第6章「きみが、いた時間」
第1節:逆流する意識
雨音が、遠くで鳴っていた。
規則的で、それでいてどこか不安定なその音が、颯真の意識をゆっくりと揺らしていた。
目を開けると、そこは見慣れた研究室の天井だった。古びた白色蛍光灯、機械の低い駆動音、そして……真夜中の静けさ。
「……ここは、もう“過去”だ」
彼はゆっくりと体を起こした。時間逆行装置は、確かに作動した。
肉体としての“死”は避けられなかったが、意識だけが過去へと流れ込むように転送された。
すでに彼は“人”ではない。記録も記憶も、世界の表面に浮かぶことはない。
けれども彼は、それでもなお一つの願いだけを抱いていた。
「もう一度、君を助ける。今度こそ、絶望の夜から」
彼女――由奈は、生きている。けれど、あの夜から彼女の笑顔は止まってしまった。
あの日、彼女が泣き崩れていた場所。レコードの音も聞こえなかった、あの夜。
彼女は、俺が死んだことを知らなかった。
だけど、彼女は知ってしまったんだ。“もう戻ってこない誰か”がいたことを。
その真実が、彼女の心を壊した。
食事も取らず、眠ることもできず、ただ、誰かの名前を思い出そうとする日々。
――あの時、彼女はひとりだった。
――俺が、約束を守らなかったから。
「なぜ、俺はあの夜に戻らなかった……」
時間の流れを戻す装置は、完全ではなかった。
彼の意識は過去の“点”へ正確に飛ぶことはできない。
曖昧な記憶を頼りに、少しずつ由奈の記憶の時間をたどるように遡っていく。
彼は、再生ボタンを押すように、自分たちの過去を“逆から”再体験していく。
出会いも、笑顔も、涙も、すべてが順を逆さにして現れる。
そして、たどり着いたのが――彼女が、泣き崩れた、あの“夜”。
⸻
颯真の意識が滲む。映像が流れ込むように脳を貫いていく。
由奈がベッドに倒れこみ、泣いている。
レコードは止まり、部屋は真っ暗だった。携帯の明かりすらついていない。
その夜、由奈はすべてを失ったと感じていた。
「どうして……どうして、いなくなるの……」
誰に向けた言葉かすらわからず、けれど確かに“誰か”に語りかけていた。
涙で滲んだ視界の中で、彼女はポツリと呟いた。
「助けてよ……そうま……」
その名を、彼女はもう覚えていないはずだった。
けれど、心は覚えていたのだ。名も顔も、すべて忘れていても――
心は、忘れようとしていなかった。
その声が、今の颯真を貫いた。
「……由奈……」
その夜が、彼女が壊れてしまう決定的な瞬間だった。
彼女を放っておけば、二度と立ち直ることはなかったかもしれない。
「だから、俺は戻ってきたんだ」
「君の時間を、絶望で終わらせないために――」
彼は、その夜を越えて、もっと前へ進む。
彼女の笑顔がまだ生きていた時間へ。
彼女が希望を信じていた季節へ。
彼女が、彼を愛していた未来へ。
――第2節:きみと、未来を約束した日
「もし、世界にひとつだけ時間を止められる魔法があるなら、どうする?」
春の匂いが混じった風が、桜の花びらを揺らしていた。
ベンチに並んで座るふたりの肩が、時折触れるたびに、由奈はくすぐったそうに笑った。
「魔法なんて使わなくても、この瞬間が止まればいいって思うよ」
颯真はそう言って、由奈の方を見た。
彼女の髪が風で舞い、白いワンピースのすそが揺れている。
笑ったその横顔が、あまりにもきれいで、ただ見とれていた。
「じゃあ、止めるために何かしてくれる?」
「たとえば……明日もまた会ってくれるとか?」
「それ、時間止まってなくない?」
「止まらないなら、毎日続ければいいだけだよ」
そんな由奈の言葉に、彼は、心のどこかで永遠を願ってしまった。
その瞬間がいつまでも続くと、錯覚していた。
でも――
時間は、止まらなかった。
いや、止められなかった。
由奈の時間も、颯真の時間も、そして“あの日”も。
⸻
ある日の夜。研究室での実験を終えた颯真は、異変に気づく。
由奈からのメッセージが、途絶えた。
いつもは「お疲れさま」「ちゃんとごはん食べてね」なんて、何気ないやりとりがあったのに。
既読もつかない。
電話も出ない。
悪い予感がした。
そして、そこから彼の時間は崩れていった。
病院。
深夜。
由奈が倒れて運ばれたと、共通の友人から連絡を受けた。
ストレス性の昏睡。
極度の栄養失調。
そして、精神的ショックによる記憶の断片化。
「あなたのこと……“颯真”って人……思い出せないって、由奈ちゃんが……」
彼は、病室に入れなかった。
彼女は、自分の存在を覚えていなかった。
「なぜ、俺はあの時――」
実験に夢中になりすぎたのか。
連絡を怠ったからか。
彼女の孤独に気づけなかったからか。
いや、違う。
彼女が壊れてしまったのは、“何か”を知ってしまったからだ。
その“何か”が、自分の消失だったと知ったのは――意識を過去に飛ばした今だからこそ、わかる。
彼女の時間が止まった理由は、俺の時間が消えたから。
だから、今度こそ。
もう一度だけ、彼女の“時間”に入り込まなければならない。
彼女が未来を信じられるように。
彼女が、孤独の夜を生き延びられるように。
「俺が、君を助ける。君がいた世界を、君の笑顔を、もう一度取り戻すために」
由奈が笑ってくれる未来を。
彼女が自分を覚えている日々を。
再び生き直すために、彼は進む。
今度こそ、時間に打ち勝つために。
――第3節:出会いの時間へ
白い光がすべてを包み、耳鳴りが遠ざかる。
視界が、ゆっくりと戻ってきた。
雨の音。制服の袖に触れる水滴。走る足音――
颯真は、意識が再接続される感覚に震えながら、自分の身体が高校生のものに戻っていることに気づいた。
「ここは……?」
校舎の裏手。
あの日、偶然にも“彼女”と出会ったあの場所。
夕立のあと、傘を忘れて濡れていた少女。
白いブラウスが雨に透けて、肩をすくめながら濡れた前髪を払っていた。
制服のスカートは膝まで濡れ、靴も音を立てている。
その少女が、振り返る。
――由奈。
高校二年の、まだ彼女と話したことのなかった時期。
これが、ふたりの“最初の時間”だった。
「……傘、いる?」
颯真は言葉が詰まりながらも、過去と今をつなぐ唯一の鍵を差し出した。
彼女はきょとんとし、次第に口元をほころばせる。
「……ありがとう。でも、いいの?」
「どうせ濡れたし、別に……それに、君の方が寒そうだから」
この何気ないやりとりが、すべての始まりだった。
だが今回は違う。
これは、“やり直し”の時間だ。
「名前、聞いてもいい?」
「……蒼 颯真。君は?」
「七瀬由奈」
初めて交わすその名前に、胸がきしむ。
失われた日々を知っている自分には、それがあまりにも懐かしく、そして痛かった。
由奈は、傘を開いて、言った。
「じゃあ、次会ったらまた傘貸してね。約束だよ?」
過去の彼女は、未来の痛みをまだ知らない。
でも、今ここにいる自分だけが、その未来を変える力を持っている。
だから、颯真は返す。
「うん。何度でも貸すよ。何度でも、君に会いに行く」
約束を、もう一度交わす。
“きみがいる未来”を信じるために。
――その瞬間、世界がまた揺れた。
景色が歪み、時間が逆巻き、次の“接続点”へと彼を引きずり込んでいく。
彼は目を閉じる。
ただ、ひとつの願いを胸に。
「由奈を、ひとりにしない。今度こそ」
――第4節:再構築される記憶
目を開けた瞬間、春の匂いが鼻先をくすぐった。
どこか懐かしい音楽が遠くで流れている。アナログの針が走るような、柔らかくて歪んだ音。
「……また、違う時間か」
そこは大学の講義棟だった。
颯真の記憶の中でも、とびきり鮮明な“ある一日”の光景。
由奈と、初めてキャンパスの外で待ち合わせをした日。
小さな喫茶店でレコードの話をした、あの午後だった。
「変だな……はじめましてのはずなのに、話しやすいね」
由奈が笑った。
カップの中のコーヒーを揺らしながら、そう言った瞬間。
記憶の輪郭が、ふと滲んだ。
彼女の言葉の“裏側”に、確かな既視感が流れこんでくる。
それは、未来の記憶が、わずかに過去へと伝染している証だった。
(記憶が……重なりはじめてる)
颯真は、由奈の瞳の中に“自分を知っていた頃の光”を見た気がした。
わずかでも、彼女の中に何かが芽吹き始めている。
この小さな変化を信じて、彼はまたひとつ行動を起こす。
テーブルの上に、ひとつの小さな箱を置く。
中には、昔ふたりで聴いたあのオルゴール。
「これ、君にあげる」
「……いいの?」
「うん。いつか、きっと、役に立つ気がするから」
由奈は箱を開けると、小さなオルゴールの蓋をそっと持ち上げた。
「逆回転」にしたオルゴールが、ほんの一瞬だけ――音を鳴らした。
すると。
由奈の目が、大きく見開かれる。
次の瞬間、彼女の瞳に、なにか“強い感情”がよぎった。
けれど、彼女自身がその正体をうまく説明できない。
「……どうして、涙が出るんだろう」
ゆっくりと、彼女の頬を涙がつたう。
初めて、理由のない涙を流したのはこの日だったと、颯真は思い出す。
彼女の中にある“彼を知っていた日々”の記憶。
それは確かに、再構築され始めていた。
けれど、この時間は長くは続かない。
颯真の意識は、再び歪みはじめた。
「まだだ……もっと、もっと君に会いたい。思い出してほしい」
そう強く願った瞬間、時間の奔流が彼を飲み込む。
新たな接続点へと引き戻されていく。
けれどその手には、由奈の“涙”の感触が残っていた。
確かに、心は触れ合った。
微かな奇跡を信じて、彼はまた旅を続ける。
――第5節:さよならを、ふたたび
風が冷たく、空が滲んで見える。
季節は冬に戻っていた。
けれど、ここもまた現実ではない。
“あの日”をなぞるようにして浮かび上がった、記憶の断片だった。
駅のホーム。
由奈は、マフラーに顔を埋めて、黙ったまま立っている。
その横に立つ颯真。
ふたりの間には、もう何度目かもわからない“別れ”の空気が流れていた。
「行くね」
由奈が言った。
「……うん」
颯真はそれに、ただ頷くだけだった。
この日、由奈は地方の大学院へ進むことが決まり、東京を離れることになっていた。
未来の選択肢は希望に満ちているはずなのに、彼女の表情には不安が滲んでいた。
「……なんで、だろうね」
由奈がぽつりと呟く。
「え?」
「夢を叶えたはずなのに、こんなに苦しいの」
「わたし、きっと大事な何かを忘れてる」
「何か――何かを置き去りにしてる」
それはまるで、“このあと、自分が死ぬ運命にある”と、無意識に察しているかのような声だった。
颯真の喉が詰まった。
何も言えない。
この先に待つ“由奈の死”を知っているからこそ、言葉を出すのが怖かった。
それでも、言わなければならない。
それが、自分の存在理由なのだから。
「由奈」
颯真は、思い切って由奈の手を取った。
その手は、どこか冷たかった。
「君の人生は、このままじゃ終わってしまう。だけど……きっと、変えられる」
由奈は驚いたように目を見開いた。
「……どういう意味?」
「君が何かを思い出せば、変わる。運命だって、選び直せる」
「わたしが……思い出す?」
「そう。……ぼくを。ぼくたちの時間を」
言ってしまった。
これが最後のチャンスかもしれないと思っていた。
その瞬間、列車の接近を知らせるアナウンスが鳴った。
時間が動き出す。
未来へ、そして“死”へ向かってしまう。
由奈の視線が、再び遠くなる。
つながりかけた意識が、離れかけていく。
(だめだ。まだ足りない……)
颯真の意識が歪む。
再び、強制的に時間の狭間へと引き戻される。
だが――その寸前、由奈の手が彼の手を強く握った。
「……知ってた、気がするの」
「あなたのこと。……ずっと前から」
まばたきの間に、すべてが消えた。
風が吹き抜け、列車が通り過ぎていった。
颯真は膝をつき、息を吐いた。
絶望の淵で、それでも彼は決意する。
(君を助ける。たとえ、何度時間を遡ることになっても)
(この手で、君を死から救い出す――)
その決意が、新たな扉を開く。
意識の深層から、別の“記憶”が呼び覚まされる。
――それは、ふたりが出会う“もっと前”、誰も知らない記憶。
――第6節:時の起点
時間の狭間――そこは、どの時代にも属さない空間だった。
過去も未来も意味をなさず、ただ「存在」と「記憶」だけが浮遊する世界。
その中心に、颯真はいた。
彼の意識は、いまや肉体の境界すら越えている。
幾千もの記憶が渦巻くなか、ひときわ鮮明な“原点”が浮かび上がってきた。
それは、まだふたりが出会っていないはずの記憶――輪廻の最初の接点だった。
……古い図書館。
雨音が静かに響く。
その片隅で、一冊の本を手にした少女と、それを見つめる少年。
ページの隅に、ふたりの手が偶然触れた。
何も言葉は交わさなかった。
けれどその瞬間、ふたりは確かに「知っていた」。
(あ、この人を――わたしは……)
(あのときから、もう始まっていたんだ……)
記憶がすべてをつなげていく。
これは偶然ではなく、輪廻という名の連なりの中で、幾度も交わった魂の記録だった。
彼女はいつも、何らかの形で死に近づいていた。
そして、颯真はそれを止めるために何度も立ち上がり、時間を遡った。
けれど、彼が由奈を助けるたびに、彼女はその記憶を失ってしまう。
「生きること」と引き換えに、彼女の記憶から颯真は消えていく。
(わかってた。最初から、こうなるって……)
――それでも、やめられなかった。
由奈が生きていてほしい。
笑っていてほしい。
そのためなら、たとえ彼女の記憶から自分が消えたとしても構わなかった。
それが、颯真の“最初の選択”だった。
そして今、再びその選択が問われている。
「おまえは、また同じ痛みを選ぶのか?」
聞こえた声は、自分自身の奥底に潜む“もうひとりの自分”だった。
冷たく、理知的で、感情を排した声音。
「彼女を助ければ、おまえは永遠に忘れられる。存在すら、なかったことになる」
「それでもいい」
颯真は、迷いなく答えた。
「由奈が生きてくれるなら、それでいい。ぼくは、それだけのためにここにいる」
その瞬間、すべてが光に包まれた。
時間の流れが逆巻き、記憶の壁が崩れ、魂の“芯”がむき出しになる。
彼の意志は、世界の仕組みをも変えるほどの力を帯び始めていた。
その想いが、はじめて奇跡を起こす。
時の狭間が、微かに軋んだ。
閉じていた運命の輪が、ほんの少しだけ緩んだ音がした。
颯真は目を開ける。
そして、最後の“改変”の旅が始まる――