小波と港 第二章「海恕」⑥
「貸切状態じゃないか」
ラウンジの中を見渡し、社長が驚きの声を漏らす。
「まだ早朝ですから。烏龍茶を」
一人でグラスを磨いているバーテンダーに声を掛けると、一分もしないうちに白い紙製のコースターの上にグラスが置かれた。
「僕も同じ物を」
静謐な空間に、氷の軽やかな音と液体を注ぐ涼やかな音だけが響いている。そんな時間を心地良いなと思いながら、こんな風に社長と私的に会うのはいつ以来だろうかと考えていた。
「うん、ラウンジか。集合住宅も悪くないな」
「松濤にあんなに立派な豪邸を構えておきながら、恐ろしいことを仰いますね」
社長の屋敷は正気を失いかけるほど広く、また豪華な造りをしている。それなのに、ラウンジが無いからとあの屋敷を下げ、更には億ションを集合住宅呼ばわりするなんて、本当に規格外の方である。
「クソジジイから奪い取ったはいいが、別に住みたいわけじゃないんだ。あんな家」
クソジジイとは、社長の父親のことである。だが社長に家族としての父親は存在しない。学生時代、先輩だった社長に何度もそう教え込まれた。
「そこまで仰るなら、やっぱりこのマンションは貴方にお返ししますよ。元は貴方が購入した部屋ですし」
「このマンションはお前の成人祝いだって言っただろ。それにこれは、あの子に対する僕の個人的な贖いなんだ。返すとか要らないとか、二度と言わないでくれ」
社長はいつも、俺の初恋の人を「あの子」と言う。その響きは他人行儀じみていながら、どこか温かくて、それだけでも社長の複雑な感情を窺い知ることが出来る。
だが、俺の初恋の人はずっと前に遠くへ行ってしまった。そこまで嫌われるようなことをしたつもりはないし、一緒にいるのは多分、有り体に言えば幸せだったと思う。それでも彼女は何かが嫌になってしまって、俺の手の届かない場所に行ってしまった。
その理由が分からないから、俺は大切な人を次々と失うのだろう。いつかは、漣も。
「会長は、相変わらずでいらっしゃいますか」
会長、つまり社長の父親はある時から心を病んでおり、療養中の別荘から出てこられることは滅多にない。
そんな会長も形式上は社長よりも上に君臨しているが、実質的には社長が会社の代表を務めている。
「別荘から出てこないだけで、僕としては大助かりだよ。夜中に徘徊されるなんてこともない訳だし」
そう言って社長は、カラカラと小気味よい音を鳴らしながらグラスを口に含んでいた。
「今年の盆も、会長のお宅に伺いますから」
「やめとけ。どうせまた、何の罪もないお前が辛い思いをするだけなんだから」
その眉が苦しげに顰められているのは、一体なぜなのか。俺を利用するだけ利用して、捨てる為に俺の首に首輪を付けた貴方が、どうして俺の身を案じるのだ。
「っふふ、あははははっ。社長にそんなことを言われては、調子が狂ってしまいます。まるで本当に手駒を大切に思っているみたいではありませんか」
突如大声を上げて笑い出した俺を横目に、隣に座る男が肩を強ばらせたのが分かった。
「初めて出会った時から、私を忌み嫌っていたくせに」
口許だけを歪めて笑うと、男は心底傷付いたみたいな顔をして目を見開いた。
「今日は昔の夢を見たんです。私達はきっと互いを何よりも憎んでいたはずなのに、仲の良い振りをしていつも一緒にいましたよね」
感情が昂っているのが分かる。どんどん饒舌になって、止めることができないのだ。
「でも、夢の中の私は幸せそうに笑っていました。貴方のことも京香のことも、大嫌いで仕方がないのに、みんなあの人の魔法に掛かってしまって」
俺と社長と、社長秘書の京香と、それから俺の初恋の人の四人で居るのが、心地良くなってしまったのだ。十六歳の日の自分は。
「泣くほど辛いなら、認めてもいいんじゃないか。あの時間が幸せだったって、皆が大好きだったって」
散々酷いことを言っても、少しも責めてくれない男の手が俺の肩に触れた。
「先輩のことなんて、最初からずっと大嫌いですからっ」
先輩の手を弾き飛ばして、俺は必死に睨んだ。
「そんな顔で言われてもなあ、っはは」
どうして愉快そうに笑うんだ。どうして俺を励ますことはするのに、懲らしめようとは考えないのだ。
この男の考えることは、俺にはずっと分からない。
そうだ、初恋の彼女が考えていることも、俺には少しも分からなかった。
ああ、悔しい。彼女に限りなく近しいこの男の存在が、心の底から憎らしい。
「なあ、泣くな。もうすぐ京香が来てしまうぞ」
「だったら私はもう帰ります」
「待て待て、っふ、待ってくれ。帰らないで。話をしよう」
その時、先輩の口が懐かしい音を紡いだ。
その音を理解しきれなくて、身体が固まってしまったように動かない。涙すらも、今は止まったような気がした。
「偶には昔みたいに呼んでもいいだろう、本当の名前を」
「そんな人、知りません」
言いながら、椅子を下りて出口へと向かう。
「全くつれないなあ。僕は嬉しかったんだよ、弟が出来たみたいで」
こんな言葉を信じてはいけない。
誰にでも優しいような顔をして、その実誰のことも近付けない、温度のない人なのだから。
「・・・・・・あの幸せの終わりが辛い結末だったからって、自分が幸せだと思えた時間全てを憎もうとしなくたっていいんじゃないか」
この人の言葉は優しくて、温かくて、それでいて鋭く痛い。
今だってこんなにも、耳が痛いのだ。
「少なくとも僕は、お前と京香とあの子と、四人で行った色んな場所を覚えてる。甘ったるいパンケーキ食わされたり、お化け屋敷で鼓膜が破れるくらいの悲鳴聞かされたりさ」
掌を刺すはずの爪が、汗で滑る。
思い出してはいけない。浸ってはいけない。
恋しいだなんて、夢にも思ってはいけない。
そんなことをしても、あの人は俺の恋人になどなってくれないのだから。
「本当にその全ての瞬間を、恨み辛みで塗りつぶしてしまえるのか。お前は」
「俺はっ、俺は・・・・・・」
全身から汗が噴き出す感覚とは対照的に、指先から温度が消えていく。汗をかいた俺は暑いのか、冷たい指先はすなわち寒いということなのか、この腐り落ちた脳味噌ではろくな答えを導ける道理がない。
「俺以外の誰かのせいには出来ないから」
ラウンジの弱い照明が長時間露光のように尾を引いて見える。聴覚は水底に沈んだかのように不鮮明で、だのに金属を響かせたような耳鳴りは鮮やかに聞こえていた。
「だから、自分を恨み続けるのか。お前、自分の人生があと何年残ってると思ってるんだ。たった十一年間、自分を恨み続けるだけでこんなにボロボロなのに、この先の長い人生をどうやってやり過ごすんだ」
学生時代のトラウマを引き摺っていることを、笑う人は数多いるだろう。自分でもこんな自分が惨めで愚かで、心の底から憎らしいと思っている。
だが自分は最早、元の自分に立ち直る術が分からなくなってしまったのだ。どんなに明るく幸せに生きようと決意しても、それは叶うことのない白昼夢となって霧散する。
「人生は、早く終わる分には好きなタイミングで終わらせることが出来るんですよ。素敵な仕組みでしょう」
この人生がまだ三十年にも満たないからといって、それが何だと言うのだろう。人生なんて、今日を最後にすることだってできるというのに。
「そんなの、それはあの子が望んだ未来じゃな・・・・・・」
「社長。お迎えに上がりました」
高く透き通るような玲瓏な声が、耳にひんやりと心地よく響く。
黒のスーツ姿で現れた女性を認めて、なるほど容姿に相応しい声だと納得した。控えめなヒールの規則正しい音が、入口から徐々に近付いてくる。
「京香。久しぶり」
最も素晴らしいタイミングで現れた女性に、感謝を兼ねて挨拶をした。
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