一 時の穴
みかさの山にいでし月
おだアール
一 時の穴
はてさて、まずはお断りしておかねばなるまい。この物語はいかにも歴史小説風に描かれているが、まったくもってフィクションである。作者は聞きかじりの歴史上の人物を適当に並べ、これまた聞きかじりの史実をもとに適当なストーリーを作ったというだけである。したがってもし、読者がこの物語を真に受けて、だれかに知識をひけらかし鼻で笑われる結果になったとしても、あるいは日本史試験でことごとくバッテンとされ単位を落とす結果になったとしても、作者にはまったくあずかり知らぬことである。
ではお楽しみあれ。
唐招提寺――、言うまでもなく唐の高僧、鑑真和上が建立した寺。その鑑真の墓は寺の北東、苔むす森を抜け池にかかる小さな橋の先、木々に囲まれた中にある。
御廟の前で手を合わせていると、いつもぼくは思う。仏像にお参りするときの気持ちとは違う、他人の墓とは思えないような親しみがわいてくるのはなぜだろうか――、と。
唐招提寺の近くにぼくの家はある。大学生のぼくはいつも、秋篠川沿いに大和西大寺駅まで自転車で行って、そこから近鉄に乗って通学する。下極楽橋から自転車道を北に走る。公園や池やマンションや畑や……、そんな景色を見ながら進み、国道を渡り阪奈道路を横切ればいっぺんに景色が開けるところがある。平城宮跡の中に浮かぶ朱雀門、その向こうに若草山や春日山が見える。
秋の夕方、いつものように自転車道を走っていると後ろからぼくを呼ぶ声がした。
「おーい。ナカマローッ」
振り返ると友人の羽栗。小学生のころ親友を誓い合ったぼくらは、今でもナカマロ、ヨシマロと呼び合っている。「仲良し」のナカとヨシからつけたニックネームだ。羽栗が言った。
「夕陽、きれいやんけ。ちょっと、平城宮跡、寄っていこうや」
佐伯門跡の北から平城宮跡に入り線路側の道をしばらく進むと、朝堂院正門の基壇跡がある。左に大極殿、右に朱雀門、正面には若草山、春日山が望める絶好のポイントだ。
今日は満月、真っ赤に染まった月が春日山に浮かぶ。真っ青な空にうろこ雲がオレンジ色に輝いていた。人の心にしみ入るような、そんな景色だ。
平城京に遷都して六年、大極殿にて第八次遣唐使が任命された。一緒に唐に行く留学生として、阿倍仲麻呂など三名が選ばれた。仲麻呂は十九歳、当代きっての秀才だった。
翌年の一月、東国での用事を済ませた仲麻呂とその家来が、大雪の山中を都に向かって歩いていたときのことだ。一行は突然現れた山賊に襲われた。持ち物を奪われ抵抗した者は容赦なく斬り捨てられたという。家来数人が命からがら都に逃げ帰ってきたのは翌日のこと。家来の話では、阿倍仲麻呂と従者の羽栗吉麻呂は傷が深くすでに息絶えていたとのことだった。
ぼくはずっと月を見つめていた。いつの間にか真っ赤な夕焼けは消え、満月は星々の中に浮かんでいた。
「帰ろか……」
「せやな……」
ぼくらは若草山を背に自転車を押して歩き始めた。まわりには誰もいなかった。
突然、地面がなくなった。落とし穴? ではなく無重力。宇宙空間のような深海のような。大極殿も朱雀門も満月も星々も、ビルの明かりも自動車のエンジン音も……、なにもかもが一瞬で消え失せた。濃い灰色のなにもない世界。そんな世界にぼくらはいた。
その世界でぼくは見た。一面灰色の中で少し薄いところ。「穴」だ。穴はあちこちにポコポコと、上下に左右に動き、大きくなったり小さくなったり……。穴のひとつがぼくの目の前にきた。穴の中が見えた。そのときぼくは、ぼくの身になにが起こったかを知った。
ぼくらは穴に吸い込まれた。ふたりそろって地面に放り出された。再び現れた地面。重力もある。見上げると星々の中に浮かぶ満月があった。
「助かったあ」と思ったあと、なにか様子が違うことに気がついた。ビルの明かりや生駒山の上にボオッと光る大阪の光がない。自動車の騒音も聞こえない。目の前にあった近鉄電車の線路がなくなって、逆にいくつもの建物が出現していた。
「その方たち、なにをしておる」
木立の向こうに数人の男。ひとりは馬に乗り、残りは槍とかがり火を持っていた。ぼくはその光景を、映画でも見るように眺めていたのだと思う。
「流人か、盗人か。妙な格好をしておる。異国の者か。名は何と申す」
「ア……、アベといいます」
「なに、アベとな」
ひとりの男が、かがり火を近づけてぼくの顔をのぞき込んだ。男は急に驚いた表情になって後ろに下がり、馬上の男になにか話しかけた。馬上の男はどうやら上役のようだ。羽栗が「ナカマロ、どないなってんねん」とぼくにたずねた。
「ほら、仲麻呂とおっしゃっておられます。間違いございませぬ」
男は興奮した様子で上役に言った。上役は馬からおりて、直接、ぼくの顔をのぞき込みにきた。そしてぼくの顔を見るなり、はじめの男と同じように、後ろに下がりひざまずいたのだ。
「これは失礼つかまつりました。山賊に襲われたとの報でお身を案じていたところでございます。ご無事でなによりでございます」
とっさに、ぼくは言った。
「わたし……、わたしは何者なんでしょう」
男たちは顔を見合わせた。羽栗は黙ってぼくらの会話を聞いている。
「襲われたときの衝撃で、記憶をなくされたのかも……」
「記憶? ああ――、なにも思い出せません」
「まずは、ゆっくり休まれるとよろしいかと。さすれば記憶を戻されるやも知れませぬ。ともかくお屋敷へ参りましょう。ここは寒うございますから」
かがり火を持った男たちについて行きながら、羽栗が小声で尋ねてきた。
「いったい、どういうことやねん」
「ぼくら、タイムスリップしたんだよ。ヨシマロも見ただろ。プカプカ浮かぶあの穴、あれがいろんな時代への出口だったんだよ」
「そうか――。やっぱり」
「ぼくら、奈良時代の出口に落ちたらしい。で、どうやらぼくは、あの有名な阿倍仲麻呂にすり替わったようなんだ。たぶん顔もそっくりなんだろう」
「それで、あの男、びっくりしてたのか……」
「さっきあの男から聞かれて、ぼくはとっさに、記憶喪失を装った。その方が怪しまれないと思ったからね。ともかく、もう少し状況つかまなきゃ」
ぼくは屋敷だというところについて行った。屋敷の者の話では、今は霊亀三年、ぼく阿倍仲麻呂は羽栗吉麻呂を従えて唐に行くことになっているのだという。
「ナカマロが留学生で、俺が従者ってか……」
「ぼくの家来ってのが、不服かい」
「まあな、せやけどそんなこと言うてられへん。しゃあない、あきらめるわ」
「ここにいたら、いつかぼろ出だしてしまうかも知れない。考えようによっては、ぼくら、中国行った方がいいような気がする」
「そりゃそうや。もともと知らん人ばっかりやからな。ところで俺、ほら、あそこ――、『時の穴』とでもいうたらええんか。あそこ落ちて、時間っちゅうもんが完璧にわかった気するわ。あそこには時っちゅうもんがあれへん。時間の流れというものがないとこやった」
「そうだ。落ちた者には簡単にわかる――。時間移動ってこんなに単純だったのかって」
「俺、もし、もういっぺんあそこ落ちたら、好きな時代に出られると思う。もちろん、二十一世紀にもな」
未来に戻れる唯一の手段は、もう一度時の穴を見つけること。ただ時の穴は、いつ、どこに現れるかわからない。ぼくらは誓った。もし見つけたらどんな状況にあってもためらわずに飛び込もう、と。