エピローグ ― きみの時間が、ぼくを忘れていく ―
「魂の図書館」
そこは、時間の流れも、名前もない場所。
白い廊下の奥、無数の書架がそびえ立つ静謐な空間。
“魂の図書館”と呼ばれるその場所では、世界中の誰とも知れない「人生の断片」が本として並べられていた。
風は吹かず、音もない。
けれど、本を手に取る誰かがいれば、そのページはふわりと、まるで自らめくれるように語り始める。
彼――かつて「蒼 颯真」と呼ばれた存在――は、ひとつの本の前に立っていた。
それは、彼が何度も開きかけて、けれど最後まで読みきれなかった物語。
表紙には、かすかに彼女の名前が刻まれているようで、でも読むことはできない。
「……ずっと、ここにあったのか」
彼は手を伸ばす。
けれどページは、最後までめくる前にするりとすり抜けた。
この図書館では、“必要なもの”は自らの意思で現れ、“過ぎたもの”は戻らない。
「まだ、終わっていないんだよ」
誰かの声が響いた。
振り返ると、そこに“案内人”が立っていた。
年齢も性別も判別できない、けれど優しい目をした存在だった。
「君たちの物語は、もういちど始まる。今度は、心だけじゃなく、名前も記憶も、生きた時間も全部連れて」
「……やり直せるってことか?」
「違う。“やり直し”じゃない。“続き”なんだよ。ふたりが出会うその先を、今度こそ生きるんだ」
案内人は手を差し出した。
その掌に、光る糸のような記憶が巻き取られていく。
「これは、君の想いだ。何度も時を越えて、由奈を守ろうとした願いの痕跡」
その光を胸に受け取ると、彼の輪郭が少しずつ溶けていった。
けれど、不思議と怖くなかった。
「由奈に……また会えるかな」
「もう、会ってるかもしれないよ。すれ違いの中で、目を逸らしたその一瞬に」
「……そうか」
彼はふっと微笑むと、図書館の出口に向かって歩き出した。
⸻
「春の、始まり」
桜の花が散り始める頃。
由奈は、大学の構内でひとり空を見上げていた。
花びらの舞うなか、ふと目を閉じると、胸の奥が少しだけ騒ぐ。
(……誰かを、待っている気がする)
けれど、その「誰か」が誰なのか、思い出せない。
ただ、手帳の最後のページに書かれた言葉だけが、やけに鮮明に残っていた。
「名前を知らない誰かのことを、私は忘れたくない」
そこに理由なんてなくていい。
説明できない記憶でもいい。
その人が、自分にとって大切だったと――心が、そう叫んでいるのだから。
「……あの、すみません」
ふと、後ろから声がした。
振り向くと、ノートを片手にした青年が立っていた。
少し困ったような顔で笑いながら、彼は尋ねた。
「この花、なんて名前か知ってますか?」
彼が指差したのは、白い、小さな名もなき花だった。
由奈は目を見開いた。
それは、ずっと記憶の底にあった花。
夢の中で、誰かが育てていたような、やさしい白。
彼女はそっと答えた。
「……わかりません。でも、どこかで見た気がします」
「僕もです。昔、だれかが大事にしてたような……気がして」
ふたりは顔を見合わせて、少しだけ笑った。
その笑顔はどこか、懐かしくて、でも新しかった。
「……初めまして」
「……はい、初めまして」
そうやって、ふたりは出会った。
記憶のない未来で、けれど心だけが確かに覚えている場所で。
⸻
「そして、ふたりの時間は――」
魂は、巡る。
どれだけ忘れても。
どれだけ失っても。
誰かを想う気持ちは、決して消えずに残り続ける。
時間に抗った青年と、忘れていく少女の物語は、
静かに終わり、そして新しい物語へと繋がっていく。
それは、「ふたりが出会う」という、ただそれだけの、
けれどこの世界で最も確かな奇跡の始まりだった。
⸻
『きみの時間が、ぼくを忘れていく』 ― 完 ―