小波と港 第四章「海渠」④
「こんばんは。いらっしゃい」
「ご無沙汰しております。叔母様。叔父様も」
「こんばんは彩世ちゃん。湊もよく来たな。暖かくなってきたけど夜はまだ寒いだろう。早く上がりなさい」
彩世を取り巻く大人は、彩世の父親を含め、大抵が彩世を冷たい目で見ている。
九条家の令嬢として相応しいのか。
どこかに一つでも粗がないだろうか。
どうにかして貶めてやれないだろうか。
そういう類の、恐ろしい眼だ。
そんな彩世に近侍する俺にとっても、現れる大人という大人が恐ろしかった。それでもこの家の大人だけは、俺たちに安らぎを与えてくれる。
「ねえね、にいに、あそぼうよ」
「おー漣。おっきくなったなあ」
「本当だね。ついこの間まで赤ちゃんだったのに」
ここは俺の兄と、彩世の父の妹が結婚した時に建てられた家だ。夫妻の間に生まれた一人息子の漣は、俺にとっては甥で、彩世にとっては従弟にあたる。
「漣、遊ぶのは後よ。二人ともお夕飯まだでしょう。もう出来てるから、一緒にいただきましょう」
「ありがとうございます叔母様」
どこに行っても見えない敵ばかりの俺たちだが、この家だけは安息の地だった。幼い俺を養ってくれた兄の渚と、朗らかで物腰柔らかな義姉の紗世さん。そしていつだって場を和ませてくれる甥の漣。三人は俺達を敵視することも、差別することもしなかった。
「漣くんは何のお遊びが好きなの」
「僕はね、鬼ごっこが好き」
「そっかあ。じゃあ明日ねえねとにいにと、三人でやろっか」
「やったあ」
この少年こと漣は、明日五歳の誕生日を迎える。俺と彩世がわざわざこの家に来たのも漣の誕生日を祝うためで、まだ春休み中であることから、漣の誕生日会には前泊というのが恒例になっている。
「二人とも、遠いところをわざわざありがとうね」
「いえいえ。漣と会えるのは嬉しいですし、気分転換にもなりますから」
「そう、そうね。東京は、息が詰まるものね」
兄夫婦が郊外に居を構えると言い出した時、九条家内は揉めに揉めた。社交界に辟易していたらしい紗世さんと、元々華美な生活に慣れていない渚兄は、のんびり暮らしたいという意見で一致したようだった。
だが、苗字を変えても住所を変えても、二人は天下の九条家に連なる人間だ。それはそれは激しい口論があったらしい。
俺はと言うと、今にして思えば兄の理想が叶って良かったと思うが、本当は孤独で死にそうだった。両親を早くに亡くした俺を、兄は学生の身でありながら一人で養ってくれた。ヤングケアラーであることを強いていたことは、今では胸の痛む話だが、それでもあの当時の俺にとっては兄こそが全てで、兄以外など受け入れられず、兄のいない場所は地獄でしかなかった。
だから今でも、漣には苦手意識がある。かつての俺は漣が兄を奪ったように思えて、毎日苦しかったのだ。
「・・・・・・父は、明日の昼頃に到着するそうです」
「そう。本当のところを言うと、お兄様が来ない方が気が楽なのだけれどね」
紗世さんのストレートな物言いに、彩世だけでなく俺までもが言葉を失ってしまった。
「叔母様」
「お義姉様」
「あら、長く社交界から離れているせいか、思ったことを何でも口に出す癖が出来てしまったみたいね。ごめんなさい。っふふふ」
紗世さんのことも、出会った当初は俺から兄を奪った悪女だと思っていたが、今となってはどこか抜けている憎めない人だと思っている。両親を亡くし、幼い弟を養う羽目になって、いつも憔悴していた兄の伴侶としては、これ以上ないほど相応しい人だ。
・・・・・・そう言えば渚は、なぜ足でまといな弟である俺を施設に預けなかったんだろうか。
「もう、叔母様ったら」
まあ、どうでもいいか。そんなことは。
「彩世。婚約のこと、本当に良かったの」
漣が眠った後、俺と彩世、渚と小夜さんの四人は、ダイニングで晩酌のようなことをしていた。
「良いんです。私には兄弟がいませんから、九条グループを引き継がければなりませんし、そうなったら結婚相手を選べないのは分かっていましたから」
彩世も紗世さんも九条家の令嬢として生を受けたのは同じだが、紗世さんには九条家を引き継いでくれる兄がいて、彩世にはそれがいなかった。そのため彩世は、九条家の未来を一人で請け負うことになったのである。未だ女性が家長となることに否定的な人間が多い、この世界での上流で。
「それに色々と自由にやらせてもらいましたから、感謝もしてるんです。悪い気分ではないんですよ」
『会いになんて来ないでよっ』
昼間の叫びが、殊更強く思い出される。
「悪い気分ではないんですよ」なんて嘘じゃないか。伴侶となる男をあんなにも明確に拒絶して、髪を振り乱していたくせに。
「まあ、宛てがわれただけと言われればその通りですから、恋愛感情までは持っていませんけどね」
笑うな。
そんな風に、苦しそうに笑うな。
無理に口角を上げるな。誤魔化してしまうな。流してしまうなよ。
俺にだけは意地悪で、俺にだけは本音を耳打ちしてくれた彩世。それでも根本にあるお姫様の気質は抜けなくて、感情的になることなど一度もなかった彩世。
そんな彩世が、婚約の話だけは一貫して拒絶し続けて、珍しく冷静さを欠いている。夫となるはずの相手を、いっそ憎たらしそうに見つめている。
その全てを知ってしまっているのに、今更こんな笑顔を見せられたところでどうして安心できようか。
こんな、見るからに偽物だと分かる作り笑いなんて。
泣いて、咽び泣いて、泣き喚いて、俺を困らせればいい。どうにもできないことだけど、その不条理が嫌なのだと、俺に当たってしまえばいい。
それなのに、そうしない貴女は、彩世は。
「なあに、湊。私の顔に何か付いてる」
見ている方が苦しくなるほどに、高潔だ。
「彩世はもっと、周りを困らせていいと思う」
「それを、湊が言うの・・・・・・」
そんな顔は、初めて見たな。
瞳を潤ませて、強く訴えかけるような、そんな瞳は今までに一度だって見たことがない。
「私なら大丈夫。私は酷い人間だから、これからたくさん湊を困らせるよ」
か弱い女の子の瞳は、その次の瞬間にはいつもの調子に戻っていた。
「ふっ、『これから』なんて冗談だろ。彩世はこれまでだって何回も俺を困らせてきたじゃないか」
「はー何それ、何その言い方っ。可愛くない」
そうだ。これでいい。
きっとこれから何度もこの日のことを悔やむのだろうけれど、今はこれでいい。
その嫋やかな手を、掴むより離すことを選んだ。
他でもない、彩世がそうすると決めたから。
「あーあ。何かくっだらない口喧嘩してたらお腹空いちゃった。湊、お夜食作ってよ」
「は、なんで俺が」
「いいじゃんよ。叔母様、湊にキッチン貸してください」
「いいけれど、冷蔵庫の中のものは明日のパーティーの為に用意したものだし、使える食材と言えば卵くらいよ。あとは春キャベツとかかしら」
「じゃあ卵焼きで。よろしくね、湊」
「殻入れてやる」
「んー今何てー」
「何でもねーよ」
奔放で、高飛車な演技が上手くって、そのくせ繊細で、周りに気を使わせるのは誰よりも苦手で、底抜けに明るくて優しい、俺だけのお嬢様。
そんな彩世だから、俺は彩世の希望に寄り添いたいと思うんだよ。
どんなに嫌な決断でも、異を唱えて抗議したくなるような決断でも、受け入れようと思えてしまうんだよ。
「なるべく早くしてよねー」
どこまでも潔い貴女だから。
「ったく、好き勝手言いやがって」
悪態をついたはずの口許が、自然と綻んでいく。
「俺も何か作ろうかな」
「うわびっくりした。渚も夜食作んの」
背後からの声に驚いて振り返ると、そこには少しだけ疲れて眠そうな兄がいた。
「卵とキャベツで炒め物でもしようかなって。ほら、女性陣盛り上がってるし」
「ほんとだ」
オープンキッチンから見やった先には、和気藹々とガールズトークに勤しむ彩世と紗世さんがいた。
「渚って今でも料理するの」
「どういう意味」
「そのままの意味だよ。俺と二人暮しの頃は料理してくれてたけど、今は小夜さんが居てくれるから、料理やめちゃったんじゃないかと思って」
本当は料理が苦手だったことも知っている。それでも俺の為に勉強して、振舞ってくれていたことも。
「今でも時々するよ。それに今日は、お前に俺の手料理を食べてほしかったんだ」
「ふっ、なにそれ。俺が居なくて寂しかったのは渚の方だったってこと」
「まあ、そういうことなんだろうな」
珍しく否定してこないので、俺は卵を割る手を止めて渚の方を見た。
「え・・・・・・」
「湊の方こそ、頑張って大人みたいに振る舞わなくて良いんだぞ。また明日東京に帰っちゃうんだから、今のうちに俺に甘えとけ。次に俺に甘えられるのは、いつになるか分からないぞ」
「心配しなくても、もう甘えるような年齢じゃないよ」
「ああ、そうだったな」
うっすらと笑う兄を見て、相当眠いのであろうことを察する。ただでさえ元気な漣に加え、今日は俺や彩世が押し掛けてきたせいで疲れているのだろう。さっさと眠った方が良い。
「ねえ、砂糖どこ」
「ああ、砂糖ならここに。って、お前卵焼きに砂糖入れるタイプなんだな」
「え、渚忘れちゃったの。渚が作る卵焼きを美味しいって言ったら、渚がこの砂糖入りのレシピを教えてくれたんじゃん。まだ俺が小一とか、そのくらいのときの話だけど」
「ああ、そんなこともあったっけ」
二人で暮らしていた時間は、渚にとっては大変な日々だったのだろうが、俺にとっては結構、いやかなり楽しい日々だった。
それもこれも、俺が父を亡くしたショックでそれ以前の記憶を失っているから言えることなのだろうけど。
「元々は父さんの好みだったんだよ。母さんはしょっぱい派だったのに、父さんが甘い方が良いとか言ってうるさいから、母さんは渋々甘い卵焼きを作ってたんだ。俺は卵焼きの味付けに頓着とかないけど、うちの味は甘いのだって決まってたから、甘い卵焼きを作るようにしてただけだ・・・・・・お前は、父さん似なんだな」
渚は、昔の話はあまりしたがらない。それは多分、今の生活が幸せで、俺と二人だった頃のことは口にしたくない程に大変だったからだろう。
それなのに、これは一体どういう風の吹き回しだろうか。こんなに饒舌な渚は初めて見た。
「砂糖を入れると焦げやすくて大変だから、気を付けろよ」
「分かってるよ。そうやって渚が何回も口うるさく言ってきたんだから、覚えてる」
「ははっ、そうかそうか。それは悪かったな」
なんだか今日の渚はおかしい。どことなく緩い気がして、危うげに見える。どこか悪いのだろうか。
「ねー湊、お夜食まだ」
「もう出来るよ」
全く我儘なお嬢様だ。急かすくらいなら自分で作ればいいものを。
でもまあ、甘えてくれるだけ有難い。きっと結婚してしまったら、俺のことなんて考える暇もないだろうから。
「はい、お待たせ。甘いので作ったけど、良かったか」
俺はテーブルの上に箸を並べながら問うた。普段から俺の手製の朝食を食べている彩世が、俺の味付けに文句をつけるはずがないと分かっていながら。
「君が作った卵焼きなら、どっちも好きだよ」
「・・・・・・あ、そ」
また貴女は、そういうことばかり言うんだもんな。
俺は味の好みを訊いたのであって、作り手に対する評価なんて訊いていないのに。
本当に、狡い人だ。
「湊、ちょっと手伝ってくれないか」
振り返ると、キッチンの奥で渚が手招きしていた。
「なに」
「炒り卵でもしようと思って、火加減見ててくれ」
「いいけど・・・・・・」
その間渚は何をするんだろうか。
「いよいよ明日だな」
「ん、ああ、漣の誕生日ね」
渚が棚を漁りながら、俺にしか聞こえない声量で呟く。
「お前も今年で高二か。本当に大きくなった」
「ええ、なに急に」
突然柄にもないことを言い出すので、その声のする方を見る。
しかし、その後ろ姿から渚の表情を窺い知ることは出来なかった。
「あんまりいい兄貴で居てやれなくて、悪かったと思ってる」
「何言ってるの。俺こそ、俺のせいで学生だった渚がまだ小さかった俺の世話をする羽目になったんだし、謝るのは俺の方だよ」
今日は本当に、どうしたのだろうか。こんなに弱々しい人じゃなかったはずなのに。
「湊」
ふわふわした調子でいたかと思えば、今度は真剣な声がして再び渚の方を見る。相変わらず表情は分からないが、本当に疲れているだけ、なのだろうか。
「な、何」
「明日からは、いや、明日からも幸せに生きなさい。俺のことをいい兄貴だったなんて、無理に思わなくていいから」
そう言うと、渚は深く溜息をついた。
その様子を見て「体調でも悪いの」と言おうとした口が、開いたまま固まってしまった。
「朝が死んだら良いのに」
限りなく小さな声が、俺の鼓膜を震わせたから。
やっと振り返ったその目は、川底を蹴り上げられた清流のように、酷く濁っていた。
読んでくれてありがとうございます!




