小波と港 第二章「海恕」③
「ご馳走様でした」
何年も前に手放したこの子と、食卓で向かい合う日が来るとは思ってもみなかった。
「お粗末様。美味しかったね」
あの幸せな日々が今もまだ続いていたら、この子を本当の名前で呼んで、多くの時間を共有できたのだろうか。なんて、下らない絵空事を思い描いては、絵のように美しくは出来ていない現実との落差に嫌気がさす。
「ハンバーグって意外と簡単なんだね。次はもっと上手く作るよ」
そう息巻く少年を見て、次なんてものがあればいいのにと、深く気を落とした。
「律は賢いから、きっと何でもできると思うよ」
俺が居なくても。
そう口走りそうになった唇を固く引き結ぶ。この子が頼れるのは俺しか居なくて、この子を本心から守ろうと思っている大人も俺しか居ない。それなのに、わざと距離を置くような発言をする必要はない。
「じゃあさ、そろそろ教えてくれない」
あどけなさの残る顔が、緩く微笑んでいた。
「どうして邦坂の手紙を、俺に渡してくれなかったの」
大事な話をする時、記憶の中の彼女もいつも笑っていた。内容が重ければ重いほど、明るく振る舞っていたような気がする。
・・・・・・お別れの時だって、最後は笑っていた。
「律が想像した通りだよ。俺は教師として為すべきことよりも、俺個人の感情を優先した。徹頭徹尾、俺の私情と独断だ」
ペットボトルの麦茶を移し替えただけのグラスを傾け、力なく笑った。
「まずは理由を聞かせて。赦すか赦さないかは、その後で決める」
先入観だけで判断しないところすらも、彼女にそっくりだ。だが、出来ればそんな余計な情けは掛けないでほしい。どうしたって、俺は悪い大人でしかないのだから。
「律が前に、邦坂さんの前で倒れたでしょ。その後律は、『もう二度とお目にかかりたくない』って言ったよね。だから、もう接触しないで済むように手紙を渡さなかった。それだけだよ」
口に出してみると、自分の行いがいかに常軌を逸していたかがよく分かる。明らかに教師の範疇を超えているし、何よりこれは越権行為以外の何物でもない。
俺はこの子をどうしたいのだろう。この子とどうなりたいのだろう。
記憶の中の幼い漣は、俺にとって間違いなく守りたい存在だった。だがあんなことが起きたせいで、この子から離れざるを得なくなった。
そして再会した漣は、残酷なまでに初恋の人とよく似ていた。
守りたかったはずの子が、最悪な思い出の中の人と重なって見えて、純粋に漣だと思って接することかできない。
漣を前にすると、胸が痛くて、ただひたすらに苦しくて、どうにかなりそうだ。
「俺は先生にとって、特別なんだ」
それは独り言のようでいて、尋ねているようでもあった。
「・・・・・・そうだよ」
俺にとっての漣は、一生をかけて罪を償わなければいけない存在だから、誰よりも特別だ。
「そっか。嬉しいよ」
予想だにしていない言葉と、明るく跳ねるような声色に、思わずぎょっとする。
「お父さんもお母さんも、俺を特別だなんて言ってくれたことはない。俺はずっと、誰かの特別になりたかった」
俺が律を孤独にしてしまったのだという事実が、今ほどこの身に重くのしかかったことはない。
律から奪ったのは家族だけでない。子どもとして大人に甘える権利も、誰かに愛される権利も、何もかも俺が奪ってしまった。
「まあその究極が、家族なんだよね。前に言ったでしょ、『血が繋がってさえいればいい』って。あれはそういうことなんだよ。誰か一人でも血の繋がった家族がいれば、世界に独りぼっちみたいな俺の寂しさも、少しは紛れるかなって。あーでもこれ、ホープじゃなくてウィッシュの方だから。聞き流してね、先生」
そんな顔は、高校生がしていい顔じゃない。
子どもなら子どもらしく、言いたいことを言ったり、感情のままに行動したり、もっと自由奔放になればいい。
子どもの顔面に張り付けた、大人みたいな愛想笑いは、心臓に悪い。
「無理だよ、そんなの」
両手で顔を覆って、歪みそうになる顔を必死に隠した。
「聞かなかったことになんて、出来ないよ」
あの時の俺がもっと大人だったら、律をこの手でちゃんと育ててあげられたかもしれない。
俺がこの手で、律の記憶を根こそぎ奪い取ることもなかったかもしれない。
いや。こんな下らない想像をしていても現実は変わってくれない。そんな想像に費やす時間だけが、無為に溶けていくだけだ。
「律。お前は本当の家族が現れたら、その人達と暮らしたいか」
自分でも驚くほど低い声が出た。行き場のない感情を一緒くたにしたみたいな、聞き苦しい声だ。
「暮らしたいかは分からない。でも、会ってみたいとは思う」
そう言って伏せられた瞳が、そこに宿る確かな期待が、またもこの首を絞め上げる。
「そっかあ、そうだよねえ」
人は窮地に陥った時、笑うことで自身を守ろうとする。何もおかしくはないし、少しも幸せではないけれど、それでも人は意図せず破顔してしまう。
・・・・・・今の俺のように。
「ごめんね。全部俺のせいだ」
高校生の時分、溢れる涙を拭ってくれた人がいた。
その人は俺の涙を拭って、励まして、慰めてくれた。
でもその人は、涙の拭い方を教えてはくれなかった。
「先生、何で泣いて」
「律。今日はもう電気消そっか」
だから俺は、今だって涙を溢れさせることしか出来ないのだ。
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