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小波と港  作者: 水縹
第五章「海嘯」
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小波と港 第五章「海嘯」②

 「久しぶり」

 だいぶ遅くなってしまったと思ったのに、太陽はまだ高い。それでも着実に薄明が近づいているようで、蜩だけが揃って鳴いていた。

 「まだ暑いよね。もう六時なのに」

 俺達は静かに向かい合い、ゆっくりと互いの姿を見た。

 「誕生日おめでとう」

 そう笑いながら、俺は思い切り冷や水をぶっ掛けた。

 文字通りの冷や水だ。それも、相手に浴びせるために掛けた水。案の定相手はずぶ濡れになってしまった。

 それでも、聞こえてくるのは蜩の声ばかりで、不満や抗議の声は聞こえてこない。

 もう二度と、聞くことは出来ない。

 「彩世」

 『なあに、湊』

 そう言って振り返り、得意げに笑う彼女はもう居ない。

 あるのはこの無機質な石だけで、石は喋ったり笑ったりはしない。

 あの尊大な仕草も、狡い言葉も何もかも、彼女が俺にくれるものは一つもない。

 「また誕生日が来たんだよ、彩世」

 生きていれば、永遠に俺よりも一つ年上であるはずだった。

 でも今はもう、俺の方が九歳も年上になっている。

 十八歳のまま時が止まった女の子のことを、今でもまだ忘れることができないばかりか、心の底から愛してしまっている。

 「お願いだから歳をとってくれよ・・・・・・彩世」

 生きていたところで、彩世が俺のものになるわけではなかった。彩世には継ぐべき家と、定めれた伴侶がいて、そこに俺が入り込む余地はなかった。

 それでも、何もかもを失った今となっては、生きてさえいてくれれば、他のことなんてどうでもいいと思える。

 彩世が他の男と結婚して、子どもが生まれても、彩世という人間が生き永らえているなら。

 俺に向けられたものではなかったとしても、どこかで笑っていてくれるなら。

 それ以上の幸福はいらない。俺には過ぎた願いだから。

 「今年からね、漣が高校生になったんだよ。しかもどういう訳か、進学先は俺達の母校なの。彩世と同じ臙脂色のネクタイを締めて、しかもタイピンまでつけてて、本当に彩世そっくりなんだよ」

 皆生きていられたら良かった。そうしたら、わざわざこんな寂しいところで、返事のない近況報告をしないで済んだ。

 「ねえ彩世。どうしてあの日父親を庇ったの。婚約を勝手に決められたり、完璧でなければ認めてくれなかったり、そういう父親のことが嫌いだって言ってたじゃん。それなのにどうして、あの日父親を庇ったの」

 尋ねなくても分かっていることを訊くときほど、虚しい瞬間はない。

 それでも訊いてしまうのは、どこまでも狡い貴女を咎めていたいと思うからだろうか。

 「凶器だって、あの場にあったケーキナイフじゃなくて、渚の用意していた果物ナイフだった」

 段々、あの時の彩世と渚の言葉が蘇る。

 『私は酷い人間だから、これからたくさん湊を困らせるよ』

 『明日からは、いや、明日からも幸せに生きなさい。俺のことをいい兄貴だったなんて、無理に思わなくていいから』

 「渚、彩世のせいでまだ服役中だよ。目論見通り、殺人罪ってことになってるからね」

 誰も気付いていないけど、俺だけはちゃんと気付いている。

 あの日の出来事は突発的な事件じゃない。

 綿密に計算されつくした計画的悲劇。

 「本当は嘱託殺人なのに」

 彩世は、渚と共謀していたのだ。

 

 「あ、やっぱりここにいた。もう天文薄明だよ」

 「・・・・・・何しに来た」

 「迎えに行けって言われたの。ともすると墓地で野宿するかもしれないからって」

 冴えた声。涼やかな瞳。

 それは彩世によく似ていて、でも明確に違う生き物の声だった。

 「京香も大変だな。いつも『お兄様』のパシリやらされて」

 なまじ似ているからこそ、より鮮明に違うと分かる。

 これは彩世ではない。精巧なレプリカのようなものなのだ。

 「全くだよ。お久しぶりですお姉様、京香が来ましたよ」

 「もう帰ろう。俺達が居たら、彩世も休まらない」

 彩世は死にたくて死んだんだ。安らかに眠らせてやることが、彩世への弔いになる。

 「この後どうする。うち来る」

 「何でそうなるんだよ。正気か」

 ハンドルを握る京香の横顔を見ながら、俺は冷静に苦情を入れた。

 「正気だよ。ああ、使用人がいるのが嫌だって言うなら、私の名義で借りてるマンションでもいいけど」

 「京香、言っとくが俺は・・・・・・」

 「好きなんだよね、お姉様のこと。分かってるよ。でももうお姉様はこの世に居ない。だったら私でいいでしょ。貴方はお姉様が好きで、私はお姉様と瓜二つ。ウィンウィンじゃん」

 京香もだが、漏れなく自分も最低な部類の人間なので、こういう時なんて答えればいいのか分からない。

 お前のことを愛してくれる人を探せ、とか言えばいいのだろうか。

 もう二度と愛してくれない人を想っている分際で。

 「湊だって、悪くないと思ってるでしょ。本当に嫌なら、お姉様以外を許容できないなら、二人でドライブデートなんてしないもの。仕事でもないのに」

 ぐうの音も出ない。反論を考える気すら起きない。

 「大丈夫だよ湊。これは浮気じゃないから」

 「お前との関係を恋愛と結び付けたことはない。お前は彩世じゃない。俺の愛する人じゃない」

 「じゃあどうするの。限られた記憶を辿って、名前すら呼んでくれない想い人と添い遂げるの。そんなことするくらいなら、よく似た別人と適当な関係に落ち着く方がいいじゃない」

 明確に傷が広がっていくのが分かった。開いたきり塞がることのない傷。

 それをいつまで抱えているのか、って。

 そんなの俺の方が知りたかった。

 いつになればこの傷を治せるのか。

 いつになれば彩世のことを忘れられるのか。

 いっそのこと、俺も記憶喪失になってしまえば良かった。

 そうすれば、致死量の睡眠薬に頼る必要もなかったのに。

 「京香のそういうところ、本当に嫌い・・・・・・だし」

 「『だし』、なに」

 「お前を拒絶できない自分のことは、もっと嫌いだ」

 貞操を守って死んだ彩世の想い人が、こんな最低最悪の人間でいいはずがない。

 だから俺も、彩世のことだけを真っ直ぐに見つめていられる人間でありたかった。

 でも俺は、そこまで高潔な人間ではない。

 弱くて情けない、彩世と一番釣り合わない人間だ。

 だから、悪い手に乗ってしまう。

 「でも、湊はもう一人では生きていけないよ。見てれば分かる」

 京香の声を聞いた日の夜は、不思議とよく眠れた。

 多分俺の脳内の深い部分で、それを彩世の声だと誤認しているのだと思う。

 「今日は外で飲むだけにしてくれ。潰れたら解散するから」

 だからいつからか、促されるまま京香を利用している自分がいる。

 「分かった。運転手呼んでおくね」

 俺たちはやっぱり、いつまでも幸せになれない。

読んでくれてありがとうございます!

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