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黒板係は、江口桜次郎の名前を書く ――閉ざされた同窓会で、処女作どおりに人が死ぬ――  作者: 神谷利休|アコンプリス


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第十三章 壁の中の真相

 旧宿直室の壁の奥に、古い縦穴があった。

 それは、人が入れるほど大きくはなかった。肩幅のある男なら、腕を差し込むだけでも苦労するだろう。だが、箱や紙束、録音機器、小さな瓶、古い出席簿の断片なら十分に通る。

 江口桜次郎は、その黒い穴を見つめていた。

 壁の中に、校舎の別の時間が残っている。

 そう思った。

 外から見れば、ただの壁だった。館内案内図では塗りつぶされ、存在しないものとして扱われていた。だが、その内側には古いレールがあり、錆びた金属の箱があり、誰かが動かした痕跡があった。

 存在しないものにされた空間。

 消された名前。

 匿名にされた死。

 すべてが同じ構造をしている。

 二階堂壮也は懐中電灯を構えたまま、縦穴の底を照らしていた。

 光の中に、小型の録音機器、細いワイヤー、白い粉の付いた紙片、古い出席簿の一部が見える。江口が聞いていた「ごとん」という音は、そこから来ていた。壁の中で箱が動き、レールに当たり、古い校舎全体へ鈍く響いていたのだ。

 幻聴ではなかった。

 少なくとも、その音は。

「お前は、ちゃんと聞いてた」

 二階堂が言った。

 さっきも同じことを言った。

 だが、今の方が深く届いた。

 江口は返事をしなかった。返事をすれば、何かが壊れそうだった。自分の耳は完全には壊れていなかった。自分の見たものすべてが妄想ではなかった。そう分かっただけで、胸の奥に小さな杭が打ち込まれたようだった。

 この現実に、まだ留まれる。

 その杭は細い。

 簡単に抜ける。

 それでも、ないよりはずっとよかった。

「録音機器に触るな」

 二階堂がスタッフに言った。

「この状態のまま保存してください。写真は撮る。ただし、フラッシュなしで、位置関係が分かるように」

 スタッフは青ざめた顔で頷いた。

 鷺沼館長代理は額に汗を浮かべていた。彼の手には、改装時の簡易図面がある。紙は何度も折られ、ところどころ端が破れている。

「ここです」

 鷺沼は震える指で図面を示した。

「旧保健室、給湯室、宿直室、図書準備室を結ぶ縦方向の小型搬入口。元は、宿直室から保健室や準備室へ物品を移すための設備だったようです。食器用の配膳リフトというより、教材や備品の昇降口に近いものです」

「いつまで使われていた」

 二階堂が聞く。

「はっきりとは。二十年以上前には使われなくなっていたはずです。改装時に塞いだと記録されていますが、完全撤去ではありません。外側だけ板で塞いで、内部のレールは残したままです」

「誰が知っていた?」

「改装業者、記念館側の一部、昔の職員。それから、旧校舎に詳しい卒業生なら噂として知っていた可能性はあります」

「六十五回生なら?」

 鷺沼は言葉に詰まった。

「可能性はあります」

 その時、廊下の方から青山怜司の声がした。

「見つけたんですね」

 穏やかな声だった。

 旧宿直室の空気が止まった。

 二階堂がゆっくり振り返る。

 青山は、廊下の入口に立っていた。旧三年教室で待っているように言われたはずだった。だが、彼はそこにいた。暗い廊下の奥から、静かにこちらを見ている。

 その顔には、驚きがなかった。

 江口はそれに気づいた。

 青山は、壁の中に何かがあると知っていた者の顔をしていた。

 少なくとも、何かが見つかることを予想していた者の顔だった。

 二階堂が低く言った。

「青山先生。待機していただくようお願いしたはずです」

「水嶋さんが具合を悪くしました。園田さんが見ています。私は、こちらが気になって」

「一人で来たんですか」

「はい」

「今、この状況で?」

 青山は少しだけ目を伏せた。

「軽率でした。すみません」

 謝罪は滑らかだった。

 だが、二階堂は動かなかった。

「見つけたんですね、というのは」

「壁内設備です」

「なぜ分かった」

「廊下の音が変わっていました。工具の音もしましたから」

「それだけですか」

 青山は少しだけ沈黙した。

 江口はその沈黙を見逃さなかった。

 青山の沈黙は、他の人間の沈黙と違う。考えている沈黙ではない。どこまで言うかを選んでいる沈黙だった。

「昔から、そういう噂はありました」

 青山は言った。

「旧校舎には、壁の中に物を動かす通路がある。生徒の間では、怪談のように扱われていました」

「あなたは信じていた」

「半分は」

「実際に見たことは」

「ありません」

 短い返答。

 江口は眉を動かした。

 まただ。

 青山は、大事なところだけ短く切る。

「青山先生」

 江口は言った。

 声が掠れていた。

 青山がこちらを見る。

「何でしょう」

「あなたは、春斗くんの名前がそこにあると知っていましたか」

 旧宿直室が静まり返った。

 二階堂も、鷺沼も、スタッフも、青山を見た。

 青山の表情は変わらなかった。

 だが、そのまばたきだけが一拍遅れた。

「いいえ」

「本当に?」

「知りません」

「でも、驚いていない」

 青山は江口を見つめた。

「驚いています」

「そうは見えない」

「私は、顔に出にくいだけです」

「便利ですね」

 二階堂が小さく言った。

「桜次郎」

 制止だった。

 だが江口は止まれなかった。

 頭の中はまだ濁っている。体は重い。視界の端には、さっきから黒い粒が走っている。それでも、この瞬間だけは言葉がまっすぐ出た。

「春斗くんは、壁の中に名前を隠されたんじゃないですか」

 青山の眉がわずかに動いた。

 江口は続けた。

「出席簿から消された。報道から消された。学校の記録から消された。でも、誰かが断片だけを壁の中に残した。証拠としてか、罪悪感としてか、分からない。でも残した」

 江口は縦穴の奥を見た。

 古い出席簿の断片。

 黒い線で消された名。

 その下に読める、内田春斗。

「犯人はそれを知っていた。だからこの壁を使った。証拠品の移動だけじゃない。十四年前の名前を、今の事件へ引きずり出すために」

 二階堂は黙って聞いていた。

 青山も黙っていた。

 江口は自分の声が少し震えていることに気づいた。

「あなたは六十五回生です。春斗くんが死んだ時、慶早大学一年生だった。母校にも出入りしていた。鴻上先生も同じ回生。あなたは、春斗くんのことを名前だけは知っていたと言った」

「はい」

「名前だけの相手なら、なぜそんな顔をするんですか」

 その瞬間、青山の表情が消えた。

 本当に、消えた。

 穏やかな教師の顔も、整った同僚の顔も、心配する大人の顔も、その場から一枚剥がれ落ちたようだった。

 そこに残ったのは、何も言わない男だった。

 江口は息を止めた。

 二階堂が一歩前へ出る。

「青山先生」

 青山はゆっくりと目を伏せた。

「江口先生は、薬の影響が残っている」

 静かな声だった。

「その状態で、誰かを追及するのは危険です」

「俺も同じことを聞きます」

 二階堂が言った。

「あなたは、内田春斗さんについて何を知っているんですか」

 青山は二階堂を見た。

「名前です」

「それは聞きました」

「亡くなったという事実です」

「それも聞きました」

「それ以上は」

「答えられない?」

「知りません」

 二階堂は青山の顔を見ていた。

「では、別の聞き方をします。あなたは内田春斗さんと血縁関係にありますか」

 空気が凍った。

 鷺沼が息を呑む。

 スタッフの手が止まる。

 江口は二階堂を見た。

 そこまで踏み込むとは思っていなかった。

 だが、聞かなければならない問いだった。

 青山と内田。

 名字が違う。

 だから誰も結びつけなかった。

 青山は、長く沈黙した。

 雨音が聞こえる。

 旧校舎の壁の中で、どこかの金属が小さく鳴った。

 青山は口を開いた。

「ありません」

 声は静かだった。

 けれど、その静けさの底に、硬いものがあった。

 二階堂はすぐには反応しなかった。

「分かりました」

 そう言った。

 信じたわけではない。

 今は、それ以上追わないという意味だった。

 青山もそれを分かっている顔をした。

 江口は青山を見つめた。

 ない。

 その否定は、早すぎた。

 そして、遅すぎた。

 どちらにも聞こえた。

 旧三年教室へ戻ると、空気がさらに重くなっていた。

 水嶋沙耶は青ざめた顔で座っていた。園田美月が隣にいる。黒須は教室の後方に立ち、カメラを持ったまま何か考え込んでいる。朝倉は腕を組んで窓際に立っていた。

 青山が教室へ入ると、数人が彼を見た。

 不安そうな目。

 疑う目。

 頼る目。

 同じ人物に向けられた目が、こんなにも違う。

 江口はそのことに疲れた。

 二階堂は教卓に戻り、旧宿直室で見つかったものを説明した。壁内の旧搬入口。録音機器。白い粉の付いた紙片。出席簿の断片。内田春斗の名前。

 教室の中に、低いざわめきが広がる。

「本当に春斗くんの名前が」

 水嶋が呟いた。

「学校は、名前を出さなかったのに」

「出さなかったから、そこに残されたのかもしれません」

 江口が言った。

 水嶋が江口を見る。

「どういうこと」

「消された名前は、消した人間の近くに残る」

 自分で言って、江口は少し驚いた。

 小説の台詞のようだった。

 だが、そうとしか言いようがなかった。

 朝倉が冷静な声で言った。

「壁内設備があったとして、それで何が説明できる」

 二階堂が答えた。

「少なくとも、いくつかの不自然さは説明できます」

「例えば」

「図書準備室の密室性です。相沢さんのバッグや資料、江口の小説のコピー、録音機器や紙片を、廊下を通らず壁内から移動できる可能性がある」

 江口は続けた。

「相沢が食堂から消えたように見えた件は、まだ別の説明が必要です。反射か、暗転中の移動か、誰かの証言の誤認か。でも、少なくとも図書準備室を犯行現場に仕立てるための道具は壁内から運べる」

「無人放送は」

 水嶋が聞いた。

 二階堂は録音機器の保存袋を見た。

「旧放送室だけでなく、体育館棟の副盤や壁内配線を経由して流した可能性があります。録音機器が壁内から見つかったことは、その可能性を強める」

「つまり、旧放送室が施錠されていても流せた」

 黒須が言った。

 二階堂は頷いた。

「水嶋さんがその場にいなくても、放送は可能だった」

 水嶋が小さく息を吐いた。

 完全に疑いが晴れたわけではない。

 だが、一つの重しが外れたようだった。

 朝倉が言った。

「体育館は?」

「遅延出現です」

 江口は言った。

 全員がこちらを見る。

「牧瀬さんは、体育館の舞台袖で見つかった。でも犯人は本来、正面から緞帳を上げて、舞台上に突然死体が現れたように見せたかったのかもしれない。俺が『緞帳を上げるな』と言ったから横から確認した。だから演出が崩れた」

「それは、お前が小説を書いていたから分かった?」

 朝倉の声は鋭い。

「そうです」

 江口は認めた。

「犯人は俺の小説を利用した。でも、そのせいで俺にも構造が読める。四時間目で俺の意識を奪った。しかし、俺の意識の戻りが思ったよりも早かった。そこが犯人の誤算だったかもしれない」

「都合が良すぎるな」

「そうですね」

 江口は頷いた。

「でも、都合の良さも含めて、犯人は俺をここに置いたんだと思います」

「どういう意味だ」

「俺を疑わせるためだけなら、もっと簡単な方法がある。俺の薬、記憶の混濁、小説のコピー、名前の放送。それだけで十分です。でも犯人は、俺に分かる形でやっている。俺の小説と重ねている。俺に解かせたいのか、解かせたうえで誰にも信じさせないつもりなのか」

 江口は青山を見た。

「あるいは、俺に見せたかった」

 青山は何も言わなかった。

 朝倉が苛立ったように言う。

「犯人像が曖昧すぎる」

「復讐犯です」

 江口は言った。

 自分でも、その言葉だけは迷いがなかった。

「この事件は隠蔽された名前を戻すために作られている。中原さんも、相沢も、牧瀬さんも、それぞれ十四年前の春斗くんの死に関わる記録、調査、舞台装置に対応している。だから最後は、春斗くんを消した人物に向かう」

「それは誰だ」

 朝倉が聞く。

 江口は黙った。

 まだ言えない。

 いや、言っていいのか分からない。

 青山を疑っている。

 だが、青山だけでは足りない。鴻上がいる。中原がいる。学校法人がある。十四年前の教師たちがいる。当時の生徒たちがいる。

 復讐の対象は、個人ではなく、仕組みかもしれない。

 だが殺されているのは個人だ。

 江口は頭を押さえた。

 考えが分かれていく。

 右へ行くと青山。

 左へ行くと鴻上。

 奥へ行くと旧校舎。

 床下へ行くと春斗。

 自分は今、どこにいる。

「桜次郎」

 二階堂の声がした。

 江口は顔を上げた。

「戻ってこい」

「戻ってる」

「半分だ」

「半分なら上出来だろ」

「そうだな」

 二階堂は短く言った。

「上出来だ」

 その言い方に、江口は少しだけ笑った。

 園田が小さく言った。

「これから、どうするの」

 二階堂は答えようとした。

 その時、教室のスピーカーが鳴った。

 ざ。

 全員が身を固くする。

 旧教室の天井に取り付けられた古いスピーカー。

 展示用に残されているだけだと思われていたもの。

 そこから、ノイズが流れた。

 ざざ。

 そして、低い声。

「反省会を始めます」

 誰も動かなかった。

 声は続いた。

「今日の反省を発表してください」

 江口は拳を握った。

 チャイムは鳴らない。

 声だけが続く。

「最初に、青山怜司」

 教室中の視線が青山へ向いた。

 青山は微動だにしなかった。

 スピーカーの声は、静かに言った。

「弟を見捨てた兄」

 水嶋が息を呑んだ。

 園田が口元を押さえる。

 朝倉の顔色が変わる。

 二階堂が青山を見る。

 江口も見た。

 青山怜司は、立っていた。

 整った姿勢で。

 顔から表情を消して。

 穏やかな教師でも、同僚でも、同窓生でもない顔で。

 その声が流れた瞬間、青山の中の何かが確かに露出した。

 スピーカーの声は続ける。

「内田春斗。青山怜司の実弟」

 教室が凍った。

 誰も呼吸をしなかった。

 青山は目を閉じた。

 長く、ゆっくり。

 そして開いた。

「……誰が」

 声は低かった。

「誰が、その名前を」

 それは、青山が初めて見せた動揺だった。

 二階堂が一歩前へ出る。

「青山先生」

 青山は二階堂を見なかった。

 彼はスピーカーを見上げていた。

 江口は、その横顔を見ていた。

 怒り。

 恐怖。

 悲しみ。

 それらが一瞬だけ混ざり、すぐに押し込められる。

 青山は、犯人なのか。

 それとも、犯人に暴かれているのか。

 その二つが、初めて同じ重さで江口の前に並んだ。

 スピーカーから、最後の声が流れた。

「黒板係は、最後の名前を書く」

 ぷつり。

 音が切れた。

 教室には、雨音だけが残った。

 青山怜司は、ゆっくりと江口を見た。

 その目に、もう穏やかさはなかった。

 江口は思った。

 ここから先は、推理ではない。

 人間が隠してきたものを、剥がす時間だ。



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