけの体を引きずる形で魔物の群れに背を向ける。だが、それをのうのうと逃すほど現実は甘くなかった。後ろから追って来る魔物が数体。
満身創痍で走るレンの視線の先に、突如、青い炎が宿った。それを見て、魔物は後ずさりし、地獄へと引き返していく。
「もしかして……」
「誰!? 誰か、誰かいるの!?」
レンは炎に向かって叫ぶ。
「フェリシア! フェリシアだろ!」
「レン!?」
徐々に近付いてくる光と共に、フェリシアが泣き出しそうな顔をして姿を見せた。
「よ、良かった……本当に良かった……。私、てっきり死んだのかと……」
「ん~っと、どっちの意味?」
フェリシアは呆気にとられて、しばらくの間、剣に青い炎を纏わせながら黙っていた。
「どっちもよ」
「そっか! じゃあ大丈夫だ!」
「何が大丈夫なんだか」
安心した様子で少し微笑み、彼女は地面に落ちている肉片が付いた骨を拾って、その先に火を移す。その後、もう一つ骨を拾って、それにも青い火をつけた。
「はい。松明」
「え、これ?」
「そうよ。暗かったら歩けないでしょ? いつまでも魔法使ってちゃ、私の体がもたないしね。それに獣は火を嫌うのよ」
「あー……うん。そりゃ骨まで焼かれればね……」
複雑な表情でレンは手に握った松明を見つめる。
「レンも落ちてきたの?」
「え、フェリシア、自分で突っ込んで落ちたの? ドジっ子?」
「違うわよ! ってか、突っ込むって何? 私はトラップにかかって落ちたのよ」
「ドジっ子じゃん」
「ちが……はぁ、もう行きましょう」
そう言ってレンの姿を見たフェリシア。
「な、何! どうしたのよ! あんた大丈夫!?」
今まで暗がりでよく見えなかったが、松明に照らされた今ならしっかり見える。レンの体は傷だらけで、左の肩からは止めどなく血が流れていた。全身が血まみれで、臭いもひどい。
その姿は、まるで、あの時の。
前にもこんなことがあった。
そう、前にも……。
二度と、二度と、あんなことには。
誓ったはずだ。
誰かを犠牲にして自分だけ生き残るなんてこと、絶対にあってはならない。
絶対に。
「私が……今度は、私がちゃんと守るから」
「フェリシア……」
苦しそうな顔をするフェリシアの前で、いきなりレンは上半身裸になる。
「え、ちょっと! え?」
レンは脱いだボロボロの服を自らの肩に縛り付け、止血した。
「心配すんな! 守るのは男の仕事だからな! 女は黙って守られとけ!」
笑ってなだめる彼の姿は、こんな闇の中でも明るい。
「レン……」
「お? なんだ? 惚れた?」
「臭いわ」
フェリシアは清々しい笑顔をレンに向けた。
「どっちの意味?」
「どっちもよ」




