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身に覚えはありませんか?  作者: 三嶋トウカ
夏:第1便~第3便

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第15話:【第3便】濃厚ブラウンシチュー_5


 テーブルの上には、食べ終えた皿と半分残った赤ワイン。

 部屋の空気はまだシチューの香りで満たされていて、照明の光が少し霞んで見えた。熱を帯びた空気の中で、スプーンの銀だけが冷たく光っている。


「……ほんと、美味しかったな」


 私は深く息をつき、背もたれに身体を預けた。

 頬がほんのり火照っている。お腹の奥まで温まって、眠気がゆっくりと近づいてくるのがわかった。


 シチューの香りの奥には、焦がしルウの苦味と野菜の甘さ、そしてほんの少し、骨のような香ばしい匂いが残っている。

 それが心地よくて、何度も吸い込みたくなる。


 シンクに皿を運び、蛇口をひねる。水の音が静かな部屋に広がった。

 流しの中で皿をゆすぐと、僅かに茶色い水が流れていく。泡の中に浮かぶ油の筋が、光を受けて金色に輝いていた。


「これまで綺麗……」


 無意識にそう呟いた。


 洗い終えて、布巾で手を拭く。指先が少し熱い。

 まだルウの脂が落ちきっていないのか、ぬめりがうっすら残っていた。それでも不快じゃなかった。美味しいものを作った証のように思えた。


 テーブルに戻ると、香りが少し落ち着いていた。代わりに、パンの甘い匂いがまだ漂っている。

 私は残りのワインを一口飲んで、小さく息を吐いた。


「幸せ……」


 その一言が、まるで部屋の空気に溶けていくようだった。


 ――しばらくそのまま、静かに皿の跡を見つめていた。

 ルウの名残が淡く光って、まるでまた作ってと囁いているように見えた。


「もう一回、作れないかな」


 思わず声が出る。

 レシピを覚えておけば、材料が違っても自分で再現できるかもしれない。誰かに食べさせてあげたい。

 その誰かの顔を思い浮かべようとしたけれど、やっぱり誰も出てこなかった。なのに、胸の奥が少し熱くなった。


「……きっと誰かいたんだよね」


 そう呟いて笑う。


 ふと、視線がテーブルの上に戻る。

 空になった皿の縁を指でなぞると、まだほんの少しだけ温もりが残っていた。その温度に触れた瞬間、胸の奥で、何かの音がした。


 ――あの夜、二人で食べたシチュー。


 笑いながら味を確かめ合って「もう少し煮込んだほうがいいかも」なんて言って。

 その声の響き方まで、なぜかはっきり思い出せるのに、顔だけがどうしても思い出せなかった。


「同じ味だった気がするな……」


 思わず呟いて、自分でも理由のわからない安心がこみ上げてきた。この香り、この温度。誰かが、自分のために作ってくれた味。――いや、違う。

 今は、誰かの作ったものを自分が食べているのだ。その誰かが、どこかで自分を思い出してくれる気がした。


 ワインの残りを飲み干す。喉を通る温度が、ゆっくり胸に広がる。


「生きててよかった」


 小さく笑って、また椅子の背に身体を預けた。


 外の風が窓を叩く。その音が、まるで優しいノックみたいに聞こえた。その音が、理由のわからない懐かしさのようで、胸の中を柔らかく満たしていた。


 冷蔵庫を開けると、残ったルウの入った鍋が静かに光っていた。スプーンを入れてみると、表面がゆっくり固まり始めていて、とろりとした層が音もなく沈んだ。指先に伝わるそのぬるい温度が妙に心地いい。


「明日の朝、もう一度温めよう」


 そう決めて、鍋にラップをかけた。


 そのままテーブルに戻り、スマートフォンを開く。

 アンケートフォームのページを開き、記入する。


「えっと、味は……最高。もう一度食べたい。ルウが深くて、野菜も甘くて、お肉が信じられないくらい柔らかかった」


 声に出しながら、指で文字を打っていく。


「ブイヨンの香りが印象的でした。どこかで食べたことがあるような……でも思い出せません」


 いくつか入力を終え、送信ボタンを押す。

 短い効果音が鳴り、画面が白く切り替わる。ほんの一瞬、その白が湯気の色に見えた。


 スマートフォンを伏せて、両手を膝の上に置く。


 指先に残るのは、バターとルウの温かい香り。


「また、美味しいやつが届くといいな」


 次は何が届くのだろう――

 そう思うだけで、胸の奥がわずかに跳ねた。


 そのまま、カーテンの隙間から夜空を見上げた。街灯の明かりがベランダのガラスに反射して、私の頬に淡く揺れた光が映る。風が吹いて、部屋の奥で何かが微かに鳴った。……多分、冷えた鍋の金属が縮む音だ。


 私は深い余韻に浸りながら「ごちそうさまでした」と小さく言った。


 そのままソファに腰を下ろすと、眠気が波のように押し寄せてくる。空気があたたかい。

 テレビもつけず、明かりも落とさないまま、まぶたを閉じた。


 ――翌朝、キッチンにはほのかな香りが残っていた。カーテンの隙間から朝日が差し込み、冷蔵庫内の鍋のラップの内側に、うっすらと水滴がついている。


「まだいい匂い」


 呟いてラップをめくる。

 固まった脂がゆっくり溶け出して、再び、深い甘い香りを放った。そのまま火にかけ、至福のときを待つ。


 私はパンをトーストしながら、スマートフォンをちらりと見た。昨夜送ったアンケートのページには『ご回答ありがとうございます。次回発の送をお楽しみに』という文字が置かれている。


「やっぱり、また届くんだよね」


 小さく笑う。

 鍋の中のシチューをスプーンでかき混ぜる。中から現れた肉片が、淡く、ほんのりと赤い光を反射した気がした。でも、すぐに湯気で見えなくなる。


「次は何だろうね」


 私は独り言のように呟いて、スプーンを口に運んだ。温かいのに、昨日よりも少し冷めた味。けれど、どこか人肌のようなぬくもりがあった。

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