第14話:【第3便】濃厚ブラウンシチュー_4
もう一度皿の前に座った瞬間、香りが鼻をくすぐった。
焦がしたルウの深い甘みと、肉の旨味が重なって、それだけで胸の奥がほっと温かくなる。
「……すごいいい匂い」
独り言がどんどん漏れる。
フォークを取る指先が少し震えた。食べる前から、もう幸せの予感しかしていない。
スプーンを入れると、シチューの表面がゆっくりと波打った。とろみが濃くて、重さが心地いい。
優しくすくい上げると、具材の角がスプーンの中で静かに崩れた。
「とろけてる……」
思わず笑ってしまう。
まずは、野菜。じゃがいもはスプーンの重みでほぐれ、口に入れると熱と一緒に甘さが広がった。ねっとりしているのに舌触りが滑らかで、煮崩れた部分がルウの旨味を吸い込んでいる。
「うん、完璧」
続いてにんじん。芯がほとんど残っていないほど柔らかく、噛むたびに甘みと香りがじゅわっと溶け出した。ほんのりワインの酸味が混ざって、味に奥行きがある。
玉ねぎは、形が残っているのに舌に触れるとすぐに溶けた。
「これ、すごいな……」
ほぅ、と息を吐く。
野菜だけでこんなに満足するのは、久しぶりだった。
そして、やっとメインの肉。
スプーンを差し込むと、抵抗がほとんどない。ほろりと崩れて、繊維がふわっと広がる。
「うわー……やわらか……」
唇の上でほぐれた瞬間、濃厚な肉汁が舌の上に溶け出した。脂がまろやかで、くどくない。肉そのものが甘く、ルウの苦味と絶妙に混ざる。
「お店のより好きかも」
これは、自画自賛できる。
もう一口。
今度はスープの部分を多めにすくう。口に含んだ瞬間、香りの層がいくつも重なった。
最初にくるのは焦がしルウの甘い香ばしさ、次に立ち上がるのは、野菜が煮詰まったような柔らかい甘味。そしてその奥から、骨の髄が溶けたような深い旨味が、舌の奥をゆっくり押し上げてくる。
「ブイヨン、すご……」
言葉がこぼれた。
濃厚なのに重たくない。香りの立ち方が、どこか人肌の温度に似ている。
「手間かけてるなぁ」
感心しながらもうひと口。スープの粘度が少しずつ変わっていることに気づく。とろみが軽くなって、味がまろやかに広がる。
それが、まるで煮込むほどに素材が生きているみたいに感じた。
私は一度スプーンを止めて、鍋の底に溜まったルウを少しすくい上げた。
光に透かすと、金色と赤褐色の層が混ざり合っている。
「こんな出汁、どうやって取ってるんだろ」
不思議そうに首を傾げるけれど、それ以上は考えない。
美味しいものを美味しいと言える夜が、一番幸せだから。
スプーンをまた口へ。
肉が完全にルウと一体化している。噛むたびに、肉からルウがにじみ出て、ルウから肉の味が返ってくる。
舌の上で混ざり合うその感覚が、まるで誰かと呼吸を合わせるみたいに自然だった。
「これが濃厚ってことかも」
そのまま、ワインをひと口。酸味が全体をきゅっとまとめ、再びスプーンを持つ手が止まらなくなった。
それが落ち着いてからの、もう一口。口の中に広がるのは、スパイスのほのかな刺激。カカオのような深い苦味が、肉の甘さを包み込むようにして消えていく。
「うん、うん、完璧完璧」
頷きながらスプーンを動かす。
パンを割って、シチューを染み込ませる。表面のパリッとした部分と、中の柔らかさが合わさって、口の中で小さく音がした。噛むたびに、バターの香りが鼻に抜ける。
ルウの熱でパンが少し湿って、それがまた、何とも言えず美味しい。
「これ、誰かに食べさせたいな」
そう呟きながら、またパンを千切る。
誰か――その「誰か」が誰なのか、口に出してみたものの思い浮かばない。
それでも、この味を誰かと分け合う光景がはっきりと頭に浮かぶ。
笑い声、スプーンが皿に当たる音。目に見える湯気。その記憶はあまりに自然で、まるで今もここにあるみたいだった。
熱が落ち着いてきたシチューは、最初よりもさらにとろみを増している。ルウが具材に染み込み、口に入れるたびに新しい味になる。
スプーンの動きが止まらない。
肉の繊維が舌の上でほどけて、脂が静かに馴染んでいく。
「はぁぁ、幸せ……」
頬が緩み、息が漏れる。
もう一度、肉をすくう。光に透かすと、断面が綺麗で、赤茶色の中に細い筋がいくつも走っている。
「やっぱり、手が込んでるなぁ」
感心しながら口に入れる。噛むたびに、柔らかさと深いコクが広がる。
温度が舌を撫でて、喉の奥にゆっくり落ちていく。飲み込んだ瞬間、心の底からため息が出た。
「美味しい……」
ワインを一口。酸味と香りがシチューの甘さを締めてくれる。アルコールの熱が喉を通り抜ける。それと一緒に、さっきまで感じていた疲れが消えていくようだった。
皿の底が見え始めたころ、ルウの表面に浮かぶ脂がゆっくり波打っていた。照明の光を反射して、まるで呼吸しているように見える。
「見た目まで完璧だよね」
私は嬉しくて、残りをすくい取る。
パンを最後の一切れまで使って皿を拭う。皿の底のルウを全部集めて、名残惜しそうに口へ運ぶ。舌に残る苦味、脂の甘味、全部が一つになって、ほんの一瞬、涙が出そうになるほど美味しかった。
「ごちそうさまでした!」
手を合わせて、しばらく目を閉じる。
香りがまだ鼻の奥に残っていた。肉も野菜も溶けてしまったのに、味だけが身体の中に残っている気がする。
私はスプーンを皿の上に置き「また食べたいな」と思わず呟いた。
その声が部屋の中で小さく反響して、静けさの中に溶けていった。
テーブルの上の皿。
空になったルウの跡が、どこか手の跡のようにも見えたけれど、私は気にしなかった。




