小波と港 第一章「海馬」③
南棟から教室のある北棟に向かい、俺は三階に上がってそのまま突き当たりを目指した。
辿り着いた一年A組。居場所なんてないけれど、俺の席は確かにそこにある。中に入って机の上に荷物を置き、けれども座ることはせず、俺は既に騒々しくなっている廊下に戻った。
今日は、期末テストの順位表が張り出される日なのだ。
上位一〇〇名の名前が縦書きで等間隔に並んでおり、その一番右に名を連ねることを目指してこの学校の生徒は日々研鑽している。
別に、自分の順位を知るだけなら、後で配られる個票を見ればいいだけだ。まして自分は、いきなり首席になってしまったことで反感を買っている。だから中間テストの時は、この順位表を見に行かなかった。
そうしたら、「わざわざ順位表を見に行かなくても、自分は一位だという自信がおありなのね。私達のことはライバルとも思っていないのかしら」なんて言われてしまったので、今回は見に行くことにした。
まあ、あの手の人間は一度嫌いと決めた人間であれば、何をしていても嫌味を言うのであろうことは分かっているのだが。
「うわ、あれ、白波瀬じゃね」
誰かの一言で、順位表に群がる数多の目が、一瞬にして俺に向けられる。それから数秒の静寂の後、湧き上がる俺への心無い言葉。
俺は敢えて気にしないようにして、順位表が見える場所まで進むと、足を止めた。
翠玲学院高等部 第一学年 七月試験 順位表
第一位 白波瀬 律 七九五点
第二位 邦坂 千奈 七七四点
俺は息をついた。悪い予想は寸分も違わず的中しており、俺はまた圧倒的な一位となってしまった。
「あら、ご機嫌よう。白波瀬くん」
その声は、周囲の音を、蝉時雨さえも止ませてしまうほど、清廉な声だった。
「今回もまた、貴方が一位だそうですよ。本当に素晴らしいですわ。私、貴方が編入されてから一瞬たりとも退屈しませんの」
含みのある言い方に加えて、上品なのに抑揚のない言葉の羅列。
顔を見なくても分かる。そこにいるのは。
「邦坂」
「うふふ、そんなに険しい顔をなさらずともよろしいのではありませんか。私は何も、貴方と戦争をしようというつもりではないのです」
穏やかに笑っていても、その目の奥は冷たいままで、やはりそれは俺を認めていないということなのだろう。やっぱり、こんなもの見に来るんじゃなかった。
ここに居る全ての人間の視線が、俺を敵視しているというのに。
「自分の顔を見ても、俺の方が険しい顔をしていると言えるのか」
ここで怯んでは駄目だ。どうせ今から親しみを込めて接しても、ここに居る人間が俺の味方になることはないのだから。
だったら気丈に振舞って、相手の目論見をご破算にしてやろうじゃないか。
「乙女の顔に対して、そのように不躾なことを仰るのは白波瀬くんくらいのものでしょうね」
俺の言葉が余程気に食わなかったのか、お上品なお嬢様の微笑みは一瞬にして崩れた。
そうして殊更に厳しく刺さる視線を、それでも意に介さず俺は強気に続けた。
「自分のことを嫌ってる人間に微笑まれるのは気味が悪いし、それなら今みたいに睨んでくれた方がいいってだけだ。それとも邦坂は、俺が親切にしていたら、俺の靴を隠すのをやめてくれるのか」
少しも表情を緩ませることなく、けれども怯むこともせず、俺は淡々と言い放った。決して咄嗟に思い付いた嘘などではない。紛うことなき事実を述べたまでだ。
それなのに、それからしばらくしても、邦坂は驚き固まるばかりで一切の応答はない。無視して教室に戻ろうかと思った頃、邦坂の番犬が代わりに話し出した。
「千奈様がそのような低俗な真似をなさるはずがなかろうが。いくら千奈様のカリスマ性を羨んでいるからといって、名誉を毀損しかねない発言は自重しろ。みっともないぞ」
「そうだな。自分の罪を認めもせず、他人に擁護してもらう様はみっともないことこの上ないな」
俺は大きく溜息をついて身体を翻し、教室に戻ろうとして、一度足を止めた。
「あと、登校前の俺の机に水をぶっ掛けたり、ロッカーの鍵を開かないように細工したりするのもやめてくれ。あんなに幼稚なことをするなんて、それこそ低俗だし、品性を疑うぞ。邦坂」
俺は努めて冷静に吐き捨て、再び教室に向かって歩き出した。
一応やめてくれと伝えてはみたが、この程度じゃ嫌がらせは終わらないだろうな。
うざったくて耳障りな蝉時雨と、吸い込まれそうなほど白く青い空。焼くような日差しと熱を帯びた外気。
ああ、今日も憂鬱な一日が始まる。
「ありがとうございました」
終礼まで持ち堪えることさえできれば、後は準備室に向かうだけだ。
体育で二人組を作る瞬間も、数学で指名された時に正解を口にしただけで空気が凍る瞬間も、全て耐え切ったのだ。そして明日からも耐え切るのだ。なに、どうということはない。
今更他人に強烈な悪意をぶつけられたからといって、素直に傷付けるほど殊勝な性格じゃない。
身内に裏切られる方が余程、恐ろしいのだから。
「・・・・・・はあ」
俺は両目を閉じて、フラッシュバックする記憶を封じる。
気持ちを入れ替えて再び目を開けると、視界がぐにゃあと歪んでいた。咄嗟に机に手をつき、転倒を防ぐ。
慌てて周囲を見回しても、俺の異変に気付いている人間はいない。俺は安堵して、椅子に座り直すことにした。ここで倒れて、これ以上下らない噂を流されるのは御免だから。
参ったな、早く先生の待つ準備室に逃げ出したいのに。
ただでさえ蝉の声が騒がしいこの夏に、上乗せされた喧騒は、次第に頭痛を齎していく。
「あら、貴方一人なのですか」
ようやく教室が無人になって、目眩も収まったという頃、最も会いたくない人間の声がした。
「何の用だ、邦坂」
珍しく一人でいるらしい邦坂は、俺を認めて強かに笑った。
「そう険しい顔なさらないでください。私とアフタヌーンティーはいかがですか」
「はあ、悪いけど、今はそんな余裕ないんだよ」
ようやっと鳴りを潜めた頭痛が、頭蓋もろとも破壊せんとばかりに悪化していく。
最悪だ、今日は厄日だ。全くもって運が悪い。
「お話ししたいことがあるのは本当です。そんなにお時間を取らせるつもりはありませんから、何卒」
ワントーン落とした声で、おひいさまは続ける。どうして、あれほど毛嫌いしている人間に話がしたいなどと宣えるのだろうか。
「ははっ、天下の才媛が俺に話したいことって何。どうせ嫌味か悪口か、ろくでもないことでしょ。お願いだから一人にしてよ」
「貴方に伝えておきたいことがあるんです」
「ああもう、何で分からないかな」
これは、まずい。耳鳴りがする。水の中に入ってしまったみたいに、音が籠ってまともに聞こえやしない。
「貴方がどんなに嫌がっても、私は貴方と話すと決めたんです」
「帰れって言ってるんだよ」
俺は空気を割りそうなほど大きな声を振り絞った。
それが悪かったのだろうか。既に重力をまともに感じ取れなくなっていたこの身体の、倒れていく感覚と、床と衝突する鈍い痛みだけが明瞭に伝わっていた。
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