小波と港 第二章「海恕」⑦
「久しぶり。いつもお兄様が迷惑を掛けてごめんなさい」
「気にしないで。京香も色々大変なんだろう」
その浮世離れした絶世の美女を前に、かつての焦燥が思い出されるのをひしひしと感じた。
「全く、全部お兄様のせいなのよ。貴方も知っているでしょう」
尖らせた唇がどんな悪態をついても、きっと憎むことは出来ないだろう。彼女は、そういう類の光を持っている。そしてそういう光を、自分は嫌という程よく知っている。
だが、どんなに色濃くその面影を感じたのだとしても、この眼がオリジナルの光を受容することは二度とない。そうと分かっていてもこの女性は、思い出の中の人によく似ていた。
「勿論。京香のお兄さんは本っ当に人遣いが荒い」
そうとだけ言い終えると、京香の眼が、責め立てるように男を射抜く。
「あと二時間で会食なんですけどね。お兄様」
社長と、その秘書である京香は実の兄妹で、妹の方は俺と同い年だった。学生時代は、学年首位の座をかけてよく戦い合ったものだ。
「まあまあ、そうキリキリするなよ京香。まだ二時間もあるじゃないか」
「『しか』ですが」
こうしてこの空気に身を委ねていると、まるで在りし日に戻ったかのようだ。でも、どこを探しても、あの人だけがここにいない。
「では時間もないようですし、手短にお話し申し上げたいことがあるのですが、よろしいですか。社長」
ひとしきり兄妹喧嘩が終わった頃を見計らって、俺は咳払いをしてから言った。
「・・・・・・ああ」
俺は自分の右肘を突き出して、その肘窩を左手の人差し指でなぞって見せた。
「漣のここに、十センチくらいの傷があります。余程深く切ったのか、三年前の傷らしいのですが、くっきりと痕が残っていました。これからも生涯、残り続けるでしょう」
ちょうどその部分を爪で引っ掻くと、肘窩に赤い線が浮かび上がった。ここから血が吹き出したら、どんなに苦しいことだろう。
「事故にでもあったのか。轢かれた、とか」
「そんなことがあれば、私が気付かないはずはありません。故意に傷付けられたんですよ、漣は」
「馬鹿なっ、一体誰に」
人一倍勘が働くくせに、知らないふりをしようだなんて馬鹿なことをする。本当はもう、俺が言わんとするところを理解しているだろうに。
「白波瀬部長ですよ。貴方に子どもか、せめてご令室だけでもいらっしゃれば良かったのですが・・・・・・ねえ。九条伊織代表取締役社長」
目の前の男の名は、九条伊織。
日本のありとあらゆる市場を席巻し、かつては財閥としてもその名を轟かせた九条グループ会長の、唯一の息子だ。会長である父は実質的な隠居状態にあるため、伊織が代わりに九条グループを統括している。
「何度も言ってるけど、僕は絶対に結婚しない。もううんざりなんだよ、結婚なんてもの。嫡出子か非嫡出子かとか、そういうの全部反吐が出る」
現在九条グループには、ある困り事があった。それは、社長である伊織が、全くもって結婚する素振りを見せないこと。もしもこのまま伊織が結婚せず、跡継ぎが生まれなければ、九条グループは伊織で断絶するほかない、かに思えた。
実は一人だけ、九条グループには跡継ぎの候補がいる。
その候補者は九条家の血を引き、九条伊織よりも若く、大企業のトップをを任せるに相応しい有能な人材。
・・・・・・その人物の名前は白波瀬律。本名は漣だ。
「まあいい。とにかく白波瀬が養親の分際で九条家の人間に手を上げたと、そういうことだな。経緯まで分かるか」
「漣が試験で一位を逃しただけだと聞いています」
「・・・・・・白波瀬、社内での仕事振りは良かったんだがなあ」
こうしている間にも、伊織は社内の人間を駒に見立てて次の手を考えているのだろう。ルークだった白波瀬を切り、その席に誰を座らせるか。そういう計算は伊織の得意分野だ。
「現状、漣は次期社長の最有力候補です。その漣が学業において最高の成績を残せば、漣の養親である白波瀬は、次期社長を完璧に育て上げたとして功績を認められます。そういう目論見があったから、漣の失敗を許せなかったのでしょう」
頭が茹だっていくのが手に取るように分かる。怒りを抑え込む術を忘れて、前が見えなくなっているのだ。
いっそのこと、白波瀬を殺してしまおうか。そうしたら全てが解決するのではないか。
『これは罰だ。何も知らずにいたお前への』
いいや・・・・・・誰かを殺して得るものなんか何もない。
「白波瀬を漣の養育から外そう、だが漣はまだ未成年だ。後任の保護者を選び直す必要がある。そうだな」
伊織の眼が俺を見たので、慌てて否定する。
「ご冗談を。私が漣に何をしたのか忘れたのですか」
「あれは不慮の事故だった。そうやって、警察でも処理されている」
じわじわと脳裏で浮かび上がる漣の首筋には、目立たない程度の傷がある。その傷を誰が付けたのかを考えれば、俺が漣の保護者に適していないことは容易に分かるはずなのに。
「それは貴方があらゆる機関に圧力をかけ、揉み消したからでしょう」
「さあ、どうだったかな。昔のことなんて覚えてない。とにかく、お前以上に漣の保護者に適任な人物は居ないだろ」
両手を握り込んで、何とか憤りを逃そうと試みる。
何度考えても、自分が漣を養い育てるのに相応しいはずがないのだ。だってこの両手は、この薄汚れた手が。
「漣を海に突き落としたのですよ。俺が自ら、この両手で」
そう言い切ってしまえば、頭に響くのは波の音だけだった。
夏のよく晴れた海辺で、あの子の手を引いたこと。
目が眩むような白い砂浜でその名を呼んで、渚へと誘ったこと。
あの子の足が波に攫われるのを、黙って見ていたこと。
必死に首を抑えて藻掻くから、首筋にいくつもの引っ掻き傷が残ったこと。
俺以外の手で助け出され、警察沙汰になったこと。
それから痛々しい姿で目覚めたその子が、生まれてからの記憶を全て失ってしまったこと。
「これ以上に、何か理由の説明が要りますか」
記憶から翻って現実は、暑くもないし明るくもない。心地よい冷気と間接照明が、この空間の異質さを際立たせている。
「自分でも分かってますよ。自分は明確にあの子を殺そうとしたのに、なぜ第三者が切り傷を付けたくらいで激昂しているのか。それがどんなにおかしなことなのか、冷静になればちゃんと分かるんです」
ただ俺は、いつ何時でも冷静でいられるほど出来た人間ではない。この手は汚れていて、そのせいでいつも、恐ろしいばかりの夢を見る。
「俺を殺しますか。貴方の父が、俺の父にしたように」
伊織はまるで、初めから自我を持たずに生まれた傀儡のように、冷えて固まった表情をしていた。
「っふふ、あははははっ、冗談です、社長。あれは事故、そうやって警察でも処理されていますもんね。私の父は勝手に死んだのであって、そこに貴方の父は一切関与していない。それが真実でしたよね」
苦しそうに歪んだ顔が、引き結ばれた唇が、今にも決壊しそうに震えている。貴方にはなんの非もないというのに、どうしてそんなに優しい心で俺を憐れむんだ。どうして俺の悪意ある言葉を、同じように悪意ある言葉で打ち消してくれないんだ。
「大丈夫です。責を負うべきは俺だと、ちゃんと分かっていますから」
「それは違うっ、それだけは、絶対に」
「あっはは、否定してくださるんですか。先輩ってば優しいんですね。でも、俺に親切にしたら駄目ですよ」
俺は出口へと向かい、振り返ることなく言った。
「誰かの為に涙を流してくれる先輩と違って、俺は汚くて醜い大人になってしまったので」
俺は足早にエレベーターホールへと向かい、上階行きのボタンを押した。




