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第5章「わたしが、忘れていたこと」


夜明け前の静けさのなかで、由奈はソファに座っていた。

手には、実家の倉庫で見つけた古いノート。

「蒼 颯真」という名前が、胸の奥に残響のように響いていた。


誰?

どうして、名前を聞いただけで涙が出そうになるの?


ページをめくれば、文字が現れる。

見知らぬはずの言葉たちが、まるで由奈の記憶をなぞるように胸に染み込んでくる。


「君の記憶から、ぼくが消えても」

「ぼくの時間から、君を忘れることはない」


それは、愛の言葉ではなかった。

祈りだった。

ただ、ただ、彼女の幸せだけを願うような、強い想いだった。


由奈は、涙をこぼしながらページを閉じた。



あの日以来、由奈は一人になる時間を増やしていた。

昼のカフェの喧騒も、職場の誰かの笑い声も、どこか遠く感じた。

代わりに心を満たしていくのは、

“かつて在ったはずの誰か”の気配だった。


そして、夢。

夜毎、夢の中で会う誰か。

目覚めれば忘れてしまうのに、心だけがその温もりを覚えていた。


記憶の奥に沈んだ言葉が、少しずつ浮かび上がる。


──好きだった。

──忘れたくなかった。

──忘れさせたくなかった。



ある日、由奈は思い立ってレコード屋へ向かった。

初めて“逆再生の音”を耳にした、あの古びた店。


何かがある気がした。

いや、きっと──彼がいた場所にもう一度行きたかった。


開店直後の店内は静かだった。

マスターの姿は見えず、店内にレコードが回る音だけが流れていた。


由奈はふらりと歩き、あの時と同じ棚に手を伸ばす。

一枚のジャケット。

「REWIND − 記憶の針 −」と記された文字。


知らないはずなのに、指が勝手にそのレコードを取り出していた。


プレーヤーに置き、針を落とす。

時間が反転したような、逆回転の旋律が流れ出した。


そして──


音が、記憶を呼び覚ます。




教室の窓際。

穏やかな春の光。

隣に座る彼が、笑いながら言う。


「由奈、これ貸してあげる。眠れない夜に聴くといいよ」


差し出されたのは、あのレコードだった。

逆回転のような音が流れる、不思議な一枚。


「……変な音楽」


「でもさ、時間が戻るみたいじゃない? 夢の中で、もう一回、今日をやり直せるかも」


由奈は笑った。

でもその夜、本当に夢の中で“彼”と出会った。


──思い出した。

蒼 颯真。

私の隣にいた人。

私の記憶から、消えたはずの人。


けれど、今確かにここにいる。



由奈の頭の中に、記憶の断片が流れ込んでくる。


駅のホーム。

夕暮れの川沿い。

音楽室のピアノ。

空白だった心の隙間を、彼との時間が埋めていった。


けれど、どうして忘れていたの?

なぜ、こんなにも愛しかった人を。


ノートをめくれば、その答えに近づいていく。


「この世界は、きみを守るためなら、ぼくを消してもいいらしい」


まるで、彼自身の手によって記された言葉。

時間と記憶を逆流させる装置──その危うさ。

きみの心が壊れてしまうくらいなら、ぼくの存在が消えるほうがいい


そんな悲しい選択が、そこにあった。



その夜、由奈は夢を見る。


白く霞んだ研究室のような部屋。

無数の記録媒体と、壁一面の数式。


中央に立っていたのは、彼──蒼 颯真だった。


「やっと……来てくれたんだね」


彼は微笑みながら言った。


「僕は……きみの中で、もうすぐ消える。だから、最後に伝えたくて」


「なぜ、私を……?」


「笑ってほしかったんだよ、ずっと。未来でも、過去でも」


そうして、彼はポケットから一枚のレコードを取り出す。

それは、由奈が初めて涙を流した“あの音”。


「これが最後の“針”なんだ。

 君が再生すれば、ぼくのすべてが逆再生されて、消える」


「でも……それじゃ、もう会えなくなる」


「うん。でも、大丈夫」


彼は優しく笑った。


「忘れてもいいんだ。

 でも、“忘れたことを悲しんだ君”を、ぼくは忘れないから」


目が覚めた由奈は、泣いていた。

夢と現実の境目が曖昧で、胸の奥が軋む。


でも──“知っている”。


彼がいたこと。

彼が笑っていたこと。

そして、私のために消えようとしたこと。


それを、記憶に刻まなければならない。


由奈はレコードを再びプレーヤーに乗せる。

震える手で針を落とす。


逆再生の音が、部屋中に響く。


そして、記憶がまた一枚、心に焼き付いた。


季節は、初夏の風を運んでいた。


由奈はノートの最後のページを閉じた。

“蒼 颯真”という名前が、かすかに残っている。

それはもう、夢の中の記憶ではなかった。

ちゃんと、彼がいたという証だった。


でも──現実には、彼の姿はどこにもない。

同じ大学の資料にも、職場にも、彼の記録はない。


ただ、“音”と“感情”だけがそこにあった。


由奈は決める。

記録には残らなくても、自分の心に残していくことを。


忘れても、想いは消えない。

きっと、彼がそう信じていたから。




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