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 健康状態。

良好にチェックをつけ、続けざまに他の項目にもペンを走らせていく。

ここ二ヶ月ばかり同じことの繰り返しでつけてきた診断書。流れ作業にも似たチェックを繰り返し、最後の項目で青柳は手を止めた。

備考欄。

確か、昨日もここで手が止まった。

通常の実験動物ならば何も書かずに提出するだけでいいが、上からミネルラの備考欄は確実に記入するようにと通達を受けている。

ペンで頭を掻きながら青柳はマジックミラーの向こうにある白い部屋に目を向けた。

壁だけでなく天井や壁も白くできている無菌室。生活臭のしない部屋には天井に一つ監視カメラがついている以外は何も無い。

その部屋のちょうど中央にミネルラは立っている。

人の形をした狼。

簡単に表すとそうなるだろう。

人の形をしながら全身を毛で覆い、二足で立っているものの異様なほどに背が曲がっている。獣特有の尖った口先から白い牙が見え、常に一定の涎を両端からこぼしていた。

獣よりも獣らしい化け物のくせに、目だけは人間らしいから困る。白目の中に浮かぶ黒目は妙に落ち着いている。呆けていると言ってもいい。その視線がどこに向けられているかと思えば何も見るものがないはずの天井である。部屋と同じく真っ白な天井を日がな一日見つめている。

正常な見識を持った人間ならば気が狂ってしまうであろう所業をミネルラは半年もの間続けている。

天井を見ているからこうなったのではない。初めからこうなのだ。この部屋に入れられてからミネルラは飽きることなくじっと天井を見つめていた。食事の時だけ貪るように食い散らかし排便は垂れ流す。それでも、この動物以下の化け物には価値がある。

ミネルラの口から垂れ続ける涎がどろりと人形に垂れかかった。

幼児向けの玩具だ。最初は白くて小奇麗な布製の犬の人形だったが、今では小汚い布の塊にしか見えない。動物専門の精神カウンセラーである香織が与えたもので、どうにかアクションを起こさないかと与えた結果がこれだ。

ただの汚物が一つ増えた。ミネルラとは違う異臭を放つ布の塊でしかない。

さて、備考欄には何を書こうかと迷いながらペンをさまよわせていると観察室の扉が開いた。扉のそばで青柳の助手にあたる五島が挙動不審な態度で部屋の中をうかがっている。

「どうかしたか?」

「ミネルラの診断を書いてるんですか?」

 青柳の問いには答えずおどおどした言葉で訊いてくる。しょぼしょぼとした目は診断書に向けられていた。

「備考欄に書くことがなくて困ってたところだ」

「今日はまだ帰らないんですか? 確か結婚記念日ですよね」

「これが終わったら帰る」

「そうですか」

五島は青白い顔をしていた。疲れているようにも見える。実験動物の世話は他に任せればいいと言っているにも関わらずいうことを聞こうとしない。

「今日の結果はどうでしたか?」

「変わらないよ」

「見ていなくても分かります。今日もほうけているんでしょ。馬鹿みたいに天井を見つめているんでしょ。僕たち仲良しだから知ってるんです」

 一瞬、動物の匂いが鼻をついた。頻繁に実験動物と接している五島の匂いだろう。ガラス越しにミネルラの匂いが伝う理由はない。

「キメラはやっぱりキメラなんですね。何を混ぜようが欠陥品しか作れないんです」

 卑下な笑い声を出しながら五島はにやける。

「……俺達のどうやったら欠陥品を作らないようにするかだ。こいつを観察するのは欠陥品を作らないで済む手掛かりがあるかもしれない。そんな無理難題を押し付けられてる。こいつに人間と同じ思考能力があるなら本部に連れて行かれて筋肉から脳神経まですべて解剖される」

「青柳さんはそれがお望みなんじゃないんですか」

 ペンを走らせる。備考欄には「人形が汚い。衛生的に考えて処分する必要性あり」と書き込んだ。

「怒りましたか?」

「怒ってないよ」

「……そうですか」

 自分で聞いておきながらまるで興味がないように視線を逸らした。その視線の先にはミネルラしか映っておらず、五島の口元はにやけるように上がった。

「何がおかしい」

「いえ、ミネルラが僕に合図をくれたんですよ。今日も元気だよって。ここは平和だよって」

 マジックミラーの方を向くが、ミネルラは先ほどと同じように天井を見つめている。

「気味が悪いことを言うな……なあ五島、お前もうここに泊まり込んで何日になる」

「さあ、一週間ぐらいですかね」

「たまには家に戻ったらどうだ。言ったら悪いが、匂うぞ」

「いいんです別に、僕は」

 周りの迷惑を考えろという手前で何とか口をふさぐ。

どう注意すれば受け止めてくれるのだろうと模索していると今まで突っ立っていたミネルラが突然に動き出した。のろのろと酔っぱらいのような千鳥足で部屋の隅まで行くとそこにうずくまる。

手には人形を持っているのか、それを動かしているように見える。その後ろ姿はままごとをしている子供のようだった。

「人形にでも発情してるんですかね」

 ひひ、と五島は短く卑下な笑い声をあげた。

「……気味の悪いことを言うな」

 隅に移動してうずくまってすでに一月ほどだろうか。最初はカメラの死角になっているので見えずもやもやとした日々が続いた。

 真っ黒になったその人形を矯めつ眇めつしているだけだ。動物の精神カウンセラーでもある香織が言うには精神を安定させているとのことだが、本当のところは誰にもわからない。

「でも実際にそうだったらどうします?」

「何の話だ」

「人形ですよ。あれを与えてからミネルラは一時も人形を離そうとしませんよね。取ろうとすれば暴れる。本当に恋人と勘違いしているんじゃないですか。もしくは仲間、もしくは子供。大きさ的に子供の線が大きいですかね」

「馬鹿なことを言うな」

 そんな動物らしい感情がこいつにあるわけがない。

「決めつけはいけませんよ。いつも言ってるじゃないですか、青柳さんが。先入観は持つなって。それなのにどうしてミネルラに関係するとそんなに依怙地になっちゃうんですか。分かりかねますね」

「黙ってろ」

「そんなに睨まないで下さいよ。きっと、ここでミネルラに思考能力がないって思おうとしているのは青柳さんだけなんじゃないですかね」

 乾いたが音がした。気がつくと握っていたペンが二つにおれている。自分で折ったということより、それほど自分が苛立っていることに困惑した。それでもその感情を抑えることはできず、かすかに歯ぎしりがなる。

「怖い怖い」

口ずさみながら五島はドアから離れる。それでも苛立ちは収まらず、青柳は鼻で大きく息をして折れたペンを叩き付けた。

「馬鹿馬鹿しい!」 

 この化け物に知識があるわけがないじゃないか。マジックミラーを拳で叩き付け、最後に大きく息を吐いた。

「……馬鹿は俺だ」

 こんなことで調子を狂わせているようではいけない。

少し休もう。ドアを開けて出ようとしたとき、刺すような視線が背中に刺さるのを感じた。

 振り返るが、そこには部屋の隅で人形遊びに性を出すミネルラの背中しかない。

「疲れているな」

 頭を押さえて休憩室の方に進む。自然に閉まる監視室のドアが閉まった。

 


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