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小波と港  作者: 水縹
第四章「海渠」
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小波と港 第四章「海渠」②

 しばらく電車に揺られた後、俺達は私立翠玲学院の高等部校舎へと到着した。

 「九条さん。宮花くんも早いですね。おはようございます」

 「おはようございます先生」

 「おはようございます」

 本来ならまだ春休みである今日は、一部の代表生徒が入学式のリハーサルを行うことになっている。当然俺のような生徒がこんな面倒を進んで引き受けるはずもなく、首席という理由だけで半強制的に生徒会に入れられた結果がこのザマだ。

 「あとは新入生代表の子が来れば、すぐにでもリハが始められるんだけど」

 言いながら先生が昇降口を覗いている。しんと静まり返った休日の下駄箱に、人が来る気配は微塵もなかった。

 「何だか懐かしいね。湊も去年総代やったじゃん」

 「ああ、まあ」

 「『まあ』って。入学式の総代は首席だけが務められる名誉なんだよ。今日の入学式のリハーサルだって、私達が総代経験者だから呼ばれたって面もあるんだから」

 そう言うと、彩世はやれやれ、とでも言いたげに深くため息をついた。それからややあって、ふと「あ」という声を上げる。その瞳が捉えた方向を追うと、緑色のネクタイを締めた男子生徒が立っていた。

 「あの、十一時からリハーサルって聞いて来たんですけど」

 「では貴方が首席の・・・・・・初めまして、私は生徒会長の九条彩世です。全員揃ったことですし、早速始めちゃいましょうか」

 講堂に向かう彩世の後ろをついていく。ふと横を見ると、彩世の後をついていく緑のネクタイに、キラキラと反射するネクタイピンがついているのが目に留まった。

 このネクタイピンは、各学年の首席に与えられる秀才の象徴だ。秀才が集うこの学校の、その中の頂点に立つことを示す、誇りと栄光を固めたような煌びやかな装飾。誰もがその光を手にする日を夢見て、狂ったように勉強するのである。

 ・・・・・・俺を除いて。

 兄の手を離れ、親戚とは名ばかりの他人に養育されることになった俺は、決して迷惑を掛けないように自分を律して生きてきた。その生き方は学校選びにも影響を及ぼし、公立高校に行くより私立で特待生になった方が金が掛からないと思ったから必死に勉強した。

 俺の前を往く彩世みたいに、高尚な理由で勉強したことなんてない。

 「じゃあ、早速新入生総代の文を読んでもらおうかな」

 彩世の首元には、いつだって臙脂のネクタイが締められている。女子生徒はリボンと決まっているのに、全校で唯一彼女だけが、ネクタイを締めることを許されている。

 その理由は彼女が首席であり、首席はネクタイピンを付けなければならないからだ。ネクタイピンをリボンに付けるわけにはいかないし、かと言って付けないわけにもいかない。だから彼女は例外的に、女子生徒でありながらネクタイを締めているのだ。

 だからあのネクタイは、彼女の知性と、特別さの象徴だ。それにリボンよりもネクタイの方が、彼女には余程似合っている。

 ・・・・・・彼女は一体どこまで、孤高を極めてしまうのだろう。

 彼女が放つ光に魅せられて、いつからかその煌めきに酔っている。俺はそういう、数多の男の中の一人でしかないのだ。

 

 「お疲れ様でした、もう帰っていただいて結構ですよ。本番もよろしくお願いしますね」

 通し練習を終えた俺達は晴れて自由の身となり、先生や新入生がそれぞれ散り散りになっていくので、俺と彩世も後に続こうとした。

 したのだが。

 「やあ。彩世っ」

 どこからともなく弾んだ声がした。まるで背筋をゆっくりと撫で上げられるかのような、不快な明るさを纏っている。

 「・・・・・・御機嫌よう。邦坂くん」

 彩世の低い声が空気を震わせる。その表情をよく見てみると、美しい眉が微かに顰められているような気がした。

 「せっかく愛しの僕に会えたんだから、そんな顔しなくても良いんじゃない。ねえ、バトラーくんもそう思うよね」

 べっとりとした視線が自分に注がれる。その気色の悪い笑顔を向けられているだけで、全身を舐め回されているかのような不快感が募っていくのが分かった。

 「湊は私の叔父様の弟よ。その失礼な呼び方を辞めてと何度言ったら分かるの」

 「うんうん、彩世は怒った顔も可愛いね。とても綺麗だ」

 「いい加減にしてっ」

 良く手入れされた彩世の長い黒髪が、鞭のようにしなって振り乱される。しばらくの静寂の後に、彩世の深いため息が聞こえた。

 「何で邦坂くんが学校にいるの。貴方は今日のリハーサルには関係ないはずでしょ」

 「『何で』ねえ。ただ彩世に会いたかったから来てみただけだよ」

 「たったそれだけのために、こんなストーカーみたいな真似までしてここまで来たって言うの」

 「連絡しても無視する彩世が悪いんだろ。おかげで待ち合わせも出来ないし、突然逢いに行く以外にどうすればいいって言うんだよ」

 「会いになんて来ないでよっ」

 そう言い放った彩世は、後からハッとしたように口許を抑えた。青ざめていく彩世と対照的に、邦坂と呼ばれた男がにんまりと口角を上げていく。笑みを作るその仕草でさえ、気持ち悪くて仕方がなかった。

 「ははっ、あははははっ。それは無理なお願いだなあ。だって僕と君は、婚約してるんだから」

 火傷しそうなほど熱い手のひらに、必死の思いで爪を刺した。

 そうやって痛みを覚えていなければ、男を殴ってしまいそうだったから。

 男を殴って、彩世を困らせてしまいそうだったから。

 「それが何」

 最初に静寂を破ったのは、他でもない彩世だった。

 「行こう湊」

 やがて嫋やかな白い手が俺の手を引き、そのまま走り出す。

 「っふふ、またねえ彩世。バトラーくんも」

 耳障りな声。妙に高く、甘ったるいような、そんな声だ。

 「彩世」

 校舎の外に出たところで、俺は立ち止まった。

 「・・・・・・ねえ湊。私楽しかったの」

 「あや、せ」

 どんな言葉を掛けるべきだったのだろう。何をしてあげれば良かったのだろう。この時の俺には何一つ正しい答えが思い浮かばなくて、何もしないというただ一つの不正解を選んでいた。

 「初めて湊に出会って、初めて私に何も求めない人に出会って、いい子の振りしてた私を楽にしてくれたの」

 その声が少しくらい震えていたなら、俺はもっと単純に声を掛けられただろうか。だが彩世はどこまでも高潔で、弱みを見せるべきときにも強がってばかりいる。だから俺は、俺のような凡庸な人間は余計に困ってしまうのだ。

 「ああ、すっごく楽しかったあ。だからね、私幸せだよっ」

 その黒髪が波打つのを、映画でも見るみたいに遠く、見ていた。まるで現実味のない、造られた映像みたいに、彩世の笑顔は眩しく、美しかった。

 「あと二日で私の婚約が発表されるとしても。幸せなの」

 その瞳はおかしな熱を孕んでいた。鷹揚としていながら、憎悪を抱えて炯々と不気味に光っている。

 「彩世っ」

 「湊。私は明後日から、邦坂くんの未来のお嫁さんとして生きなきゃいけないんだよね。だからさ、その前に言いたいことがあるなら、言った方がいいんじゃない」

 貴女はいつも意地悪で。どこまでも狡くて。それなのに憎めない、憎もうだなんて、夢にも思えない。

 狡猾で美しい、俺だけの光。

 「うん、そうだね」

 言いたいことがないわけではない。

 だけど。

 そうやって今まで、俺の失言で何度彩世を困らせてきただろう。

 生まれた時から高貴な場所にいる彩世と、庶民でしかない俺とでは、叩き込まれてきた礼儀作法や常識がまるで違っていて、そのせいで俺の口をついて出た言葉は、何度も彩世の顔に泥を塗ったのだ。

 俺の言葉はいつも、彩世の流麗な眉を顰めさせるのだ。

 だから、分を弁えろ。俺は彩世の人生を、その輝かしい光を、半歩後ろで見守っていられれば、それで良いじゃないか。それこそが、俺に許された最大限の幸せなのだから。

 「お幸せに。彩世が幸せなら、俺も幸せになれる」

 腹が立つくらい穏やかな、春の昼下がり。

 少しだけ傾いた太陽を背負った彩世の瞳は、ほんの一瞬だけ見開かれて、それから何かに納得したように目を伏せて、そうして最後には雅に細められた。

 「全く、全くさあぁ、全く湊は」

 「なに」

 「ううん、もういいよ。あーあっ、骨折り損だった。恥ずかしい思いして誘導したのが馬鹿みたい」

 「何がだよ」

 「もういいんだって。ただ、湊の心が凄く誠実だって分かっただけだよ。私の周りにいる人達は、優雅で腹黒い人ばっかりだったからさあ。今思うと、だからこそ私には湊が特別に思えたのかも」

 唐突に見せられた笑顔は、春の霞のように柔らかく、儚いものだった。

 「なに、照れてんのー。言ったでしょ。湊は私を自由にしてくれた最初で最後の人なの。特別に決まってるじゃん」

 「いや、照れてなっ」

 「いーや、照れてるね。鏡で見てみたらあ」

 俺はただ、よく手入れされた黒髪が風に靡くのを見ることしか出来なかった。

読んでくれてありがとうございます!

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