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小波と港  作者: 水縹
第二章「海恕」
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小波と港 第二章「海恕」⑤


 「ようこそ。先、輩」

 やってきた男を招き入れ、言い慣れない言葉を口にする。

 「っふ、間違っとらんけどな。あ、君が律くんかあ」

 「は、初めまして。白波瀬律です」

 律が恭しく挨拶をするのを見て、俺はあることに気が付いた。

 もしかしてこの男、律の前で名乗るつもりではないだろうな。

 「律くん初めましてえ。僕はく」

 「黒田官兵衛っ、この人は黒田官兵衛って名前なんだよっ」

 そう言ってしまってから、自分の奇行がみるみる恥ずかしく思えてくる。この男の本名は隠して然るべきなのだが、もっと上手く遮ることだって出来たはずだ。それがなぜ、よりにもよって黒田官兵衛なのか。

 途端に不味くなってしまった空気を吸いながら、火がつきそうになった顔を冷ます手立てを必死に模索していた。

 「・・・・・・何言うてんの。澪くん」

 「先生大丈夫」

 「うん。ごめん」

 ただただ謝ることしか出来ず、この沈黙が破られるのを待っていた。

 「えっと、黒田、さん、で良いんですか」

 俺の望みを叶えたのは漣だった。

 「っふ、ははははっ、あははははっ、はい。黒田ぁ言います。よろしゅう律くん」

 高らかに笑い声を上げる男を睨みながら、律の言葉に耳を傾ける。

 「黒田さんは、先生のお友達か何かですか」

 その目が依然として鋭く光っているのは、俺がこの男を信用するなと忠告しておいたからだろうか。

 俺のことを信用に値するか審査中だと言っておきながら、俺の忠告は従順に聞いてしまう甘さが愛らしい。

 「んー、せやなあ。まあ僕らは大人の関係やな。なあ、センセイ」

 俺達は協力者でありながら、他方で利用し合う関係でもある。とはいえ、基本的にはこいつが上だ。

 この男は俺が便利だから利用しているだけで、俺が居なくなっても代わりを見つける必要はない。俺はそういう、取るに足らない存在なのだ。

 「あーもうセンセイ無視せんでよお。さっさと否定せな、なんやいやらしい関係みたいやんか」

 聞き捨てならない台詞が飛び出し、漣がぎょっとした顔で俺を凝視している。

 「いやらしいでしょう、実際。出会った時からずっと、貴方は嫌な人だった」

 言いながらゆっくりと瞼を閉じると、昔の記憶がはたと蘇ってきた。

 臙脂のネクタイが長い黒髪と共に揺れる後ろで、鮮やかな憎悪を孕んだ双眸がギラギラと煌めいている。

 ・・・・・・その憎悪は、十一年前のこの男の眼窩に収まっていた。

 「せ、先生、本当なの。黒田さんとお付き合いしてるの、ねえ」

 付き合う、俺とこの男が。

 いやはや、冗談じゃない。俺達はそんなに温い関係じゃない。

 それに俺が愛した人は、もうとっくに俺の傍を離れてしまった。

 「全然違うってば。この人が変な言い回ししただけで、俺達はただの先輩後輩。今でもたまに酒呑んだりするくらいの関係だよ」

 それ以上でもそれ以下でもない、と付け加えると、漣は苦虫を噛み潰したような顔をした。

 「ふうん。あの、先生が学生の頃って、どんな感じでしたか」

 予想だにしていなかった質問に思わず目を見開くと、俺の動揺を読み取った男が悪質な笑みを湛えた。

 「・・・・・・清潔で優しい子やったよ。手ぇで触れたら壊してまいそうで、怖くてよう近付けんかった」

 何となく、気道が狭くなった気がした。

 男は俺にこう言いたいのだ。「お前以外の全ての人間が苦しんでいた中、最後の最後までそれに気付かず能天気だった愚か者」と。

 「先生は、触れただけで壊れそうなほど身体が弱かったんですか」

 「せやなあ。せんせえは今も弱いんとちゃうやろか。お母はんも、えらく病弱な人やったみたいやし」

 俺は無言で席を立った。

 「折角いらしてくださったのに、お茶もご用意せずすみませんでした。麦茶でよろしいですか」

 「かまへんかまへん。どうせすぐ帰らなあかんのやし」

 「・・・・・・そうはいきませんので」

 無理やり細めた視界の中で、異形でも見たかのような顔をした漣が目に入った。

 こんな顔をするから、大人など信用ならないと思わせてしまうのだろう。他でもない過去の自分が、あの男に対して思っていたように。

 かつては俺だって、自分だけはいつまでも綺麗なままでいられると思っていた。必要に応じて反吐が出るような美辞麗句を宣うことだって、この身に限っては罷り間違っても有り得ないと、信じていた。

 「粗茶ですが」

 「おおきに」

 漣は、自分の家族の異変に気付いて真実を知ろうと努力している。だが、俺はどうだっただろうか。普通ではない家庭環境に、何の疑問も抱かなかったではないか。

 何か一つだけでも、あの日々の異常に気付くことが出来れば。

 もしそうであったなら、俺達は今頃、こんな場所に集まってなどいなかっただろう。

 「あ、あかん。京香から連絡入っとる」

 この男の秘書をしている京香という女性は、この男とは生まれた時からの付き合いだ。故にこの男がどこで何をしているかなんて、全てお見通しである。

 「間もなくお迎えが来てくださるようですね。先輩」

 「まだまだ話し足りひんー。やっと律くんと会えたんに」

 漣が安堵したような顔をしているのは、きっと気のせいではない。予期せぬ来客、それも赤の他人が間もなく帰ると知って、ほっとしたのだろう。

 「もう駐車場に着いてるんじゃないですか。下まで見送りますよ」

 「仕方あらへん。律くん堪忍なあ。また会おか」

 「は、はい」

 靴を履いて踵を入れ、漣の方を一瞥してから玄関の外へ出た。

 「京香がここに着くまであと三十分はあるぞ」

 先程までの間延びした声から一変し、低く冷たい男の声が身を震わせた。

 「承知の上です。ラウンジに行きましょう」

 小走りでエレベーターホールに向かい、男を待たせないよう予めボタンを押しておく。男がエレベーターホールに着くと同時にドアが開き、男が箱の中に入るのを待ってから自分も後を追った。

 「昨日の夜、白波瀬がチクってきたぞ。『宮花理事が白波瀬家に許可もなく、勝手に律を連れ去った』と」

 すっかり関西弁を忘れた男は、嘲笑うように呟いた。

 「そうでしょうね」

 そうだと予想がついていたので、さしたる驚きもなく淡々と答える。

 「つまらない反応だな。知っていたのか」

 「昨晩白波瀬と通話しましたので。向こうは私が律を連れ帰ったことを快く思っていませんから、『あの方』、つまり貴方に報告するだろうと」

 俺が身を置く世界で、「あの方」と言えばこの男のことである。「あの方」に直接会える人間は限られているし、この男にはそれだけの価値がある。

 「私をお叱りになりますか。社長」

 ぼんやりとした音が鳴って、エレベーターの扉が開く。

 「僕は言ったはずだ。『漣の養育は、全て宮花理事に一任する』と」

 眉ひとつ動かさず、何の感嘆もない声で、男は吐き捨てた。俺はその後を追って、ラウンジへと向かう。

 「白波瀬などは駒に過ぎない。僕にとって真に価値ある存在は、宮花であるお前と、漣だけだ」

 その声には俺を守ってくれるという確かな強さがあったが、結局のところこの男は「宮花」という姓にしか興味がない。

 この男の野望を叶える上で、宮花が手元にあれば便利だと、そう考えているだけなのだ。

 「京香はどうなのですか。社長の秘書を務める彼女には、価値がないとでも仰るのですか」

 俺がそう尋ねても、社長はにこやかに笑うだけだった。

読んでくれてありがとうございます!

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