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小波と港  作者: 水縹
第一章「海馬」
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小波と港 第一章「海馬」②

翌朝。俺はいつも通り、朝の七時前には学校に着いていた。そのまま慣れた足取りで向かうは教室、ではなく、南棟の二階。

 「おはよ、先生」

 「律。今日も早いな」

 ここは物理準備室、という名の先生の隠れ家だ。他の学校の準備室がどうなっているかは知らないが、少なくとも翠玲の高等部の物理準備室は、ここにいる綾瀬澪先生に占拠されている。

 「うん。家にいると、息が詰まるから」

 俺は先生のデスクの隣に置かれた机の上に鞄を置き、椅子を引いてそこに座った。

 ここは物理準備室に通いつめる、俺専用の特等席だ。

 「って、先生こそいつも早いじゃん」

 「俺は家に居ると仕事が捗らないタイプなんだよ」

 「何それ、どんなタイプ」

 先生の言葉がおかしくて、俺はくすくすと笑った。

 「それに俺は嫌われ者だから、職員室に居場所なんてないしな」

 「じゃあ俺と一緒だ。俺も、教室には居場所がない」

 先生は気さくな人で、三ヶ月前に編入してきたばかりの俺が親しみやすいと思うくらいには、よくできた人だ。そんな先生が言う「居場所がない」という言葉は到底信じられないが、生憎と俺の方は事実である。

 「本当は俺だって、首席になんかなりたくなかった・・・・・・なんて言ったら怒られるね。邦坂(くにさか)に」

 邦坂とは、俺が編入してくるまでこの学年の首席だった、邦坂(くにさか)千奈(ゆきな)のことだ。

 「そうかもな」

 この学年、第九十二期は、理数科一クラス、普通科九クラスの全十クラス四百人から成っている。A組からI組までが普通科で、学力の高い順にA組から振り分けられており、残る理数科はJ組だ。

 邦坂が在籍しているのもこのJ組で、A組の俺とは正反対のところに教室がある。歴代の首席が殆ど理数科から輩出されていたことを思えば、邦坂がJ組に居るのも何ら不思議はない。

 「邦坂は九十二期の、孤高のお姫様だったんだって。それなのにそれを覆した俺は、嫌われて当然だよね」

 九十二期の不動の姫、孤高の天才、邦坂千奈。

 その確固たる地位を揺るがした俺は、邦坂だけじゃない、他の生徒達からも白い目で見られている。

 不幸中の幸いと言えば、この学年の上位勢が殆ど理数科に固まっていることくらいか。お陰で教室で顔を合わせることはない。

 それでも、内部生至上主義的な考えを持つ生徒は少なくないから、やっぱりこの学校に来たのは、失敗だったのかもしれない。

 「律は、どうして編入しようと思ったの」

 「ひ、酷いよ。先生まで俺を邪険にするわけ」

 俺はわざとらしく両手で顔を覆い、泣き真似をして見せた。

 「違う違う、ただ純粋に、気になっただけ」

 大して慌てる素振りも見せず、先生は淡々と受け流す。その対応を少しばかりつまらなく、けれども先生らしいと思いながら、俺は窓の外を見た。

 「知りたいから」

 それ以外に、この学校へ来た理由などなかった。

 「何、学問を」

 おふざけ半分、真剣半分といった具合で先生は尋ねてくる。こんな所も、やはり先生らしい。

 「俺の全部を、だよ」

 「・・・・・・全部って、つまりどういうこと」

 俺は視界を細めて先生に向き直り、それから笑った。

 「ううん。やっぱり、何でもない」

 先生は少しだけ不満そうな顔をしていたが、俺は決して口を割らなかった。これ以上はまだ、時期尚早だと思ったから。

 先生がどんなに知らないふりをしていても。

 俺がどんなに僅かな記憶しか持っていなくても。

 俺と先生は昔、一度出会っている。

 「何でも早けりゃ良いってもんでもないよ」

 最早トラウマと化した記憶を振り解くように、俺は呟いた。

 「律は不思議な子だな」

 「先生には言われたくないよ。だって先生、学生時代は絶対人気者だったでしょ。彼女も複数人いたりしてね」

 俺がいたずらっぽく言うと、先生は少しだけ眉を顰めた。その表情が怒りを装っているだけだというのは、俺の目には明らかだった。

 「だあれも居なかったよ。彼女なんて」

 先生は俺を一瞥すると、決まりが悪そうにそっぽを向いた。

 「へーえ」

 「俺の話はいいんだよ。大事なのは律、お前のことだ。俺が職場で孤立してるのはどうでもいいけど、お前が学校で孤立してるのは問題だ。本当に大丈夫か」

 ああ。嫌だな。

 こういう心配をされるのは、少し、いや、かなり嫌だ。

 「・・・・・・別に、大丈夫だよ。友達が欲しくて学校に通ってるわけじゃないんだ。俺は先生と仲良く出来れば、それで嬉しい。それが一番嬉しいよ」

 俺が笑みを湛えても、先生は依然として硬い表情のままだ。ああ、全く。どうしてこういう時に、先生は流されてくれないのか。

 どうしてそんなに、悲壮感たっぷりなんだよ。先生。

 「お前がどんなに健気であっても、一人の生徒を敵対視するようなこの学年の空気はよろしくない。それでは、健全な学び舎とは言えないんだよ」

 「だから大丈夫だって。この学年の三九九人を、俺の味方にするなんて不可能なんだから」

 俺は半ば怒り散らすように強く言った。先生が心配してくれるのは嬉しいし、その心配を跳ね除けることしかできない己の未熟さは大嫌いだ。大嫌いだけど、この態度を撤回出来るほど、俺はまだ大人じゃない。

 もういっそ、先生が俺を嫌って、遠ざけてくれればいいのに。

 「でも、そうだな」 

 外は、耳を塞ぎたくなるほどの蝉時雨。息を呑む熱気と、目を焼くような眩い空の青。

 「今日はちょっと、教室には行きたくないな」

 気付けば俺は、胸の内を吐露していた。

 「うん。そうだね」

 先生は至極優しい手つきで、俺の頭を撫でた。

 「知ってたよ。今日は本当は、学校に来るのも嫌だったよな」

 この学校に来たのは、己の目的の為。その目的だって、将来や進路の為じゃない、単なる打算。

 でも、けれども、ここまで酷い学校生活は流石に堪える。学年の誰もが自分の敵で、俺に優しい言葉をくれる生徒も、俺のことを受け入れてくれる生徒も居ない。

 誰一人として、俺を快く思っていない。

 「でも・・・・・・授業には出るよ」

 「そんな、無理しなくていいんだぞ。いつだって頗る優秀なんだ。今日くらい、保健室で過ごしたって」

 「いや、良いんだ。ただでさえ先生は職員室で浮いてるんだから、その先生のクラスの生徒が保健室登校なんて始めちゃったら、余計に肩身が狭くなるでしょ」

 俺はただ「余計なお世話だ」って言ってほしいだけだった。わざと怒らせるようなことを言ったからには、呆れてほしかった。そうすることで、この狭い物理準備室に染み付いた重たい空気を、吹き飛ばしてしまいたかった。

 それなのにまだ、先生は笑ってくれない。

 「うん、だから、今日はもう教室に行こうかな」

 「大丈夫か」

 「大丈夫だよ。先生ってば心配しすぎ。てか、この俺が本心からあんなこと言うと思う。あんな、『教室に行きたくない』なんて。絶対ないよ」

 未だに辛気臭い顔をしている先生を有難くも、やや鬱陶しくも思いながら、俺は扉に向かって歩き出した。

 「じゃあね。ホームルーム、遅刻しないでね」

 ああ、良かった。

 「・・・・・・それは教師のセリフだよ」

 ようやく、笑ってくれた。

読んでくれてありがとうございます!

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