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小波と港  作者: 水縹
第四章「海渠」
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小波と港 第四章「海渠」①

第四章「海渠」

 朧気に開いた目が、無機質な白い天井をぼんやりと捉えた。締め切ったカーテンから溢れ出す仄かな明かりだけが、この暗闇に朝が訪れたことを教えている。

 「四月、四日」

 横臥したままで枕元のスマホを見ると、痛いくらいのブルーライトが日付と時刻を示していた。どうやら自分は、またアラームが鳴るよりも前に目覚めてしまったらしい。日に日に眠れなくなっていくような気がして、深く息を吐き出した。

 もうすぐ、いっそ忌々しいほど眩しくて、無知なあの子の誕生日だ。

 

 通いの家政婦は、週末だと基本朝十時までやって来ない。そのため休みの日の朝食を作るのは俺の役目だと決まっていた。

 油を敷いたフライパンには二つの卵を割って、そうして出来た目玉焼きを乗せるためのトーストも二枚用意して。食器棚から取り出す真っ白な平皿もきちんと二枚用意する。

 そんな時間がどのくらい過ぎただろうか。半分に切ったミニトマトを盛り付けていると、規則的な音が近付いてくるのが分かった。

 「おはよう湊。今日もいい匂いだね」

 そう言って眠たそうな目を細めて笑うその人は、まるで誰かが丹念込めて作り上げた人形みたいに綺麗だった。

 「おはよう。今出来上がったところだよ」

 彼女の目に魅入られていながら平静を装うのは、何年経っても慣れないことだった。今だって、心臓が飛び跳ねて上擦りそうになる声を必死に落ち着かせている。

 「そう、じゃあテーブルまで運ぶね」

 俺はいつになれば、いや、きっといつになっても無理なんだろう。

 「美味しそうだなあ。いつもありがとね。湊」

 世界で一番愛おしい彼女を前にして、冷静でいることなんて。

 「別にこれくらい、俺が彩世の家に掛けてるご迷惑を思えば」

 「またそうやって。湊は私の家族なんだから、湊を助けるのは当たり前なの」

 そうやってブツブツと唇を尖らせる姿すらも、思わず破顔しそうなくらいに愛おしくて堪らなくなる。

 くそ、それではまるで生き地獄じゃないか。

 美しいばかりの黒髪の先が少しだけ跳ねているのすら、この心臓をこんなに騒がしくさせるのに。

 「そうは言っても、だよ」

 深く深呼吸をして、彼女が待つダイニングテーブルへと歩みを進める。途中で冷蔵庫から麦茶のポットを取り出し、その中身を彼女と自分のコップにそれぞれ注いだ。

 「「いただきます」」

 「今日は何時に出発するんだっけ」

 「十時だよ。そのあと一旦帰ってきて、夕方には向こうの家に着く予定」

 「楽しみだね。こういう時でもないと会えないからさあ、きっともうすごく大きくなってるんだろうなあ・・・・・・」

 その言葉に同調しなかったのは、口の中にミニトマトが入っていたからというだけではない。

 「漣くん。もう五歳だもんね」

 たったそれだけの響きが、俺の胸中をどれほど濁らせるのか、彼女はきっと知らないだろう。いや、むしろ知られたくなどない。この身体を這いずる醜い感情のことなんて。

 「湊、どうかした。急に黙っちゃって」

 「あ、ううん。何でもない」

 向かいに座る彼女が俺の顔を覗き込むので、慌てて否定する。この美しい顔にまじまじと見つめられては、俺の心臓が持たない。

 「そう、ならいいけど。それにしても今日はよく晴れてるね」

 「だな。行楽日和だ」

 「こんな時間が、ずっと続けばいいのに」

 そう呟く彼女の目線が、どこか遠くの方へと向けられている。儚げで憂いを帯びた瞳と、力なく弧を描いた唇が、えも言われぬ悲壮感を纏っていた。

 「のんびり平和で、何にもなくて、静かであったかい時間」

 「・・・・・・大丈夫だよ。きっと全部、上手くいく」

 こんな風に勇気づける俺も、今はたったの十六歳に過ぎなくて。たった今掛けた言葉だって、彼女には気休めにもならないことだろう。それでも、言葉を掛け続けるしかなかった。

 「俺が、彩世を守るから」

 人生で初めて出会った最愛の人には、笑っていてほしかったから。

 「っふふ、何それ。湊には無理でしょう」

 そうやって弾けた彩世の笑顔は、何よりも眩しい光を放っていた。

 「ばあか。年下だからって舐めんなよ」

 俺はずっと、彩世の虜だったのだ。

 

 一歳年上の彩世と初めて出会ったのは、十二歳年上の兄の結婚式だった。

 俺の出産時に母を、その数年後に事故で父をそれぞれ亡くしていた俺達兄弟は、両親の遺産を崩しながら二人きりで生きていた。これから先もそうやって生きていくものだと思っていたのに、二十三歳になった兄が突然、就職した大企業の社長令嬢と結婚すると言い出したのだ。

 事情を聞くと、兄の渚と件の令嬢は、大学時代からの友人ということだった。そうだとしても、ただの庶民に過ぎない兄と、社長令嬢が婚約だなんてにわかには信じられなかった。

 兎にも角にも、そうやって所帯を持つことになった兄と俺がそのまま同居し続けることは出来ず、俺は住む場所を失った・・・・・・かに思えた。

 俺は兄の妻となった令嬢の実家、つまり大企業の社長一族に引き取られることになった。初めは俺も兄も遠慮していたが、何故だか物凄い勢いで話が進んでいき、俺は令嬢の兄の家に居候することとなった。

 そうして初めは令嬢の兄の家族と同居していたものの、富豪が住むような大豪邸はとにかく居心地が悪かった。そんな俺を見かねたのか、令嬢の兄がこじんまりとした一軒家と家政婦を俺に与えてくれたのである。

 そんなこんなで、一軒家で通いの家政婦と暮らして数ヶ月が経った頃、彩世が転がり込んで来た。

 九条彩世は、令嬢の兄の娘で、正真正銘のお嬢様だった。

 彩世は一族との関係が上手くいっていないらしく、半分家出のような形で俺が住む一軒家に逃げてきたのだった。それからかれこれ五年ほど経つが、俺達は変わらず二人で暮らしている。

 「おはようございます、妙子さん」

 九時五十五分。通いの家政婦、妙子さんが俺と彩世の住む家にやって来た。

 「あらまあ、おはようございます。湊くん。彩世さんはどちらに」

 「もうすぐ降りてきますよ。出発の支度をしているはずです」

 「そうでしたか」

 兄が結婚する時、年若い兄の嫁に姪っ子がいると聞いていたので、さぞかし小さな子どもなのだろうと思っていたのだが、俺よりも年上だと知った時は流石に驚いた。兄の嫁と、その姪の父親は、実の兄妹でありながらかなり年の差があるらしい。

 初めて出会った時の彩世は、浮世離れした美しさを持っていた。まだ十二歳で、幼さが色濃く残る年齢だというのに、行儀よく一礼する姿は本物の人形よりも可憐だった。

 「お待たせ湊。あら、妙子さん。いらしていたんですね。おはようございます」

 二階からパタパタと華奢な足音が近付いて来たかと思えば、制服に身を包んだ彩世がやって来た。

 「おはようございます彩世さん。お二人はもうすぐ出発されるのですよね」

 「ええ、そろそろ出るところです」

 「では、行ってらっしゃいませ」

 「「行ってきます」」

 玄関の扉を開けると、淡く色付いたソメイヨシノの花弁がふんわりと舞い上がっていた。

 「わあ、きれい・・・・・・」

 桜に見蕩れる彩世の横顔を一瞥する。その首元には、鮮やかな臙脂色のネクタイが揺らめいていた。

 「行こう。彩世」

 「そうだね」

 細められた瞳はこれでもかというほど美しいのに、その瞳の奥に仄暗い闇を抱えているような気がするのは気のせいだろうか。

 ・・・・・・いいや、きっと気のせいなどではない。

 そうと気付いてしまえば、胸の中に鈍色の澱が積もっていくような気がした。

 「あ、湊止まって」

 「な、何」

 「もう、ネクタイ曲がってるよ。私が直してあげる」

 そう言って、得意げに笑う彩世が群青色のネクタイに触れる。俺の目は、その白魚のような手に釘付けになっていた。

 「はい。出来た」

 伏せられていた瞳がはたと上を向き、俺の目を至近距離で捉える。ほんの少し顔を傾ければ、その唇に触れることが出来そうなほどに近かった。

 「ふふ。行くよ。遅れちゃう」

 まるで俺の思考を読み取ったかのように、咎めるような声色で彩世が笑った。

 「あ・・・・・・うん」

 どんなに彼女を思っても、その唇が俺の物になることはない。何せこれは、身分違いの恋なのだ。叶うはずがない。

 だから、これでいい。彼女の意地悪を半歩後ろで見守ることが出来れば、俺はもう、何でも良かった。

読んでくれてありがとうございます!

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