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小波と港  作者: 水縹
第一章「海馬」
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小波と港 第一章「海馬」①

初めまして。水縹(みはなだ)と申します。

初めての投稿なので、読みにくい点が多々あるとは思いますが、お手柔らかにお願いします。

ざっと8万字ほど書き溜めてあるので、それを消化するまではハイペースで投稿できると思いますが、受験生なのでその後の投稿は難しいかもしれません。ご了承ください。

第一章「海馬」

 『漣』

 陽炎の奥から、誰かが自分を呼んでいる。

 依然として明瞭にならない視界と、水気を帯びた耳で聞き取ったかのように不鮮明な音が、この上なく不快だった。ただ一つ、皮膚を伝う汗の感触だけははっきりとしていて、焼き付けるような太陽の、その日差しの暑さを物語っていた。

 『こっちにおいで、漣』

 呼んでいるのは若い男だった。十代半ばくらいだろうか。そう分析して初めて、己の視界が明瞭になっていたことを知る。この視界は曇っていたのではなく、自身の記憶が曖昧なばかりに、この男の顔を思い出せなかっただけなのだ。

 ああそうか、これは。

 「起きたか。律」

 夢だ。

 「・・・・・・先生」

 寝ぼけ眼のまま目の前にいる人を呼ぶと、その人は何故だか不安げに眉を顰めた。

 「少し、魘されていたぞ。怖い夢だったのか」

 言われて初めて、じっとりと髪が濡れていることに気が付いた。正体は言うまでもなく汗である。夢というのは厄介で、現実では有り得ないような景色を見せたりするくせに、意外と現実とリンクしていたりする。この汗のように。

 「ううん」

 俺は目線を下げた。今度は先生のしなやかな手と、その中で握られた採点用のサインペンが視界に入る。

 点数欄の下に筆記体で添えられた「Excellent」の文字列を美しいな、なんてぼんやりと思いながら、俺は静かに呟いた。

 「優しい、思い出みたいなものだよ。多分ね」

 俺は淡い願望を込めて言った。何度も繰り返し見るこの夢が、ろくに覚えてもいない過去の記憶なのだとしたら。もしそうなのだとしたら、それが良い記憶であってほしいと願うのは当然のことだろう。

 「そうか。まあ、じゃあ、もう六時半だから、そろそろ帰りなさい」

 「やだ・・・・・・それはまだ、嫌だ」

 俺はかぶりを振って答えた。先生にはただの我儘のように見えたとしても、俺は本気だった。

 「いつもそう言うけど、帰りたくないのは、何で。お家は、帰れるような環境じゃないってこと」

 夏の夕暮れに残された仄暗い薄明が、先生の腕時計の文字盤に反射するのを見たから、俺は思わず目を瞑った。

 「・・・・・・だんまりか。律はいつも、隠し事ばかりだな。まあいい。いつか話したくなったら、辛いって思ったら、いつでも先生に相談しなさい。何でも聞いてやるから」

 優しい言葉の羅列は、かえって俺の心を頑なにした。優しくされればされるほど、本心を打ち明けるのは憚られるような気がするのだ。

 「隠し事ばっかりなのは、先生も同じでしょ」

 吐き捨てるように、限りなく小さい声で俺は言った。文句というよりは、反論のようなものだった。

 「さあ。先生は悪い大人だから、分かんないや」

 そう言うと、先生はファイルやら書類やらをトントンとまとめてしまった。これから職員室に戻るのだろう。いい加減、タイムリミットだ。

 「先生、また明日も、ここに来ていい」

 僅かな残光すらも消え去ると、もはや物の識別すら困難なほど薄暗い室内で、先生は静かに笑った。

 「駄目なわけあるか。いつでも待ってるよ」

 俺はその言葉にほっと胸を撫で下ろし、改めて先生の双眸を見た。

 「良かった。それじゃあまたね、澪先生」

 「はいはい。気を付けて帰れよ、律」

 空の色はすっかり鈍く黒くなって、先生の後ろの窓で柳が重そうに揺れている。

 俺はいつまで秘密にしておくつもりなのだろうか。そしていつまで、秘密にしておけるのだろうか。

 誰に聞くことも出来ない、あの「海の夢」を。

 

 「ただいま」

 玄関先で靴を脱ぎながら、どこかには居るであろう家族に向かって言う。

 「あら、お帰りなさい。遅いのね」

 どこからともなく母の声が聞こえ、それからドタドタと足音が近付いてきた。どうやらキッチンに居るらしい。

 「うん、勉強してたんだ。編入生は俺だけだし、勉強に遅れを取るのは、ね」

 俺は、自分のネクタイに刺さったネクタイピンを指さした。黄金色に輝くそれは、高校生風情には似合わないようにも思える。

 「そうね。確かにその通りだわ。じゃあお腹も空いているでしょ。もう夕飯出来るから、着替えてきちゃいなさい」

 「うん」

 俺は短く返し、自室のある二階に向かった。部屋に入りながらネクタイを解き、先程母親に誇示したネクタイピンを見つめる。

 俺はこの春から翠玲学院の高等部に通っている。翠玲学院は幼稚園から大学まで一貫の難関校で、生徒はみな名家の子息ばかりだ。その為、本来は俺のような庶民の高校生が通えるような学校ではない。

 それでもこの学校を選んだのは、単なる打算だ。

 嘘で塗り固められた自分の秘密を、ほんの少しでも知りたいと思った俺の、愚かな打算。

 とはいえ、自分の両親に翠玲の学費を払えるだけの収入は端から期待していない。だから必死で勉強して、特待生の地位を勝ち取った。

 高等部からの編入には、二つの試験を通過する必要があった。まずはただの編入試験。翠玲の高等部に入れるかどうかを測る試験だ。これに合格すると、次は内部生が中等部から高等部に進級する為に受けた進級試験と、全く同じ試験を受ける。この試験は合否を問うものではなく、その成績によってクラスを振り分ける為のテストである。

 特待生を目指す俺にとって、この二つ目の試験こそが最も重要だった。ここで内部生のトップと張り合えるだけの成績を残さなければ、編入は出来ても特待生になることは出来ない。

 「ふう」

 着替え終えた俺は、部屋の電気を落としてからダイニングに向かった。

 「あれ、父さんおかえり」

 途中の廊下で父親に遭遇する。きっちりと着こなしたスーツや、左手に握られた鞄を見るに、俺が二階にいる間に帰ってきたのだろう。その右手はネクタイを緩めようとしている。

 「おお律、ただいま。学校はどうだ。首席ってのは大変か」

 特待生になることは悲願だった。だからこそ、特待生になる旨の書類が来た時は、勝ったと思った。

 しかし、まさか。

 「どうだろ、そこそこには頑張ってるよ」

 まさか首席になってしまうとは、想像だにしていなかった。

 ただただ内部生を贔屓するのではなく、外部生であっても適切に能力を評価する校風には感服したが、首席になるほど良い成績を取るなんて。はっきり言って、やりすぎた。

 「お前が首席なんて、父さんも鼻が高い。これからも頑張れよ」

 あの黄金色のネクタイピンは、学年で一人だけが身に付けることを許される特別な物。

 つまりはそう、あのネクタイピンは首席の証なのだ。

 「・・・・・・うん。そうだね」

 俺は目を逸らした。

読んでくれてありがとうございます!

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