小波と港 第五章「海嘯」④
教員免許を取ったのは教育学部に進学したからで、教育学部に進学したのは、将来の夢を教師と決めたからだった。
そして将来の夢を教師としたのは、隣の席の生徒が書いていたのを適当に真似したからだった。
そのくらい彩世の居ない世界はどうでも良かったし、自分は九条グループへの就職が決まっていたので、そこまでの過程は暇潰しでしかなかった。
幼い頃は気付いていなかったものの、自分が生を受けた宮花という家は、九条グループの中で創業者一族に次ぐ地位を持っていたらしい。道理で渚が紗世さんと結婚できたわけである。
ともあれ、当初は名ばかりの教員免許を役立てようとは微塵も思っていなかった。
伊織の下で働いて暫く経った頃、一体何の因果か、漣が翠玲に編入したがっているとの報告を受けた。
勿論最初は断固拒否しろと命じた。
あの学校は自分の、伊織の、京香の、そして最愛の人の古巣で、知られたくない過去が沢山詰まった場所だ。そこに漣が通うということは、せっかく失った記憶を蘇らせることにもなり得る。
だから白波瀬に、金銭的な余裕がないとでも言って反対しろと伝えておいた。
しかし返ってきた返答は、漣が特待生になるつもりでいる、というものだった。
小、中と公立に通わせていたのに、突然私立、それも翠玲に興味を持ち始めたと聞いて、恐らく何らかの秘密が露見したのだと察した。
だから潮時だと思った。
あの子ももう高校生。そろそろあの子の親権者として、ちゃんと対面しておかなければいけないのだと、そう考えた。
再会の方法は色々あった。下校中に声を掛けるとか、白波瀬に頼んで連れて来てもらうとか、考えれば考えるだけ。
それでも教員という方法を選んだのは、あの子の意思を尊重したいと思ったからだった。
教師と生徒という関係性なら、もし彼が実の家族と会うことを望んでいなかった場合に、彼の人生から俺の存在を自然にフェードアウトさせられる。
だから伊織に無理を言って、一年間だけあの男の部下としての仕事を休職させてもらうことにした。
元々翠玲の経営には九条の息が掛かっているので、教員になるのは難しくなかった。
しかし問題は、あの子の容姿のことだった。
定期的にあの子の写真を受け取ってはいたものの、まさかここまで最愛の人と瓜二つだとは思わなかった。
彩世とそっくりなあの顔を前にする度、忌々しい過去の記憶に蓋をしていたい欲求に駆られた。
だから多分、そのせいだったのだと思う。あの子の前で、中々正体を切り出せなかったのは。
『漣の記憶を奪った罪を背負って、漣のために生きろ』
それでも、いつまでも隠してはおけない。
俺はあの子を命の危機に晒し、記憶を奪っただけでなく、里親選びをしくじったせいで、虐待の恐怖まで植え付けた。
何もかも、あの子を守る責任があることを分かっていながら、その責任を放棄していた俺のせいだ。
これでは、学生の身で小学生の俺を育ててくれた渚への恩を、仇で返すも同然になってしまう。
今こそ、責任を果たすときだ。
けじめをつけよう。
「おはようございます」
相変わらず大きな屋敷だなと思いながら、インターホンを押して家主が出てくるのを待つ。
「早いな。あの後はよく眠れたか」
「・・・・・・あのココア、何か盛っていたでしょう」
「さあ、どうだったかな。とにかく入れ。あの子も居るから」
松濤に構えられた九条家の本宅には、今は伊織と京香が住んでいる。無論、彩世が生きていたら彩世の持ち物だったはずの家である。
「せ、先生」
無駄に広いリビングにやって来ると、冷房のひんやりとした空気が肌に触れた。テーブルに参考書が散らばっているのを見る限り、他人の家でも勉強だけは欠かしていないらしい。
そういうところは、彩世に似ているな。
「律。ちょっと、先生とドライブしない」
「先生、何しに来たの」
「当ててみる」
「いいよ、そういうのは。先生の秘密主義ももう飽きた」
「秘密主義なのは律も同じだろう」
「同じじゃない。先生は、最初から俺のことを全部知ってたんでしょ。全然同じじゃないよ」
ハンドルを切りながら、全くもってその通りだと思った。卑怯な俺だけが一方的に漣のことを知ったままで、この子の気持ちを何も考えていなかった。
その罪の重さだって、考えないようにしていたのだから質が悪い。
「これ、どこに向かってるの」
「病院」
「・・・・・・な、何で」
「会わせたい人が居るから」
だからまずは、この子の望みを叶えることから始めよう。
「すご、病院なのにホテルみたい」
やって来たのは、VIP用に設けられた個室の病室だった。
「繊細な患者さんだから、静かにね」
「わ、かった」
不思議そうな顔を横目にゆっくりと引き戸を引く。自動で閉まっていく扉を押さえながら、漣が入室するのを待って静かに扉を閉めた。
「・・・・・・」
日当たりが良く明るい室内で、その女性は窓辺を見ていた。
歳の頃は三十代後半といったところだろうか。洗練された容姿の持ち主で、質素な患者衣を纏っていてもなお、その美貌には少しの翳りもない。
「こんにちは。お久しぶりです。今日は良いお天気ですね」
俺は女性の方に歩み寄り、差し障りのない挨拶を述べて会釈をする。
分かっていたことだが、相変わらず女性の返事はなかった。
「今日はある人を連れてきたんですよ」
扉の付近で固まっている漣を手招きし、その姿を女性の視界に入れた。
「・・・・・・れ、ん」
微かな声で、呻くように女性が言った。
その眼はまるで蘇った死者を見たかのように見開かれており、程なくして頬に涙が伝った。
やっぱり、いや流石に漣だと分かったか。
「れん、れん」
女性は大切そうにその二つの音を紡ぎ、嬉しそうに笑っている。
「先、生」
一方の漣は不可解そうに顔を顰めており、助けを求めるように俺を呼んだ。
しかし。
「れんっ」
俺が間に割って入るまもなく、ベッドに横たわったままの女性は、傍らにいる漣の身体を力強く抱き締めた。
「え、ちょっ」
「あーっと、ごめん律。律さえ良ければ、しばらくそのままでいてもらえないかな」
きっと今は、漣の姿だけを感じていたいだろうから。
「いや、いいけど、何これ、どういうこと」
「れん、あいしてるわ」
漣の疑問など全く意に介さない様子で、女性が優しく愛を囁いた。それは掠れていて、耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな声だったけれど、漣の心を揺さぶるには充分だったらしい。
漣は女性の背に両腕を回して、「ありがとうございます」と呟いた。
「あの女の人誰、どういうこと」
病院の外に出てから、漣が疲れを帯びた声で言った。
「あの人は、漣を産んだ人だよ」
「・・・・・・え」
俺は漣の方を見ながら、もう一度ありのままを述べた。
「宮花紗世さん。漣の本当のお母さんだ」
まさか実母だとは思いもよらなかったようで、漣はしばらく固まったまま息を飲んでいた。
「な、何が、え、どういうこと」
「昔俺達家族には、ある大きな事件があったんだ。そのせいで紗世さんは言葉を話せなくなってしまって、摂食障害も併発していたから、今までずっと入院してたんだよ。でも今日、何年かぶりに話すことが出来たのは、やっぱり息子と再会できたからかな」
こんなことなら、もっと早く会わせて差し上げればよかった。
また一つ、自分の罪が増えていく気がした。
「どうだった、本当の家族は。ずっと会いたいって言ってたじゃん」
「い、や、分かんないよ。こんなにあっさり会ってしまって。てか、実の父親は。もしかして・・・・・・」
「俺ではないよ。俺は漣の父親じゃない」
良からぬ疑いを掛けられていると思い、半ば睨みを利かせるつもりで漣の目を見た。
「ああ、そっか。いやそうだよね。流石にね。十個とかしか違わないし」
両頬に生暖かい風が吹き付ける感覚があって、俺はそそくさと車の鍵を開けて乗り込んだ。
「今日は一段と暑いな」
「先生」
「なに」
助手席で俯いている少年の様子を伺いながら、慎重に尋ねる。
「実は俺、本当は先生に謝りたかったんだ。先生が俺に隠し事するのは、何か大事な意味があってのことなのに、何も知らない分際であれこれ酷いことを言ってしまったなって。親切心で教えないってことも、きっとあるよね」
この子はつくづく大人だと思う。
真実を知ろうと行動していることもそうだが、まだ若いのに相手の言い分を受け止める包容力がある。
独善的で身勝手な俺とは、やはり似ても似つかない。
「漣。あのね、俺は本当は、漣の父親の弟なんだ」
「・・・・・・そう、なの」
「うん。ずっと隠してて、本当にごめん」
こんな謝罪で許されることではないと分かっている。
それでも、まずは謝ることから始めたい。
今日を契機として、この子とちゃんと向き合っていきたい。
「それでね、漣。もし良かったらなんだけど」
もう二度と目を背けない。その場凌ぎの言葉ばかり吐いて、この子を傷付けることもしない。
「うちの子にならない」
この子のためにも、自分のためにも、過去を精算しよう。
「・・・・・・うんっ」
その瞳から溢れた光が頬へ伝うのを、格別に美しいと思いながら、しばらく眺めていた。
読んでくれてありがとうございます!
この話までが書き溜めた分だったので、またしばらくお休みさせていただきます。
「小波と湊」はどこからどう見ても稚拙な駄文で、しかも不定期・不確実投稿なのに、ここまで読んでいただけたことが本当に嬉しいです。ここからの展開もちゃんと練ってありますし、まだ回収していない伏線もたくさんあるので、大学受験が無事に終わったら、また春からお付き合いいただきたいです。
最後になりますが、皆様いつも本当にありがとうございます。




