第13話:【第3便】濃厚ブラウンシチュー_3
鍋の底に脂身を入れると、火をつける前から柔らかく光って見えた。白に近い乳色が、蛍光灯の下でゆっくり透けていく。
「この脂でコクを出すのね」
紙に書いてある手順を読み返しながら、火をつける。ガスの青い炎が、鍋の底を照らした。
――じわり。
脂の溶ける音が小さく響く。
冷たかった塊が形を失い、液体になって鍋肌を滑り始めた。スプーンでかき混ぜると、表面に細かな泡が立ち、部屋中に甘いような香りが広がっていく。
「何だか濃厚なバターみたい……」
鼻を近づけると、乳脂と肉の混ざった匂いがふんわりと上がってくる。……どこか懐かしい。
それなのに、記憶のどこにもない匂いだった。
脂が完全に溶けると、金色に近い透明な液体が鍋の底を覆った。私はキッチンペーパーで軽くふちを拭う。
火加減を弱め、次に肉のパックを開けた。『ぷしゅっ』という小さな音とともに、真空がほどけた。冷気と一緒に、鉄のような匂いが一瞬だけ鼻をかすめた。
「……これは、新鮮だ」
言葉に出してケラケラと笑う。
パックの中には四角く整った肉のブロックがいくつも入っていた。一片一片がとても綺麗に切りそろえられていて、断面は艶やか。手でつまむと、冷たいのにわずかに柔らかい。
『生きている肉』のような弾力があった。
鍋に落とす。じゅうっという音が弾け、脂の中に肉が沈んでいく。その瞬間、空気が一段熱を帯びる。白い煙がふわっと上がり、部屋の照明の下で揺れた。
菜箸で軽く転がすと、表面が少しずつ色を変えていく。深い赤が、徐々に茶色に。
「この焼き色、大事なんだよね」
呟きながら、焦げつかないように火を弱める。脂の中で弾ける音がリズムのように続いた。ときどき鍋の底をヘラでなぞる。焦げ付きはない。
むしろ、音のほうが心地よい。ぱち、ぱちと、まるで、誰かが小さく拍手しているようだ。
焼き色がついたら、野菜を加える。玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。袋を開けると、甘い香りが先に広がった。
「カットしてくれてるの、助かるなぁ」
玉ねぎを入れた瞬間、鍋の中からしゅううっと音が上がる。
水分と脂が触れ合い、香りが一段変わる。野菜が音を立てて動くたびに、甘い蒸気が顔に当たった。
ある程度炒めて火を止めてから、その中に特製ブラウンルウを少しずつ入れる。
濃い茶色の塊が鍋の中でゆっくり溶け、とろみを帯びた泡が立ち始めた。木べらでゆっくり円を描く。
とろり、とろり。
鍋の底を通るたび、木の先に重たさが伝わる。
「うん、これはかなりいい感じ……」
目を細めながら、もうひと混まぜした後に火を点けて、蓋をしてとろ火に変える。
コトコト、コトコト。小さな泡が立つ音。
やがて部屋の空気全体がブラウンシチューの匂いに変わっていった。
私はスツールに腰をかけて、鍋の音を聞きながらスマートフォンをいじる。SNSの懸賞アカウントを開くと『#当選報告』のタグがまた増えていた。
「みんなも色々届いてるんだ」
同じような箱に、違う種類の当選品。それを思うと、なんとなく安心した。
――ふと、鍋の方からとくんという音が聞こえた気がした。
蓋が少しだけ揺れる。蒸気が隙間から漏れ、白い線になって天井へ伸びる。
「おぉ、煮えてる煮えてる」
嬉しくなって立ち上がり、蓋を開ける。
中ではもう、野菜が半分透き通っていた。肉の角が丸くなり、脂がルウと混ざって滑らかに光っている。
ヘラで混ぜると、具材の重みで小さく沈む。その中から、とろりと溶け出した脂が浮き上がる。表面に描く模様が、まるで心臓の鼓動みたいにゆっくり動いた。
「あああ、美味しそう……!」
堪えきれず、味見用のスプーンを手に取る。一口、ルウをすくって舌の上に落とした。
熱い。けれど、深い味。苦味と甘味のバランスが絶妙で、その奥からふっと塩気が浮かび上がる。
「お店みたい……」
ため息のように言葉が出た。
タイマーを十五分に設定して、もう一度蓋を閉じる。時計の針が進むたび、香りが濃くなる。鍋の中の空気がゆっくり生きているみたいだった。
私は食卓を整える。テーブルクロスを替え、スプーンと皿を並べる。パンをトースターに入れると、バターの香りがシチューと混ざった。それだけで部屋が少し広くなったように感じる。
ピピピピピ――ピピピピピ――
タイマーが鳴る。
「できた!」
蓋を開けた瞬間、濃い蒸気が一気顔に押し寄せた。
その温度の中に、どこか懐かしい匂いが混じっている。記憶のどこかで嗅いだような――冬の夜、彼と食べたあの時のシチューに似ている気がした。
「……偶然だよね」
笑いながら火を止める。
鍋の底にヘラを差し込み、最後のひと混ぜ。とろみが均一になり、具材が重たく沈む。その音が少しだけ呼吸みたいに聞こえた。
皿を温め、深めのスープボウルにルウを注ぐ。肉が一片、表面に浮かんでゆっくり回った。その形がどこか人の拳に似ている気がしたが、別に私は気にしない。
照明の下で、シチューの表面がつややかに光る。
「よし、完成」
鍋の火を消し、布巾で手を拭いた。
部屋は暖かく、甘い香りで満ちている。遠くで冷蔵庫が低く唸り、またすぐに静かになった。
「いただきますは、後で」
椅子に腰を下ろし、私はしばらく皿を眺めていた。
ゆっくりと立ち上る湯気が、まるで誰かが呼吸をしているみたいに、一定のリズムで揺れていた。




