小波と港 第四章「海渠」⑤
ほの暗い部屋に、蝋燭の火だけが朧に点っている。
「ハッピバースデートューユー。ほら漣、ふうってして」
「ふー」
「すごいすごい」
静かに立ち去った兄が、パチンとスイッチを押して部屋の灯りをつけた。突然明るくなった視界に目を細める。
あれから一夜明け、昼頃に彩世の父がやってきた。誰もが内心で来ないことを望んでいたが、この世界はそこまで甘くない。かの男を交えて六人になった俺達は今、ホールケーキを囲んでいた。
「漣。これは私と湊からの誕生日プレゼントなんだけど、受け取ってくれるかな」
「わあっ、ずっと欲しかった車のおもちゃ。ねえね、にいにもありがとう」
「ふふ、喜んでもらえて何よりだよ」
このミニカーの玩具は、少し前に俺と彩世の二人が恥を忍んで買いに行った代物である。周りの主婦の目が気になるを通り越して、ぶっ刺さって痛いくらいだった。
「伯父さんからはこれだよ」
「これは、本かあ・・・・・・ありがとう伯父さん」
流石とでも言うべきか、彩世の父は五歳児が欲しがりそうもない本を手渡してきた。ここで漣が「本なんか要らない」と言わなかったのは、彩世の父が訪ねてくる前に紗世さんが躾けていたからなのだが、小夜さんも食えない人である。
「それにしても、漣ももう五歳か。早いものだな」
「はい。お陰様で健やかに育っております」
抑揚のない声で、渚が言った。
我が子の誕生日会に接待をする羽目になったのだから、多少不遜な態度を取っているのにも頷ける。
「お前の父が早くに亡くなり心配していたが、幸せそうにやっているようで何よりだ」
今何て。
「心配していた」だと。
何だこの男、十年近く前に亡くなった俺達の父親を旧くから知っているのか。
「その節は申し訳ありませんでした」
「いやいや。こうして家庭を持てて良かったと思っているよ。私としても、お前のことはずっと心配していたんだ」
「このように幸せな家庭を築くことができ、本当に嬉しく思っています」
「本当にな。本来なら私の妹を嫁に貰うなど、大手企業の御曹司にも叶わぬ夢のまた夢だったんだぞ。ハハハハッ」
渚の顔が分かりやすく強ばっていく。彩世も紗世さんも俯いていて、状況が分かっていないのは俺と漣だけのようだった。
「むしろお前の父が亡くなって良かったじゃないか。こうして九条家の一員として名を連ねて、莫大な資産を手にすることになったのだから」
事情が知らない俺にも、その言葉が横柄なものだということは分かった。だからだろう。渚は我慢ならないといった様子で勢いよく立ち上がった。
「『亡くなって良かった』・・・・・・はは、はははは、誰のせいで、誰のせいで父が亡くなったと思ってるっ、一体誰のせいでっ」
渚が血相を変えて立ち上がった。あまりに大きな声を上げるので、驚いた心臓が早鐘を打つ。
「私にそんな態度を取って許されるとでも思っているのか」
「はっ、あんな風に人の命を軽んじておいて、よくもそんなに強気でいられるなっ」
「ちょっと貴方、お兄様もやめてください」
こんな風に怒り狂う渚は見たことがない。まるで後先を考えていない、吹っ切れたような顔だ。
「何で父が、お前のような男のために死ななければならなかったんだ。お前のせいで、お前たち九条のせいで父は死んだんだ。父はお前に殺されたんだっ」
「頭が高いな。誰のお陰でお前たち兄弟が何不自由なく生活出来ていると思っているんだ。お前の父親の命と引き換えに、九条が金銭を援助してきてやったからだろう」
「それだってお前たちにとっては痛くも痒くもない出費だったはずだ。父はもう二度と戻ってこないのにっ。どうせ俺のことも、お前の中ではただの駒に過ぎないんだろ。父のことだってそうだっ」
渚がそこまで言うと、彩世の父が思い切りテーブルを叩いた。
「っふ、ふはははっ、あはははははっ。お前はさっきから何に怒っている。こんなに大きな家を建ててやって、九条グループの役員にもしてやって、一体何の文句があるというんだ」
心臓の鼓動が、耳から聞こえるほどうるさくて堪らない。
この状況を何とかしなければならないという使命感と、それとは対称的な得体の知れない諦観が、俺の中を埋めつくしていた。
「天国にいるお前の父親も、私に感謝しているに違いない。自分の死と引き換えに、息子たちは幸せになったんだから」
いくら待っても、渚が返答することはなかった。
代わりに懐から取り出したナイフを手に取って、次の瞬間には勢いよく彩世の父親を目掛けてナイフを振りかざしていた。
「死ね、死ねぇぇええええ」
鮮やかな赤色を帯びた血液が噴き出して、辺り一面を染め上げる。
人間ひとりが、重力に従って倒れ込む大きな音が響いた。
「そん、な」
倒れたのは、社長ではなく。
「あや、せ・・・・・・」
俺の最愛の人だった。
「彩世っ、彩世ええええ」
渚がナイフを振り上げた瞬間、彩世は父親を庇うために立ちはだかったのだ。
「血が、こんなに、誰か救急車をっ、早く」
淡い水色のワンピースが、みるみるうちに赤く染まって濡れていく。
「はは、刺されちゃったよ、湊」
「何を言って、いや喋らないでっ、喋っちゃ駄目だっ」
俺は彩世の身体を抱え上げ、救急隊に引き渡しやすいように玄関へと運んだ。
一度寝かせようと思って彩世の身体を床に下ろすと、彩世は横たえることはせず、俺の正面に座り込んで血塗れの両手を俺の背へと回した。ぜえぜえと身体全体で呼吸する身体が、その苦しげな表情が堪らなく恐ろしかった。
「わたし、湊がだいすきだよ」
白魚のような手が、その鮮血を塗りたくるように俺の両頬に触れた。まるで、「わたしをみて」とでも言うように。
「やめ、やめて、彩世」
「ごめん、わたし、やっぱりむりだった。湊へのきもちを、がまんするとか、むりだったよ」
「しゃ、しゃべったらだめだ」
どうしたらいいのか分からなくて、同じ言葉ばかりを繰り返してしまう。俺にはただ、弱々しく呼吸する彩世の体温を感じながら固まることしか出来なかった。
「ねえ、湊はわたしのこと、すき」
今、今それを訊くのか。
昨日まで必死に我慢したその答えの続きを、今。
貴女は、貴女という人はっ。
「すきだ」
一体どこまで、奔放で、高潔なんだよ。
「彩世のことが、せかいでいちばんだいすきだよ」
そう言うと、彩世は力なく笑った。
「そっかあ、よかった。うれしいな」
そんな限界の笑顔すら美しくて、俺は強ばる手を彩世の背に回した。
「わたし、湊にであえてしあわせだった。わたしのこと、わすれないでいてくれる」
「あたり、まえだろ」
「ふふ、よかった。だいすきだよ、湊」
彩世はそう言って、ゆっくりと身体を近付け、俺の両目を捉えた。
視点が定まらなくて、ゆらゆらと虹彩が揺れている。
ただでさえ無理をして喋っているのに、彩世は最期の力を振り絞って俺の唇を塞いだ。
「わたしの、ふぁーすと、きす」
にっこりと笑った彩世が、倒れ込んでくる。
「彩世、彩世、彩世ぇぇっ」
先程まで繰り返していた呼吸も、いつの間にか止まっていて。後に残ったのは、彩世の骨と肉の重さと、段々と冷めていく温もりだけだった。
「彩、世・・・・・・」
初めてのキスは、血の味がした。
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