涙が稲妻を呼ぶ夜に
空が鳴っていた。
重たい雲が空を覆い、雷鳴が空と大地を震わせる。季節は春のはずなのに、辺境の森は寒さを孕んでいた。木々の枝はしなるたびに雨粒を落とし、湿った地面に霧が漂っている。
その霧を切り裂き、白銀の稲妻が空から降りてきた。
「……見つけたか」
雷竜ジルドランの背に跨った男——リューク・アーゼルは、鋭い視線を森の奥へと向けた。竜の身体から発せられる雷光が、薄暗い森の中を煌々と照らしている。
数日前、王都から恐るべき報せが届いていた。《涙色の魔石》が盗まれたのだ。
“あの忌まわしい石が目覚めれば、竜も人もまた争いに巻き込まれる”
そう危惧する王宮は、騎士団に討伐命令を下した。だがその依頼は一部の者にしか伝わらなかった。リュークもまた、己の竜の力を利用しようとする貴族たちを嫌い、単独で行動を続けていたのだ。
ジルドランの背を撫でながらリュークは呟いた。
「魔石の反応は、この森の奥……」
竜が低くうなり、稲妻のように滑空しながら地上へと降りていく。
地に降り立った瞬間——。
「きゃっ……!」
藪の影から、少女が転がるように現れた。
「……!」
リュークはすぐに剣の柄に手をかけたが、少女は武器も持たず、怯えた瞳でこちらを見上げていた。
「誰だ、お前は」
「……わたし、セリナ。……ここに、逃げてきたの」
少女は震える声で名乗った。栗色の髪は濡れ、服には泥がこびりついている。だが、その瞳はただの少女のものではなかった。
——涙色。
透きとおるような光のなかに、青と紫が揺らめく奇妙な色彩。それは、魔石と同じ色。
リュークは思わず一歩前に出た。
「まさか……魔石の力が……?」
セリナは首を横に振り、胸元を押さえる。
「わからないの。でも、身体の中が、熱くて……暴れ出しそうなの……」
そのとき——。
「そこだ!その女を捕らえろ!」
森の奥から私兵の一団が現れた。黒ずくめの装束に身を包み、眼には殺気が宿っている。
「……っ、やっぱり追ってきた……」
セリナは小さく肩を震わせた。
リュークは剣を引き抜き、稲妻の刃を走らせる。
「ジルドラン!」
雷竜が咆哮をあげ、空へと舞い上がった。
雷竜ジルドランの背にふたりは飛んでいた。
「しっかり掴まっていろ」
リュークの背中にしがみつくセリナの腕が震えている。冷たい風が容赦なく吹きつけた。
ふたりは王都へ続く街道を避け、山の尾根を越えて西へと進んでいた。リュークの目的はただひとつ——セリナの正体を知り、魔石の力を暴走させぬこと。
「なぜお前は追われていた」
しばしの沈黙ののち、セリナは小さな声で口を開いた。
「……母が、昔《涙色の魔石》を……私の中に封じたの」
「お前の中に……?」
リュークは眉をひそめた。そんなことが可能なのか。
「ずっと静かに眠っていた。でも、最近、夢にうなされて……魔石が目覚めようとしているの」
声がかすかに震えていた。
「それで、私兵どもが嗅ぎつけたのか」
「うん……わたしのせいで、村の人たちも……」
その言葉にリュークの胸がざわめいた。彼自身、過去に仲間を魔石絡みの戦で失っていた。己を責め、力を疎み、それでも生きてきたのだ。
「安心しろ。今は俺がついている」
セリナの瞳が見開かれる。
「……ありがとう」
ほんの少し、微笑んだその顔に、リュークは胸が熱くなるのを感じていた。
夜が明けた。
ふたりは深い森を越え、今は廃墟となった《双月の城》にたどり着いていた。
ここはかつて竜族と人が共に暮らした聖地だった。今では誰も寄りつかない遺跡だが、その石壁はまだ凛としていた。
大広間に火を焚き、リュークはじっと炎を見つめていた。
「なぜ、あなたは私を助けてくれるの?」
セリナが問いかけた。
「……さあな」
リュークは肩をすくめた。
「けどな、あの瞳を見て思ったんだ。そんな綺麗な涙、穢させるわけにはいかないってな」
セリナの胸が熱くなる。どこか苦しくなるほど、心が跳ねていた。
「……わたし、あなたが……好き」
ふと、口をついて出たその言葉に、自分でも驚いてしまった。
リュークもまた一瞬、目を見開いた。
「セリナ……」
言葉を続けようとしたときだった。
「——いたぞ!中だ!」
私兵の声が響き、廃城がざわめいた。
「チッ、早かったか……!」
リュークは剣を手に立ち上がる。
「セリナ、俺の後ろにいろ」
「……わたしも、戦う」
その瞳に宿る炎に、リュークは一瞬息を呑んだ。
「……わかった。なら背中は任せる」
ふたりは並び立つ。稲妻と涙色の光が、再び交わる時だった。
戦いは激しかった。
私兵たちは魔導弓を用い、城壁をも撃ち砕いて攻め込んできた。だがリュークは雷の剣を振るい、ジルドランは稲妻の翼で敵をなぎ払う。
セリナはその背で、胸元に手を当てていた。
熱い……胸が、燃えてる……。
魔石の力が目覚めようとしている。だが今は、恐怖ではなかった。
……守りたい。その想いが心を満たしていた。リュークの背中、彼の剣、彼の声を。守りたかった。
「セリナ!」
リュークが叫んだ。矢が四方から迫る。
瞬間、セリナの瞳が光った。
「やめてええええっ!!」
——ズガアアアアン!!
城の空が割れるような閃光。《涙色の稲妻》が大地を貫き、兵たちは吹き飛ばされた。 稲妻の中心にいたセリナの髪が風に舞い、瞳はなおも淡く光っている。
リュークは息を呑んだ。
「これが……涙色の魔石の、真の力……?」
セリナはふらりと崩れかけたが、リュークが抱きとめた。
「セリナ!」
「……わたし、大丈夫……」
その言葉に、リュークは静かに笑った。
「……もう怖がらなくていい。お前は、強い」
その腕のなかで、セリナはそっと瞳を閉じた。
戦いの後。
魔石の力は安定し、王都でも私兵たちの暴走は止められていた。
双月の城の高台。ふたりは肩を並べていた。
「……これからどうするんだ、セリナ」
「あなたと一緒に生きたい」
その瞳は迷いがなかった。
「……なら、俺が守る」
リュークは微笑む。
「俺も……お前が、好きだ」
頬が紅くなるセリナ。ふたりは見つめ合い、そっと唇を重ねた。
涙色の空に、ひと筋の稲妻が走った。
それは、ふたりの炎の恋心が、新たな未来を照らす光だった——。