小波と港 第二章「海恕」⑧
「ただいま。追い払ってきたよ」
「さっきの人、先生の先輩なんでしょ。仲悪いの」
「そう。大っ嫌いなんだよね」
依然として俺よりも目線の低い宝物は、初めて出会った時から変わらず透き通った眼をしている。
その眼は一体誰に似たのか。一つだけ確かなのは、俺に似たのではないということ。
いや。俺なんかに似て堪るかよ、って話だな。
「あんな男のことはどうでもいいからさ、今日は何する。今晩もうちに泊まる」
ここでこの子が家に帰ると言ったら、俺は少なからず傷付くのだろう。「どうして、明日はまだ日曜日だよ」なんて口走ってしまうかもしれない。
漣の口が開かれるのを、息を飲みながら待った。
「・・・・・・泊まっても、いいの」
用心深く窺うような眼が、キラキラと輝く期待を隠せずにいる。
「当たり前だよ。何でもしよう」
それが、この身に許された唯一の、君への贖罪だから。
それから日曜の夜までは、あっという間に過ぎた。
見てやるまでもないが勉強も見てやったし、他愛のない話を延々と続けて年甲斐もなく笑った。
そしてやはり、俺が予想した通りの感想を持つことになってしまった。
「朝が死んだら良いのに」
俺はどうしたって、この子をこの子として見ることが出来ない。俺の胸中を巣食う彼らが、いつもこの子に重なって見えているから。
「昔、同じことを言った男がいたよ」
かつてその男も、「朝が死んだら良いのに」と宣っていた。今となってはトラウマと化したその台詞が、一言一句違わずにこの子の口から飛び出した驚愕を必死に呑み込む。
「それってどんな人」
無邪気な、何の濁りもない大きな瞳が、玄関の明かりを受けて揺れていた。
「その日はね、パーティーの前の日だったんだ。皆が浮かれて、和気藹々としている最中に、その男は俺にしか聞こえない声でそう言った。濁った眼差しだった」
今にして思えば、あの男は止めてほしかったのかもしれない。自分が取り返しのつかないことをしてしまうのを。
「その人は、何でそんなことを言ったの」
「さあ、分かんないな。俺はその翌日のパーティーを最後に、あの男には会っていないから」
会いたくても、もう会えない。
そういう別れが、この世にはごまんとある。
「さ、お家に帰るよ。ここは律の家じゃないから」
「俺、先生の家の子になる」
「・・・・・・馬鹿言わないよ」
玄関扉を開けるなり、いやに湿った空気が辺りを埋め尽くす。その気持ちの悪い感覚に目を瞑って、施錠をしてから車へと向かった。
「あのさ、先生。一個だけ訊いてもいい」
「なに」
「先生は何で、職員室に居場所がないなんて言うの」
エンジンを掛けると、電気系統が途端に目を覚ます。ガスの残量をチェックして、何だかよく分からない方向に回転したままのハンドルに両腕を預けながら、助手席の少年を認めた。
「先生はね、律が思っているよりもずっと悪い大人なんだよ」
ゆっくりと発進し、目を刺すような都会の明かりの中を泳いでいく。車内はハンドルと手が擦れる乾いた音が響くのみで、漣の返事はなかった。
「だから大人の言うことは、絶対に信用するな」
「やだ」
「や、やだって」
「嫌なものは嫌。俺は、ありのままの俺を受け入れてくれる人がいるって信じてるから」
その眼を見なかったのは、運転中だったからというだけではない。実際彼の視線は暫く俺に注がれていたし、黄色に灯る信号を受けて減速した車は、程なくして停止した。漣の様子を見るのは、吝かではなかったはずだ。
「俺が優秀じゃなくても、二位を取って、一位を取れなくなっても、それでも俺を軽蔑しないでいてくれるような人をずっと探してたんだ」
湿り気を帯びた空気が、より一層重くのしかかるのを感じた。湿気に溺れて、まともに息をすることすらも難しいと思うほどに。
「・・・・・・『探してたんだ』って、それは何で過去形、なの」
恐る恐る尋ねたのは、恐ろしいと思いながらも呑み込むことが出来なかったからだ。以為らく、好奇心に負けたということなのだろう。
「だって先生は、先生なのに生徒の俺を家に泊めてくれたじゃん。俺に価値とか利益とかを求めない、純粋に家に帰りたくない俺の気持ちを尊重してくれたんでしょ。そんな人は、今までの人生でただの一人も現れてくれなかった」
慕ってくれる素直さをこの上なく嬉しいと思うのに、この子の言葉にはいつだって大人を刺すような鋭さがある。
「嬉しかったよ。先生と喋るのは楽しかったし、夢、みたいだった」
何度も繰り返し言うのは、言い聞かせるためか、そうでないなら噛み締めたいからか。兎にも角にも、この身が漣に信用されそうになっている現状を前に、冷静に思考することは出来なかった。
漣が俺を信用するなんて、危険過ぎる。
「そう。じゃあこの週末のことは忘れないとね」
「な、何で」
「俺はいつか、律の身を滅ぼしてしまうからだよ」
「な、に、言って」
ようやっと車を停め、今度は俺が漣の双眸を刺すように見る。すると年相応に動揺した眼が、俺の真意を探ろうと必死に見開いていた。
「はい。降りて」
「え、あ」
「もう着いたよ。早く降りて」
「何で、こんな早いの」
「行きはわざと小道に入って遠回りしたんだよ。道を覚えられないようにね。でも今日は最短ルートを選んだから、さっさと着いた。ただそれだけ」
車を降りてトランクを開け、漣の荷物を取り出す。見かねた漣も車を降りてきたが、俺は立ち話をする趣味などない。
「パラドックスだよ。俺は律の身を滅ぼすと言った。律は俺を信じると言った。さあ、どっちを取る。俺を信じるか、信じるのをやめるか」
「・・・・・・先生も知ってるでしょ。パラドックスには、定まった解なんてない」
その眼は、惑わされないという強い意志に包まれて爛々と輝いていた。
この子は、どこまでも純粋なままだ。
「おやすみ。また学校で」
「おやすみ。先生」
これでいい。その曇りなき眼で、一生俺を疑っていればいい。
誰がなんと言おうと俺は、漣を海底に沈めたのだから。
読んでくれてありがとうございます!
共テまであと2ヶ月でほんとに吐きそうです。
科目ごとの偏差値にバラつきがありすぎて、本当に同一人物の成績なのか我ながら目を疑います。今日はなろうの空気を吸いたくて、書き溜めた分から引っ張ってきました。低浮上ですが頑張ります!




