表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒板係は、江口桜次郎の名前を書く ――閉ざされた同窓会で、処女作どおりに人が死ぬ――  作者: 神谷利休|アコンプリス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/17

第九章 狂気の真贋

 相沢真帆が消えた。

 江口桜次郎は、最初、その事実を理解できなかった。

 照明が落ちた。わずか数秒だった。食堂のざわめきが、一瞬だけ闇に沈んだ。すぐに明かりは戻った。白い照明が、テーブルの皿やグラス、床の木目、人々の青ざめた顔を再び照らした。

 その時には、相沢真帆はいなかった。

 さっきまで、江口のすぐ隣に立っていた。

 彼女は、手にスマートフォンを持っていた。十四年前の記事の保存画像を見つけたと言った。内田春斗の名前が表示されていた。低い声の放送に呼ばれ、「旧図書準備室へ来なさい」と名指しされた。相沢は震えながらも、はっきりと言った。

 行かない。

 絶対に行かない。

 その言葉は、まだ江口の耳に残っている。

 なのに、彼女はいない。

 床には、スマートフォンだけが落ちていた。

 画面は点いたままだった。白い光の中に、記事の見出しが浮かんでいる。

 関東地方の私立高校で男子生徒死亡。

 その下に、相沢のメモがあった。

 内田春斗。十六歳。慶早大付属高二年。旧校舎にて死亡。

 江口は、しばらくその画面を見つめていた。

 周囲で誰かが息を呑んだ。

「相沢さん?」

 園田美月の声だった。

「相沢さん、どこ?」

 水嶋沙耶が椅子を倒しそうな勢いで立ち上がった。

「真帆?」

 誰も答えない。

 食堂は、一瞬で混乱に変わった。

「今、いたよな」

「どこ行ったの」

「トイレじゃないのか」

「一瞬で?」

「誰か、見た?」

「照明が消えた時に出ていった?」

 声が重なっていく。

 江口は動けなかった。

 自分の足元だけ、床が水になったようだった。立っている感覚が曖昧になる。頭の奥で、またチョークの音がした。

 きい。

 黒板を擦る音。

 いや、違う。

 それは今、現実に聞こえた音なのか。

 それとも、頭の中だけなのか。

 分からない。

 江口はスマートフォンに手を伸ばしかけた。

「触らないで」

 鋭い声がした。

 園田だった。

 幹事としての責任感が、恐怖より先に出たのだろう。顔は真っ白だったが、声だけは強かった。

「それ、相沢さんのスマホでしょう。証拠になるかもしれない」

 江口は手を止めた。

「証拠」

 自分の口から出た声が、ひどく遠い。

 園田は頷いた。

「二階堂くんが戻るまで、そのままにして」

 二階堂。

 そうだ。

 二階堂壮也はいない。

 江口の隣にはいない。

 さっき、旧放送室の確認へ向かった。鷺沼館長代理、スタッフ二名、青山怜司、朝倉航平、水嶋沙耶と一緒に行く流れだった。だが、水嶋は食堂に残っている。途中で、放送の恐怖に耐えきれず戻ったのか。いや、違う。江口の記憶が混ざっている。

 江口は周囲を見た。

 食堂にいるのは、江口、園田、水嶋、黒須、牧瀬、他の同窓生たち。二階堂、青山、朝倉、鷺沼たちは旧放送室の確認へ向かったまま戻っていない。

 二階堂がいない。

 それだけで、食堂の床が半分抜け落ちたように感じた。

「今、相沢さんの隣にいたの、江口くんだよね」

 誰かが言った。

 江口は声の方を見た。

 六十六回生の女性だった。名前は覚えていない。懇親会の時、別のテーブルで誰かと笑っていた顔だ。いまはその笑顔が消え、目だけがこちらを向いている。

 その一言で、食堂の空気が変わった。

 江口に視線が集まる。

 疑い。

 恐怖。

 期待。

 説明を求める目。

 誰かが続けた。

「何か見なかったの?」

「相沢さん、どっちに行った?」

「江口くん、近くにいたんでしょう」

「止めなかったの?」

 江口は口を開いた。

 言葉が出ない。

 見ていない。

 そう言えばいい。

 照明が消えて、戻ったらいなかった。自分は何も見ていない。相沢がどこへ行ったのか分からない。

 それだけのことだ。

 だが、その単純な説明が、喉を通らなかった。

 本当に見ていないのか。

 白いシャツの少年を見た。

 食堂の入口に立っていた。顔のない少年。照明が落ちる直前か、戻った瞬間か。相沢を見ていた。そんな気がする。

 あれは現実だったのか。

 幻覚だったのか。

 江口は、自分の目を信用できない。

「見てない」

 ようやく声が出た。

 だが、その声には力がなかった。

「本当に?」

 牧瀬が言った。

 演劇部の舞台装置に詳しいという男だ。懇親会では旧体育館の緞帳や照明の話をしていた。人のよさそうな顔をしていたが、今は明らかに江口を警戒している。

「江口くん、さっきから変だよな」

 別の男が言った。

「幻が見えるとか言ってなかったか」

「それに、最初の事件も江口くんの小説と同じなんだろ」

「アリバイもはっきりしてないって」

 声は小さかった。

 だが、食堂のあちこちから漏れる。

 小さい声ほど始末が悪い。誰が言ったのか分かりにくいからだ。言葉だけが空気の中に残り、責任を持つ人間がいない。

 江口は椅子の背に手を置いた。

 指先が震えている。

 水嶋が江口の前に出た。

「待って。江口くんが何かしたとは限らないでしょう」

「限らないだけだろ」

 牧瀬が言った。

「相沢さんは江口くんの隣にいた。照明が戻ったら消えていた。なら、一番近くにいた江口くんに聞くのは当然じゃないか」

「聞くのと疑うのは違う」

「でも、本人が覚えてないんじゃどうしようもない」

 その言葉が、江口の胸に刺さった。

 覚えていない。

 金曜日の午後もそうだった。理科準備室へ行った記憶がない。五十嵐に紙コップのことを聞いた記憶がない。黒い水の中に名前があったと話した記憶がない。

 今も、数秒の暗転の中で、自分が何をしたのか完全には分からない。

 相沢に触れたか。

 呼び止めたか。

 声をかけたか。

 あるいは、何もしていないのか。

 普通なら迷う必要のない問いが、今の江口には確信できなかった。

「江口くん」

 園田が震える声で言った。

「本当に、相沢さんがどこに行ったか知らない?」

「知らない」

「触ったりは」

「してない」

「本当に?」

 その問いに、江口は一瞬だけ遅れた。

 それだけで十分だった。

 園田の顔に、恐怖が広がる。

 江口は言い直した。

「してない。少なくとも、覚えている限りでは」

「覚えている限り?」

 牧瀬が言った。

「それ、怖すぎるだろ」

 食堂にざわめきが広がった。

 水嶋が苛立ったように言う。

「やめなよ。江口くんだって混乱してる」

「混乱してる人間が、一番近くにいたんだぞ」

「だからって」

「じゃあ、相沢さんはどこへ消えたんだよ」

 誰も答えられなかった。

 江口は食堂の入口を見た。

 ロビーの奥には、旧校舎へ続くガラス扉がある。その向こうは黄色い照明に沈んでいる。旧職員室、旧保健室、記念廊下、図書準備室。そこへ相沢が行ったのか。

 放送は言った。

 旧図書準備室へ来なさい。

 相沢は行かないと言った。

 でも、消えた。

 では誰が連れていった。

 どうやって。

 食堂の照明が消えていたのは数秒。出入口までは数メートルある。相沢が走ったなら誰かが気づく。誰かに連れ去られたなら抵抗の音がする。叫び声もない。

 まるで、彼女だけが暗闇に吸い込まれたようだった。

 そんなことはあり得ない。

 あり得ないことが起こった時は、あり得ることの組み合わせを探せ。

 江口は自分に言い聞かせた。

 だが頭が回らない。

 耳の奥で、声がする。

 欠席者を確認します。

 相沢真帆。

 旧図書準備室へ来なさい。

 江口桜次郎。

 作者を呼べ。

 まだ流れていないはずの声まで、混ざって聞こえる。

 江口は額を押さえた。

「江口くん、座った方がいい」

 水嶋が言った。

「顔色が」

「大丈夫」

 口癖のように言ってしまい、すぐに苦くなった。

 水嶋は何も言わず、椅子を引いた。

 江口は座らなかった。

 座ったら、そのまま動けなくなる気がした。

「とにかく二階堂くんを呼ばないと」

 園田が言った。

「旧放送室に行ったんだよね」

「誰かが呼びに行くしかない」

 牧瀬が言う。

 しかし、誰も動こうとはしなかった。

 旧校舎へ行く。

 その行為自体が、いまや恐怖の対象になっていた。

 食堂からロビーを抜け、ガラス扉を開け、B棟の冷たい廊下へ入る。中原修一の遺体がある旧職員室の近くを通り、階段を上がり、旧放送室へ向かう。

 その道筋を想像するだけで、空気が重くなる。

 江口が行くべきだと思った。

 二階堂を呼ぶ。相沢が消えたことを伝える。旧図書準備室を確認する。そうしなければならない。

 しかし、江口が動けばまた疑われる。

 それに、二階堂から言われている。

 旧校舎へ行くな。

 犯人はお前を動かそうとしている。

 その言葉が、江口の足を止めた。

 その時、ロビーの方から足音がした。

 複数の足音。

 江口は顔を上げた。

 二階堂たちが戻ってきた。

 先頭は二階堂だった。顔が険しい。その後ろに鷺沼とスタッフ二人、青山、朝倉が続く。水嶋は食堂に残っていたのでそこにはいない。青山の表情は落ち着いているが、朝倉は苛立った顔をしていた。

 二階堂は食堂に入るなり、空気の異変に気づいた。

「何があった」

 江口が答える前に、園田が言った。

「相沢さんが消えた」

 二階堂の目が鋭くなる。

「消えた?」

「照明が一瞬落ちて、戻ったらいなかった。スマホだけ床に」

 二階堂は江口を見た。

 問い詰める目ではなかった。

 まず確認する目だった。

「お前は」

「隣にいた」

「見たか」

「見てない」

「本当に?」

 江口は喉を鳴らした。

「白いシャツの少年は見た」

 食堂が静まった。

 二階堂の顔に、わずかな苛立ちと不安が浮かぶ。

「どこで」

「食堂の入口。照明が落ちる直前か、戻った瞬間か、分からない。顔は見えなかった」

「他に見た人は」

 誰も答えない。

 水嶋が首を振る。

「私は見てない。でも真帆は確かにいた。明かりが戻ったらいなかった」

 二階堂は短く息を吐いた。

「相沢さんのスマホは」

 園田が示した。

「床に。まだ触ってない」

 二階堂は頷き、ハンカチを出してスマートフォンを拾った。画面を確認する。

「十四年前の記事か」

「相沢が見せようとしていた」

 江口が言った。

 二階堂は画面を一瞥し、それから周囲を見た。

「食堂から出たのを見た人は」

 返事はない。

「走る音や扉の音は」

 返事はない。

「相沢さんに触れた人は」

 誰も動かない。

 牧瀬が言った。

「江口くんの隣にいたんだろ」

 二階堂の視線が牧瀬へ向く。

「それは確認中です」

「いや、みんな見てた。相沢さんは江口くんの隣にいた。照明が戻ったら消えてた。江口くんは自分でも覚えてないって」

「覚えてないとは言ってない」

 江口が言うと、牧瀬は少し怯えたように引いた。

「でも、さっきそういう感じだったじゃないか」

 朝倉が口を挟んだ。

「この状況で江口を外して考えるのは無理がある。最初の事件は江口の小説と酷似している。本人にもアリバイの穴がある。相沢さんはその小説と十四年前の事件について話そうとしていた。そして江口の隣から消えた」

「朝倉」

 二階堂の声が低くなる。

「事実を整理しているだけだ」

「整理と誘導は違う」

「違わないこともある」

 二階堂と朝倉の間に、冷たいものが流れた。

 青山が静かに言った。

「まずは相沢さんを探しましょう。疑いを口にするより、安否確認が先です」

 その言葉で、食堂の空気が少しだけ戻る。

 二階堂は頷いた。

「旧放送室の確認結果は後で共有する。相沢さんが呼ばれたのは旧図書準備室だったな」

 水嶋が震えながら頷く。

「放送で、そう言ってた。真帆は行かないって言った」

「旧図書準備室を確認する」

 二階堂は言った。

「ただし、少人数で行く。鷺沼さん、スタッフ二人、青山先生、朝倉。俺も行く」

「私も行く」

 水嶋が言った。

「真帆のことだから」

「駄目です」

 二階堂は即答した。

「ここにいてください。あなたまで動くと混乱する」

「でも」

「お願いします。相沢さんのスマホにある情報を、後で確認してもらう必要があります」

 水嶋は唇を噛んだが、頷いた。

 江口も一歩前へ出た。

「俺も行く」

「駄目だ」

 これも即答だった。

「相沢は僕に資料を見せようとしていた」

「だからだ」

「またそれか」

「またそれだ。犯人はお前を動かそうとしている。中原さんの現場でも、お前の小説を使った。相沢さんの消失でも、お前の名前と小説を使っている。ここでお前が旧校舎へ行けば、犯人の筋書きに乗ることになる」

 江口は言い返せなかった。

 二階堂は続ける。

「それに、お前は今、容疑を向けられている。自分で分かってるな」

「分かってる」

「なら、ここにいろ。水嶋さんと園田さんの近くに。黒須さん、牧瀬さん、あなたたちもここから動かないでください」

 黒須は頷いた。

 牧瀬は不満そうだったが、何も言わなかった。

 二階堂たちは食堂を出た。

 今度は、江口は追わなかった。

 追えなかった。

 ロビーの明かりが彼らの背中を照らす。ガラス扉が開く。B棟の冷たい空気が、一瞬だけ食堂の方へ流れてきた。旧校舎の黄色い灯りが、彼らを順番に飲み込んでいく。

 扉が閉まる。

 食堂は再び、待つ場所になった。

 待つことほど、人を疑わせるものはない。

 水嶋は入口近くに立ち、両腕を抱えていた。園田は名簿を開いたまま、何度も相沢の名前を見ている。黒須はカメラの画面を確認しているように見えたが、実際には何も操作していない。牧瀬は落ち着きなく食堂内を歩き、他の参加者は小さな集団を作って江口を見ないように見ていた。

 江口は椅子に座った。

 足元が遠い。

 指先が冷たい。

 内ポケットの薬ケースが、異様に重い。

 飲みたい。

 そう思った。

 音が近い。光が刺さる。自分で自分を制御できないような感覚がある。鴻上は、そういう時は頓服を使ってよいと言った。

 だが、水がない。

 二階堂と約束した。出所不明の水は飲むまない、と。

 江口は内ポケットに触れないように、両手を膝の上で握った。

 時間の感覚が曖昧になった。

 五分だったのか、十分だったのか。

 それ以上だったのか。

 食堂のスピーカーは沈黙していた。

 雨音だけが続いている。

 その沈黙を破ったのは、スピーカーではなかった。

 ロビー側からの叫び声だった。

 男の声。

 朝倉か、鷺沼か。

 江口は反射的に立ち上がった。

 水嶋も園田も顔を上げる。

「今の」

 水嶋が震える。

 江口はもう動いていた。

「江口くん、駄目!」

 園田の声が背中に刺さる。

 だが止まれなかった。

 相沢がいる。

 図書準備室。

 自分の小説。

 十四年前の事件。

 内田春斗。

 それらが一本の線になり、江口の足を旧校舎へ引っ張った。

 ロビーを抜ける。

 ガラス扉を開ける。

 冷たい空気が顔に当たる。

 B棟の廊下は黄色い照明に沈んでいた。旧職員室の前は封鎖されている。中原修一の遺体がある場所を、江口は見ないように走った。だが、視界の端に黒板の白い文字がちらつく。

 一時間目、出席を取ります。

 江口は階段を上がった。

 床板が軋む。

 呼吸が乱れる。

 胸が苦しい。

 二階へ上がると、記念廊下のガラス展示ケースが光っていた。

 そこに自分の姿が映る。

 青ざめた顔。

 乱れた髪。

 胸元の名札。

 江口桜次郎。

 反射の中で、同じ名前がいくつも増える。

 江口は走った。

 図書準備室の前に、人が集まっていた。

 二階堂がこちらを振り返る。

 怒鳴ると思った。

 だが、怒鳴らなかった。

 その顔を見て、江口は分かった。

 怒るより先に、何かを見てしまった顔だった。

「桜次郎」

 二階堂の声は低かった。

 来るな、とは言わなかった。

 もう遅いと分かっていたのかもしれない。

 図書準備室の扉が開いていた。

 中は暗い。

 懐中電灯の光が、床の上を不規則に照らしている。

 江口は扉の前に立った。

 古い木製棚。

 積まれた段ボール。

 壊れた地球儀。

 壁の奥の、四角く塞がれた痕。

 そして部屋の中央に、相沢真帆が倒れていた。

 黒いバッグがそばに落ちている。

 周囲には紙が散らばっていた。

 江口は、その紙を見た瞬間、息が止まった。

『黒板係は、四度名前を書く』

 自分の処女作のコピーだった。

 表紙。

 本文。

 黒板に名前を書く場面。

 出席簿から名前が消える場面。

 架空の学校で起きる、架空の殺人。

 その頁の上に、相沢は横たわっていた。

 喉元には、細い赤い線があった。

 目は開いている。

 口元には、何かを言いかけた形が残っている。

 江口は動けなかった。

 相沢は、もう江口に何も話せない。

 十四年前の事件についても、青山や鴻上についても、自分の小説との類似についても。

 机の上に、赤黒い文字があった。

 血で書かれていた。

 四時間目、作者を呼べ。

 黒板係は、江口桜次郎を待っている。

 江口は自分の名前を見た。

 食堂のスピーカーで流れた言葉と同じだった。

 自分の名が、血の色で書かれている。

 視界が揺れた。

 二階堂が腕を掴む。

「触るな」

 江口は頷くこともできなかった。

 喉の奥が詰まる。

 胃が反転しそうだった。

 自分の小説が、相沢の死体の周囲にばらまかれている。

 これは偶然ではない。

 誰かが江口を呼んでいる。

 誰かが江口を事件の中心に置こうとしている。

 いや、もう置かれている。

 朝倉が低く言った。

「これで、江口を外して考える方が難しくなったな」

 二階堂が朝倉を睨む。

「黙れ」

「事実だ」

「黙れと言った」

 青山が静かに口を開いた。

「今は、相沢さんのためにも現場を守りましょう」

 その声は落ち着いていた。

 落ち着きすぎていた。

 江口は青山を見た。

 青山は相沢の遺体を見ていた。哀悼の色がある。少なくとも、そう見える。だが、その感情は水面のように滑らかで、底が見えない。

 その時だった。

 図書準備室の奥の壁から、音がした。

 ごとん。

 江口は息を止めた。

 壁の中。

 見学の時にも聞いた音。

 自分だけが聞いたと思った音。

 今回は違った。

 二階堂も顔を上げた。

 青山も、朝倉も、鷺沼も、スタッフも、全員が壁を見た。

 ごとん。

 もう一度、壁の奥で何かが動いた。

 古い箱を滑らせたような、低く鈍い音。

 江口は震える指で壁を指した。

「聞こえただろ」

 二階堂は黙っていた。

 江口の声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「俺だけじゃない」

 喉の奥で、何かがほどける。

 恐怖ではない。

 安堵でもない。

 もっと惨めなものだった。

「俺は、全部狂ってたわけじゃない」

 図書準備室の冷たい空気の中で、その言葉だけがひどく小さく響いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ