小波と港 第三章「海彼」
第三章「海彼」
蝉時雨が脳を破壊する。ただでさえ暑さでゆだっていく全身だ、もう殆ど制御が効かなくなっていた。
あの後、家に帰った俺を出迎える両親はひどくよそよそしかった。「友達」と何を話したのか、「友達」と何をしたのか。そんなことを延々と尋ねてくる。よもや「友達」の家ではなく、先生の家に泊まったことが露呈したのかとも思ったが、そんなはずはあるまい。けれども両親のあの慌てようは、どう考えてもおかしかった。
「海か・・・・・・」
下駄箱で靴を履き替え、無造作に落とした上履きに踵を入れる。一年の下駄箱は、俺が仕舞ったローファーを除いてシューズの白に染まっていた。今日学校に来ているのは俺だけなのだ、と改めて思い知る。そう考えれば途端に静まり返ったように感じる昇降口を過ぎて、図書室へと向かった。
翠玲の一年生は、今日と明日の二日間をかけて臨海学校を行っている。東京の海ならともかく、隣県の整備された海でこの晴天とくれば、つまらないはずがなかった。
『貴方は駄目よ・・・・・・何でって、だって貴方は身体が弱いじゃない』
『お前は夏の海に耐えられるほど丈夫じゃないんだ。大人しくしていないと、熱中症で倒れたら大変だぞ』
両親は断固として俺が臨海学校に行くのを認めてくれなかった。そも、臨海学校に参加したからといって、必ずしも海には入らなければならないという訳ではない。確かにこの身体は脆いし、炎天下で長時間直射日光を浴びられるほど強いとも思わないが、これは学校行事なのだから、出来る範囲で参加すれば良いとは思わないのか。
そう考えて、いやいやと頭を振った。
友達の居ない俺が行ったところで、ろくでもない結果になるのは分かりきっているじゃないか。薄着になれば肘の傷も目立つだろうし、俺は大人しく自習していよう。臨海学校を楽しむのは、「学生時代に臨海学校がなかったから新鮮だ」と笑う澪先生だけで十分だ。
しばらく冷房が効いた無人の図書室を闊歩していると、思ったよりも幅広いジャンルの本が置かれていることに気付く。
そして。
「見つけた」
先生は散々嘘をつくが、俺と先生が過去に出会っていたのは最早確定事項だ。
三年前、俺が見つけたのは母子手帳だけではない。その最後のページに一枚の写真が挟まっていたのである。
そこには幼い頃の俺と、俺と目線を合わせるようにしゃがんだ男子高校生が写っており、裏には二人のものと思しき下の名前が鉛筆で書かれていた。
一つは漣。これは母子手帳の「子の名前」の欄に書かれていた名前と一致するので、恐らくは俺の本当の名前だろう。よってもう一方の名が、写真の中の高校生の名前だと分かる。
「この年じゃなかったか。先生の本当の苗字ってなんだろ」
高校生は、その名に相応しい爽やかで整った容姿をしていた。その高校生こそが、他でもない澪先生なのだ。
先生は翠玲の卒業生ではないと公言しているが、写真に写る制服はまさしく翠玲のそれである。そのネクタイが海のような深い青色であったから、こうして図書室に収められている歴代の卒アルから、学年色が青であった学年のものを選んで先生を探しているのだが。
「あっ、た・・・・・・ほんとに」
俺の十一歳年上にあたる先輩の卒アル、その中に、先生はいた。
先生の本当の名前は、宮花湊。
「な、何で、どうしてそんなっ」
あの母子手帳に記された「子の名前」は、宮花漣。
つまり俺の本当の名前は宮花漣で、先生の本当の名前は宮花湊。
「・・・・・・苗字が、同じ、なんて」
かつて先生は、「兄弟なんて、俺にはただの一人も居ない」と言った。その目はどこか慌ただしく彷徨っていて、そう言い放つ前にもおかしな間が空いていた。
「まさか、っはは、まさか」
生き別れの兄弟。
そんなものが本当にあるとしたら、それは俺と先生のことだったのかもしれない。
ああ、どうしてここに先生が居ないのだろうか。
俺は只管、窓の向こうに見える海の彼方を見つめることしかできなかった。
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