小波と港 第五章「海嘯」③
「おはようございます。すみませんねえ、こんな時間に呼び出して」
すまないなどとは全く思っていない顔である。
それでも、呼び出された側はこれを咎めることができない。
なぜならここには、この異常な呼び出しを正当化できるほどの歪んだパワーバランスが働いているからだ。
「め、滅相もないことにございます」
「そうですよね。当たり前ですけどね」
こんなに偉そうな態度を取っておいて、この男はまだ二十代だというのだから、相手の怒りも並々ならぬものだろう。
「一応確認しておきますが、白波瀬さん、今日呼び出された理由は分かっていますね」
「はい。宮花漣様に、不遜な行いをしたと自覚しております」
「その通りです。分かっているのにやってしまったんですね。馬鹿ですねえ」
深夜二時。俺は九条グループ本社の社長室に居た。
他にもこの部屋の主である九条伊織と、白波瀬夫妻が集まっている。
「では伺いますが、なぜ宮花漣に手を上げてはいけなかったのでしょうか」
「かの方が、九条グループ会長の甥であり、宮花家の血を引く方だか・・・・・・」
「違います」
本当は違わないくせに、と思う。
だって漣が白波瀬夫妻の実子なら、今頃は皆自宅で休んでいたはずなのだ。
白波瀬部長の言うことは、何も違わない。
「暴力を伴う躾は躾ではなく、単なる虐待だからです」
もっともらしい理由をつけているが、これはそんな崇高な断罪ではない。
九条の力を見せつけ、二度と歯向かわないように教育しなおすための洗脳だ。
「そもそも、あなた方と交わした契約の中に、虐待を禁止する事項がありましたよね。なぜ破ってしまったのですか」
「か、完璧にお育て申し上げるつもりでおりましたので、二位になってしまったと聞いて、焦ってしまい・・・・・・」
「つまり自分の保身のためですよね。しかしまあ、漣からも暴力を振るわれたのはその一回だけだと聞いていますから、今回は養育係を解任するだけに留めましょう。養育係としての退職金も支払います」
なんと、思ったよりも寛大な処置である。九条から追い出すつもりで呼び出したのかと思ったのに。
「部長職も継続で構いません。ただし二度目はありません。次に九条グループを貶めるような行いが確認された場合、即刻解雇します。その歳で今までと同等の収入を得られる転職先を見つけられるなら、大いに構いませんが」
この男のこういう姿を見ると、彩世が社長にならなくて良かったと思う。
恐らく彼女は、役割さえ与えられればそれに見合う働きをしただろう。本当に社長になっていたら、必要な時にリストラだってできたはずだ。
しかしそれは、いざとなれば可能だというだけで、彼女の望むところではない。
彩世は進んで権力を行使するような性分ではないのだ。
「あの、漣を育てていただいて、ありがとうございました」
俺は前に進み出て、夫妻に頭を下げた。
「宮花・・・・・・何を」
「長年の苦労を労っただけです。他意はありません」
漣は、物事の考え方や言葉選びに至るまで、あまりにも彩世と似すぎている。事件から十一年経った今でさえ、何かにつけて彼女を思い出しては死にたくなるのだから、あんな彩世の模造品みたいな少年と同居して世話をするなんて、俺には到底できない。
「もうお休みください。お疲れ様でございました」
だからこれは、俺の責任を肩代わりしてくれた人達への、敬意と懺悔だ。
「こちらこそ御無礼をいたしまして、申し訳ございませんでした。寛大なご配慮に感謝申し上げます」
もしも俺があの子を引き取っていたら、俺は今度こそあの子を手に掛けていただろうから。
「何か飲むか」
夫妻が帰ったあと、俺と社長は二人で居残っていた。
「結構です。カフェイン中毒の方と同じ飲み物を飲む訳にはいかないので」
壁一面を覆う巨大な窓から街を見下ろすと、やはり明かりの数はまばらだった。
流石にこの時間ではみんな眠っているのだろう。
あの子もちゃんと眠れているだろうか。
「ココアでもいれようか」
そう呟いた男の輪郭を、テーブルランプがぼんやりと照らしている。それは頼りげない光だったけれど、他に光源のないこの部屋ではやけに明るく見えた。
「・・・・・・そんな小洒落たものがあるとは思いませんでした」
「僕が小洒落てないとでも」
「ええ」
「生意気な」
そう言いつつも甲斐甲斐しくマグカップを用意するのだから、出来た上司だと思う。深夜二時にスーツを着て来いと呼び出したことは、いただけないけれど。
「どうしてこんな時間に白波瀬を呼び出したんですか」
「お前が『今日だけ漣を預かってください』とか言って、あの子を僕の家に押し付けたからだろ。多分あの子、僕が日中に外出したら家中を引っ掻き回すぞ。僕が高槻だった頃の書類とか、見られたらまずい物がいっぱいあるのに」
この男の言う通り、俺は今日この男に漣を預けている。
彩世の誕生日に、あの子の前で真実を隠し通せる自信がなかったし、なんとなく一緒にいたくなかった。
「はい、ココア」
「ありがとうございます」
あの子は監視の目が離れた隙に家中を探り出す可能性があるから、深夜二時に待ち合わせたのは英断だったな。
「まあ、この時間に呼び出した理由はそれだけじゃないんだが」
ふと社長がそんなことを言うので、俺はひとまずソファに座り、ココアを飲みながら他の理由とやらを考えてみた。
まず一番に考えられるのは、業務中に呼び出すと目立つからだろう。よからぬ噂が立って注目を浴びるのを避けるためには、誰も見ていない時間に呼び出す必要がある。
「お前、さっきまで京香と何してた」
「ぶはっ、かは、げほっげほっ」
思いもよらぬ問いかけに、俺は飲んでいたココアを吹き出した。
「きったな」
「・・・・・・どちらの意味で」
「両方だろ」
まさかこの男、俺と京香をわざと夜に落ち合わせ、その直後に呼び出すことで関係性を探ろうとしていたのか。
食えない奴。
「お言葉ですが、高槻秘書とは社長が思っていらっしゃるような関係ではありません」
ハンカチで衣服を拭いながら、半ば当たり散らすように言う。
「どうかな。そもそも、僕が思っている関係が何かによるだろ」
確かにその通りではあるが、この話はあまり長引かせたくない。この分では、必死に誤魔化そうとしてボロを出すのが関の山だ。
「もうそんなこと、どうでも良いではないですか」
ジャケットを脱いでソファの背もたれに掛け、俺は座面の上で三角座りをした。
「どうせ皆、汚い大人になってしまったんですから」
『漣』
燃えるような炎天下の渚で、人形のように美しい幼子を手招いた。
『こっちにおいで、漣』
砂浜に足を取られながら、何も疑わずに近寄ってくる人形。
俺はその手を引いて、浅瀬から沖を目指して歩いた。
その後はもう、助からないはずだった。
「私達の無理心中を海難事故に偽装した貴方も、同罪でしょう」
咎めるように、嘲るように、憐れむように、俺は伊織の双眸を見た。
「・・・・・・」
「無理に、私と同じところまで堕ちなくてもいいんですよ」
貴方は底抜けに優しいだけなのだから、その優しさを思う存分に振りかざしていればいい。それで幸せになる人も、救われる人も沢山いるだろう。
でももう、俺には響かない。
その親切をふいにしてしまう俺なんかの為に胸を痛める彼が、いっそ可哀想だ。
「私はもうずっと、貴方が優しくしてくれる今この時ですら、死にたくて仕方がないのですから」
俺は彼を宥めるように、ふっと笑って見せた。
もう俺に構う必要はないのだと、安心させたかった。
「それでもお前は、もう二度と死のうとしてはならない」
・・・・・・こういう真っ直ぐなところは、彼の異母妹に似ているのかもしれない。
「漣の記憶を奪った罪を背負って、漣のために生きろ」
俺は深く溜息をついて、低く呟いた。
「体よく後任の養育係を押し付けないでください」
「ばれた」
「何度も言いますが、私は一度漣を・・・・・・」
「別に構わない。僕の妹を二人とも手玉に取ったお前が、そんな人間であるはずがないしな」
そう言って、男はにやにやと気色の悪い笑みを浮かべた。本当に、つくづく癇に障る男である。
「貴方のそういうところが・・・・・・」
「嫌いだろう。知ってるよ」
男の笑みが急に穏やかなものに変わるので、気味が悪くて目を背けた。
「それでも生きていてほしいんだ。お前まで喪ったら、僕はもう耐えられなくなってしまうから」
どうして、そんな顔をするんだよ。
そんな眼で見られたら、何て返せばいいか分からなくなってしまうじゃないか。
「伊織先輩のそういう我儘なところが、俺は最初から大嫌いだったんですよ」
やっぱりこの男には、深夜に会うものではない。
伊織がこんな風に優しいのも、その優しさを俺が上手くかわせないのも、何もかもこの時間のせいだ。
だから、夜が明けたらきっと大丈夫になる。
ちゃんと、彩世の為に死にたい自分でいられる。
「っはは、ごめんごめん」
困ったような笑顔を浮かべながら、伊織は俺の頭を撫でた。
その手を振り払えたらどんなに良かったかと、目覚めてから思った。
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