三 日本へ
三 日本へ
日本へ帰る四艘の遣唐使船は、すでに乗員の割り振りが決められていた。ぼくと羽栗は第一船に乗り込むことになった。鑑真和上は密かにどれかの船に乗っているはずだ。
いよいよ出航、誰もが甲板に出て盛んに手を振っているとき、ぼくは第二船の屋形の中に潜んでいる鑑真を見つけた。ぼくは無性に鑑真に会いたくなった。戒律についての自分の修行の成果を聞いて欲しかった。会いたい。会ってもっと話をしたい。出発直前、ぼくは第一船から飛び降り第二船に向かって駆け出した。後ろから羽栗の声が聞こえた。
「ナカマロ! どないしてん!」
ぼくは、岸から離れる直前の第二船に飛び乗った。
ぼくと鑑真は屋形の中で向かい合っていた。盲目の鑑真はそこにぼくがいることを知ると、静かに「朝衡殿、わたしとともに日本に行きましょう」と言った。
出航して三日目、ぼくと鑑真は後方の甲板に並んで座って海風にあたっていた。
「朝衡殿、日本に帰られてまずなにをなさるおつもりかな」
「そうですね。まず、東大寺にできたという大仏をこの目で見たいと思っています。金色に輝く大仏って、どんなものか、楽しみです」
「言うまでもなくわたしの目的は、日本の僧に戒律を授けること。じゃが――、それが叶わないかも知れぬ」
「どういうことでしょう」
「朝衡殿、頼みがある」
「はい――」
「もしも――、もしものことだが、この渡航で、わたしが死ぬようなことがあれば、あなたに授戒師をお願いしたいのです」
「なっ、なんと言うことを。和上が死ぬなんて……。それにぼくには、人に戒律を授ける資格などありません」
「授戒というのは人に人の道を伝えること。仏になぞらえて人の生き方を教えることです。あなたにはそれができる。授戒師としての資格は十分にあるのだよ」
「和上、和上自身が日本に行く。これは歴史上の定めじゃないですか。和上がそうおっしゃっていたじゃないですか」
「そう、そのはずだった。だが歴史は少し狂った。朝衡殿がこの船に乗ってこられたときから……。朝衡殿は結局日本に帰れなかった――というのが真の歴史だ。だか、朝衡殿が今この船に乗っている。この船は日本にたどり着く。このままでは歴史が狂ったまま流れていく。どこかで、つじつまを合わさねばならない」
「……」
「つまり――、わたしが日本に行くか、朝衡殿がわたしに代わって日本に行くか……」
ぼくはただ黙っていた。
「ああ、大洋の風は気持ちがいい」
鑑真は伸びをするように立ち上がり、体一面で風を受けとめようと手を広げた。
「和上、そこで立ち上がるのは危険でございます。どうぞお座りください」
「なあに、それほど強い風ではない。気持ちいいじゃないか」
手を広げた鑑真は座ろうとしなかった。袈裟の袖が大きくたなびいていた。
そのときだ。船がぐらっと揺れた。
「あっ、危ない!」
伸びをしていた鑑真の体が、前回りするように船の向こうに回った。ぼくは海をのぞき込んだ。海面に浮かぶ鑑真の姿があった。船は順風を得て前に進み、鑑真は後ろへ後ろへと下がっていく。
ぼくは叫んだ。
「止めろ! 船を止めろ! 帆をたため! 和上が落ちた!」
船員は一斉に救助活動を始めた。帆をたたむ者、足場に飛び降り櫓を逆向きに漕ぐ者、体に縄を結びつけ海に飛び込む者。船の勢いは止まらず鑑真との距離はますます開いていく。鑑真は顔だけを海面に出していた。水を吸った袈裟が体の自由を奪う。足をばたつかせ、顔だけを出してかろうじて息をしていた。しかし、その顔にも波は容赦なく覆っていく。
飛び込んだ男は鑑真にあと少しというところまで差を詰めていた。もう少し、もう少しで届く。がんばってくれ。
そのときだった。ひときわ大きな波が鑑真を包み込んだ。ぼくは、あらん限りの声で叫んだ。
「和上! 鑑真和上!」
海は非情だった――。その後、鑑真が海面に見えることはなかった。
次の日、ぼくは甲板に座ってひたすら瞑想を続けた。ぼくが第二船に移ったばかりにこんなことに……。鑑真和上にどう償えば良いのだろうか。ぼくが授戒師となることで償えるのだろうか。太陽を見つめ考え続けた。強烈な太陽光はぼくの目を完全に焼き切った。
ぼくは同乗していた遣唐副使に鑑真とのやりとりを話した。副使は言った。
「朝衡殿、あなたが鑑真の代わりに授戒師になるのではありません。あなた自身が鑑真和上として生まれ変わらなければならないんです」
なんと、鑑真の弟子たちまでもがぼくに鑑真になってくれと願ったのである。ぼくは袈裟を着、髪を剃った。そして鑑真和上としてよみがえった。
第二船は日本に着いた。後になって、第一船は遭難して安南島まで流されてしまったことを知った。歴史書には、なぜかその中に朝衡こと阿倍仲麻呂がいたと記録された。
奈良の都に到着したぼくは、東大寺の戒壇で授戒を行っていった。金色の大仏を見ることはできなかったが、巨大な大仏がぼくを見下ろす空気は感じることができた。
日本に戻って五年、唐招提寺ができた。ぼくのための寺だという。
さらに三年が経った秋、ぼくは忘れかけていた遠い昔のことを思い出した。
「思託、思託はおるか」
「はい、ここに控えております。ご用は」
「秋篠川の橋の上に行きたい」
「秋篠川――でございますか。寺からは近うございますし、お易いことですが、日も暮れてまいりました。翌朝になさってはいかがでしょう」
「いや、今行きたい。つれて行ってはくれまいか」
ぼくは弟子の思託につれられて秋篠川に向かって歩いていった。遠い将来、下極楽橋と呼ばれるようになるこの橋の上で、ぼくは座禅を組み瞑想を始めた。思託も横に座って目を閉じたようだ。しばらく経ってぼくはたずねた。
「空の様子を話してはくれまいか。もう陽は沈んだか」
「はい、西の空が真っ赤に染まり、夕焼けが雲のまわりを美しい橙で包んでいます。東の山には満月が昇ってまいりました。その月に向かうかのように鳥が集団で飛んでいるさまもまた美しく……。もし、和上のお目が見えれば……」
「いや、見える、見えるぞ。西には生駒山、その南に陽が沈むさまが。南には薬師寺の東塔、西塔。東は三笠山、春日山、高円山。満月も夕焼けに映えた雲も見える。なんと、なんと美しく懐かしい風景か――」
ぼくの目から、一粒の涙がこぼれた。
思託は、ぼくがどうして日本の風景を知っているのか不思議に思ったことだろう。ぼくの目からは、涙がもう一粒もう一粒と流れていた。ぼくは続けた。
「遠い昔の思い出。千二百年以上先の遠い昔……。自転車道を行こう。公園で縄跳びする人、砂場で遊ぶ子供。少し進めば小さな池、刈り入れが終わった田んぼ、レンガ色の三階建てマンションも見える。対岸には二階建て住宅が建ち並び、北へ行くと都跡小学校。国道を渡り阪奈道路を越えるとまた池がある。犬を連れた人がやってきた。奈良ファミリーが見える。佐伯門跡の北から平城宮跡に入って進むと、そこに息をのむ風景があるはずだ。左右に大極殿と朱雀門、正面には若草山、春日山、少し右にイトーヨーカドー。後ろにはテレビ塔が建ち並ぶ夕陽に焼けた生駒山、遠くから聞こえるのは阪奈道路を走る自動車の音、ああ、向こうから近鉄特急電車が走ってきた……」
陽はどんどん沈み、やがてその赤みも消えていった。
ぼくの瞼からはぼろぼろと涙がこぼれていた。
二十一世紀、秋、鑑真和上御廟の前で手を合わすぼくの耳に老人の声が聞こえてきた。
(ここが懐かしかった。ここに帰ってきたかった)
ぼくは、はっとして後ろを振り返った。しかし、そこには誰もいなかった。
御廟に来たときいつも奇妙な気持ちになる。赤の他人とは思えない親しみ、これはいったいなんだろう。ずっと前から不思議に思っているが、ぼくには理由はわからなかった。
奈良――、そこには天平時代の人々の喜びと悲しみが埋まっている。
そしてそこには、春日山に昇る月に魅せられた未来人の思いも詰まっていた。