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小波と港  作者: 水縹
第二章「海恕」
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小波と港 第二章「海恕」②


「ねえ、タワマンなんて聞いてないんだけど」

 玄関扉が閉まるなり、そこそこ大きな声量で律が言った。呆然と立ち尽くす身体を横目に靴を脱ぎ、足早にキッチンへと向かう。

 「言ってないからな」

 去り際に小さくそう言うと、背後から「騙したなっ」という弾んだ声が聞こえた。子どものように拗ねた返事がおかしくて、自然と口角が上がる。

 「な、なんかこの部屋、綺麗過ぎて落ち着かない」

 「突き当たり左が風呂だから、シャワーだけでも浴びてこい。着替えは、俺ので良ければ後で用意しとく」

 冷蔵庫にひき肉と惣菜を入れながら、顔も見ずに言う。

 「・・・・・・先生って何者なの」

 ただの庶民に過ぎない自分が、何者かと尋ねられる日が来ようとは。生きていると面白いことが起こるものだな。

 「教えないよ」

 野菜室を静かに仕舞い、立ち上がって律の双眸を見た。

 「な、何でっ」

 「だって律、覚悟できてないでしょ」

 見開かれたその瞳の輝きが、世界で一番大好きだったなと、遠く思う。その瞳が自分を映す度に、いつまでも彼女の視界に捉えられていたいと、浅はかにも願ったものだ。

 けれどもう、そんな身を焦がすような思いもせずに済む。

 「律が知りたいと思うこと、その全てを受け止める覚悟はあるの」

 少しも汚らわしくない純粋な瞳を見て、どうにも居心地が悪くなってしまうのは、自分が穢れている側の人間だからだろうか。そんな疑問を抱きながら、かつての自分も、大人を汚い存在だと拒絶していたことを思い出す。

 「一度知ってしまったら、知らなかった頃には戻れないよ」

 脳に届いた情報があまりにもショッキングである場合、人間は無意識にその記憶をデリートすることで自分を守ろうとする。

 そしてそれがまさに、幼少期の律に起こったことだった。

 「シャワーだけでも浴びてきなよ。雨水を浴びたままじゃ、気持ち悪いでしょ」

 優しく口角を上げると、怯えたような身体が後ずさる。

 「先生は、悪い大人なの」

 ああそうか、この瞳は俺を見定めようとしていたのか。俺が信じるに足る人間か、頼っても良い大人なのか、少ない人生経験から絞り出した知恵で見極めようとしているのだ。

 であればもう、余計なことを言う必要はない。

 「どちらでも、律が望んだ俺になるよ」

 耳が重たくなるような分厚い沈黙の中で、俺は柔らかな笑みを湛えた。こんな風に取り繕ったところで、何の意味もないことを知っていながら。

 「勝手に終わらせないでよね。まだ話はあるんだから」

 子どもらしく不貞腐れた瞳が、こちらを一瞥して脱衣所の方へと消えていく。

 冷静になれ。あの子はあの子なのであって、思い出したくもないような人達とは別人だ。

 「・・・・・・誰か」

 誰もいなくなったダイニングで静かに吐き出した声は、自分が想像するよりもずっと弱々しかった。

 惨めだ。馬鹿みたいだ。

 全てに取り返しがつかなくなるその瞬間まで、俺は何にも知らなかった。幸せな日々に亀裂が入って、二度と元に戻らなくなってはじめて、俺は俺が守りたかった人達が上げる劇甚な悲鳴に気付いたのだ。

 「誰か、助けて」

 偏に自分のせいで大切な人達をみすみす失っておきながら、今になって孤独を嘆くとはどういう了簡であろうか。いいや、どうせ自分でもろくに分かりはしない。腐りきった頭蓋の内で辿れる思考など、高が知れている。

 「はぁ・・・・・・」

 崩れ落ちて震える膝を無理矢理伸ばし、やっとの思いで立ち上がる。後先考えずに連れて来てしまったが、色々隠しておかなければ。

 あの子が余計な過去を思い出してしまわないように。俺との関係に気付いてしまわないように。そして。

 あの子が俺の過去を掘り返して、俺の心が傷付いてしまわないように。

 「はっ、酷い面だな」

 脱衣所に律の着替えを置きに行くと、備え付けの鏡に映る自分の姿が目に入った。いかにも哀れそうな己の面に、思わず反吐が出そうになる。この期に及んで助けを求めてしまう自分が憎くて仕方がなくて、直ぐに視線を外した。綺麗に畳んだ着替えを棚に置いて、足早にその場を離れる。

 ダイニングに戻ると、自分の携帯が鳴動して不快な音を立てていた。どうやら誰かが俺に電話を掛けているらしい。手に取ろうとした瞬間に途切れたので、一先ず発信元を確認する。

 「チッ」

 左手で垂れ下がる前髪を掻き上げる。本当に忌々しくて、怒りで震える指先を何とか制しながら折り返しのボタンを押した。

 「もしもし、ご無沙汰しております。直ぐに出られなくてすみませんでした。何かご用がおありでしたでしょうか」

 言いながらリビングのソファに向かい、溜息をつく代わりにドスンと音を立てて座り込んだ。

 『こちらこそお久しぶりです。いやあ、夜分遅くにすみませんねえ』

 中年男性のわざとらしい声が神経を逆撫でする。青二才に敬語を使うのが余程気に食わないのか、男は飯事ごとでもするかのように言った。その声の抑揚は、確実にこちらを挑発している。

 「とんでもございません。それで、ご用件をお伺いしても」

 『ええ。単刀直入に言いますけど、そちらにいらっしゃいますよね』

 分かってはいたが、この男の用事は漣、すなわち律のことだ。

 「漣のことでしょうか」

 『いやはや、本名を申し上げるとは恐れ多い』

 この男の口から発せられる言葉は、つくづく癇に障る。

 「今晩は私が預かります。何か文句でもございますか」

 『いやあっはは、いくら宮花理事でも断りなく律を預かるだなんて、あの方はお許しくださいますかな』

 律の本名を言うのは憚ったくせに、俺の本名は軽々しく口にするのだから、俺のことなど少しも敬う気がないのだろう。無論、こんな男からの敬意など要らないのだが、本当に憎たらしい男だ。

 「問題ありません。あの方から、漣に関することは私に一任されていますので。それと、あの方に目を付けられるようなことは控えた方がよろしいかと」

 酒か煙草、何でもいい。さっさと酩酊して正気を失ってしまいたい。酒ならワインセラーの奥で眠っているとびきり度数の高いウイスキーがいいな、などと考えていると、段々思考が冷えて肚の底の蟠りが霧散していく気がした。

 『な、何の話です』

 「漣の肘窩にある切創のことですが」

 そう口にして、今この家には未成年がいることを思い出す。興味本位で酒や煙草に手を出す子ではないが、片手間であっても教師をしている以上、子どもに悪影響を与えかねない行動は慎むべきだ。

 それに、あのウイスキーの蓋を開けるのはあの子が成人してからでも遅くはない。

 そう言い聞かせて、グラスに入れた水道水を飲み干す。生温い水はきつい消毒の臭いがして、こんなもの飲むんじゃなかったと被りを振った。

 『何故それを・・・・・・あの子は見せたがらないはず』

 「兎に角、あまり私やあの方を見くびらない方が良いですよ。次はあの方に報告しますので、二度目はありませんから」

 きっぱり断言すると、二日酔いせずに迎えられた朝のように爽快な気分がした。

 「この意味、分かりますね」

 湯は張っていないから、もうすぐあの子が浴室から出てくるだろう。濡れた髪を想像して、この家にドライヤーなんて物があったか心配になる。

 『わ、分かっています』

 「それは良かった。それではまたいつか、直接お会い出来る日を楽しみにしております。白波瀬部長」

 努めて明るい声を出すと、電話口の男が静かに息を飲むのが聞こえた。頗る良い気味である。

 『こちらこそ、律をよろしくお願いいたします。宮花理事』

 会話を終えてから、しばらく携帯を放置する。

 五秒ほど様子を窺い、向こうから通話を切る気配がないのを確認してから通話終了のボタンを押した。

 今日俺が釘を刺さなければ、白波瀬は今も自分から通話を切っただろう。全く、無礼極まりない。

 俺は出る杭は勿論のこと、出過ぎた杭をも構わず打つ主義だ。出過ぎた杭は出る杭よりも、打った時に醜く頽れる。

 「せんせー、この家ってもしかしてドライヤーない」

 遠くの方から俺を呼ぶ声がしたので、携帯をローテーブルに置いてから脱衣所へと向かった。

 「一緒に探そうか」

 笑い声を零しながらそう言うと、非難の声が耳を擽った。

読んでくれてありがとうございます!

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