小波と港 第五章「海嘯」①
第五章「海嘯」
誰もいないはずだと油断する愚かな少年の背を見つけて、静かに息をつく。
元々静かな部屋とはいえ、蝉時雨以外には物音一つ聞こえない今の図書室ならば、一人きりだと思い込むのも無理はなかった。
「何してんの」
いや、違うな。
彼にとって最も想定外だったのは、「俺」がここにいることだろう。
「はっ、先、生」
驚きのあまり震える手は、宮花湊の名前が載った古い卒業アルバムを握りしめていた。
「あーあ、見つけちゃったんだ」
そこに映る在りし日の自分は、誰の目にも明らかなほど憔悴しきっていて、その可哀想な雰囲気がむしろ腹立たしかった。
・・・・・・気持ち悪い。
まるで道路に撒き散らされた吐瀉物でも見たかのような、えも言われぬ不快感が胸中に広がった。
「いつから記憶戻ってた」
「ち、ちがっ、これは」
「惚けなくていい。あーいや、もしかして最初から。俺と接触するために、わざわざこの学校に来たのかな」
思ったよりも低い声が出て、自分の声域の広さに思わず感嘆しそうになる。
だが俺の感動とは裏腹に、みるみる青ざめていく少年は、いっそ気の毒に思えた。
「違う、俺は本当に、何も思い出してない」
そう宣う眼をじっくりと覗き込んだ。
「思い出してない」だなんて、本当にそうだろうか。
誕生日パーティの最中に殺人事件が起きたこと。
従姉が帰らぬ人になったこと。
父親が殺人犯になってしまったこと。
その現場をたった五歳で目撃してしまったこと。
その全てを、本当に思い出していないのだろうか。
「・・・・・・へえ」
「本当だって、信じてよ先生」
「まあいいよ」
漣が記憶を取り戻しているか否かはどうでもいい。
漣が覚えていないからと言って、全ての過去や事実が無かったことになるわけではないのだから。
むしろ、漣の中に消失した記憶があるという事実自体が、過去の悲惨さを物語っているというものだ。
「先生こそ、何でここにいるの。臨海学校の引率は」
「ね。どうしたんだろうね。今頃は皆海水浴かな」
まるで他人事みたいに呟いてみる。
実際他人事だった。
教員なんて片手間でやっている遊びであって、本業は社長に飼い殺された犬だ。
宮花という最低なドッグタグを首から下げて、創業者一族の令嬢を殺した殺人犯の身内として生きることが、俺の至上命題だから。
「またはぐらかすんだ、そうやって」
「生きていれば、知らない方がいいことなんて山ほどある。高校生なんて特にそうだ」
それでも、漣の言いたいことは分かる。
渚のことも、俺の父親にまつわる過去の話も、もっと早く知っていれば彩世が死ぬことはなかったかもしれない。
子どもだからと何もかもを隠されたままで、真相は取り返しがつかなくなって初めて明かされるだなんて、そんな酷い話はないだろう。
特に漣は、自ら現状に違和感を抱き、真実を知ろうと動いている。
事が起こるまで多少の違和感になど全く気付いていなかった俺とは、正反対だ。
「ずっと騙し続けるのだって苦しいはずでしょっ。他でもない俺が知りたいって言ってるのに、頑なに隠し続ける意味は何」
意味なんてない。
あるとすれば、俺の罪が露呈するのが怖いというだけだろう。
大きな罪を犯した相手が記憶を失ってくれて、心底ほっとしているような人間なのだ、俺は。
「そんなことを訊かれたところで、答えるつもりはない。ここへは、お前に連絡があって来ただけだからな」
「なに、連絡って」
ひとたび沈黙が訪れると、図ったように蝉時雨も止んだ。
聴覚情報が遮られると、向かい合う漣の瞳の色がやけに鮮やかに見えて、やっぱり胸が苦しくなる。
漣の眼は彩世のそれと本当によく似ていて、見ていると俄然死にたくなる気がした。
「漣はもう、白波瀬夫妻と今後一切会わなくていい」
「え、は、どういうこと」
これを言ったら漣は怒るだろうか。いや、怒るに決まっているな。
この世の誰よりも肉親を求めていたような子だ。罵詈雑言を食らう覚悟は出来ている。
「白波瀬夫妻は、俺の依頼を受けて漣を養育していた。でも今回、夫妻が漣に虐待していたことが分かったから、夫妻を解雇した」
「何、どういうこと。先生のせいで、俺はあの人達に引き取られてたの」
「そうだ」
さあ、俺を非難しろ。
あんな人間の元に自身を預けた犯人を糾弾しろ。
「何で、先生が俺の保護者を決める権限を持ってるの」
・・・・・・感情のままに怒り散らせばいいものを。
「兎に角、漣はもう、白波瀬夫妻を親呼ばわりしなくていい。後任の親は決まってないけど、俺は今日予定が入ってるから、臨時で別の人間を用意し・・・・・・」
「『後任の親』って何。俺はペットじゃない。いいや、ペットにだってこんな仕打ちはありえない。親って、ただ食事や住居を提供するだけの存在なの。違うでしょ。絆とか愛情とか、そういうものを与えてくれる存在であって初めて、親と呼べるんでしょっ」
きっと、普通はそうなんだろう。
望んで産んだ我が子を愛情いっぱいに育てるのが、普通の親というものなんだろう。
けれども生憎、俺にそういう存在は居なかった。周りにも、そんな風に愛された人は見たことがなかった。
伊織先輩も京香も、彩世も俺も渚も、漣だって結局は、親からの愛を知らずに死んでいくのだ。
「最後にこれだけは教えてよ」
ずっとそうやって、何もかもが普通より少し欠けた状態のまま生き続けて、気付いた時には何も残っていないような、そんな人生を終えるのだ。
「先生は、俺の何なの」
弱々しいその声は、パーティの前夜の渚とよく似ていた。
「俺は君の親権者だ。ただ、それだけだ」
そうとだけ言って、俺は図書室を後にした。
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