表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

第3章「あなたを知らない私」

駅のホームに降り立った瞬間、胸の奥がひどくざわめいた。

通い慣れたはずの道なのに、視界に映る景色がどこか遠く見える。まるで、現実ではない別の時間に迷い込んでしまったような感覚。


由奈は、自分の鼓動がいつもより早いことに気づいていた。

仕事の帰り道。ふと立ち寄った駅前の小さな書店。その前で、彼女は足を止めた。ショーウィンドウに並んだ古本たちは、どれもくたびれた背表紙をしている。それなのに、そこに吸い寄せられるようにして手を伸ばしていた。


──なぜ、こんな場所を知っているの?


視線の先、ガラス越しにふと見えた人影に、心臓が跳ねた。

彼は、そこにいた。まるでずっと彼女を待っていたかのように、立ち尽くしていた。


(……知ってる。知らないのに、知ってる。)


初めて見る顔。だけど確かに見覚えがある。

名前も、どこで出会ったのかも思い出せない。それでも、その目の奥にある哀しみの色だけが、心の奥にずっと焼き付いている気がした。


「……こんにちは」


彼が言った。


由奈は無意識にうなずきながら、言葉を返すこともできずにいた。

ただ、その声音が深く胸に響いた。耳の奥で反響するような低く静かな声。その声を聞いた瞬間、景色が反転したような錯覚がした。


彼──蒼 颯真は、何も言わずにほほえんだ。


「ここ、入ってみませんか?」


そう言って、颯真が指さしたのは、書店の並びにある古びた喫茶店だった。

見落としてしまいそうなくらい目立たない佇まい。けれど、どこか懐かしい空気が流れていた。由奈は戸惑いながらも、首を縦に振った。


扉を開けた瞬間、空気が変わった。

木の香り。古いレコードが奏でるやわらかなジャズ。穏やかなランプの光に包まれて、そこはまるで時間が止まった世界のようだった。


店内に客はほとんどおらず、ふたりは窓際の席に座った。


「不思議ですね、私……こういうお店、初めてなのに」


「そうなんですか?」


「でも、なんとなく……懐かしい感じがするんです。記憶って、不思議ですよね。ふとした匂いとか音で、心だけが先に思い出すような……」


颯真はうなずいた。


「……それ、すごくよくわかります」


会話はたどたどしくて、ぎこちなかった。けれど、沈黙は苦にならなかった。

まるで、ずっと以前から隣にいたような安心感があった。


由奈は、彼の名前を尋ねなかった。

彼も、自分のことを語ろうとはしなかった。


なのに、テーブルの間に流れる空気は、心地よかった。


「もし、誰かを忘れてしまったとしても……」

不意に由奈が口にした。


「心が覚えてることって、あると思いますか?」


颯真は少しだけ目を伏せた。


「あると思います。……むしろ、忘れてしまった“あと”に残るのは、きっと気持ちだけなんじゃないかと」


「気持ちだけ……」


「形も名前も消えてしまっても、たとえば誰かを大切だと思う気持ちだけが、最後まで残るんだと思います」


言葉のひとつひとつが、由奈の胸に落ちていく。

気づけば彼女は、テーブルの上でそっと拳を握っていた。


(この人は……誰?)


どうして、私はこの人にこんなにも惹かれているの?


どうして、涙が出そうになるの?


別れ際、ふたりは言葉を交わさなかった。

颯真は微笑み、由奈は小さくうなずいた。それだけで充分だと思えた。


──また、会える。


なぜかそう確信できた。


そして、由奈が駅の改札を通ろうとしたそのとき。

誰も触れていないスマートフォンが、勝手に起動していた。

画面には見覚えのない日記アプリが開かれている。


《彼女が少し、過去に戻った》


《記憶の中で、名前のないまま僕を探している》


《けれど、彼女はまだ僕を知らない》


目を見開いた由奈は、その瞬間──目の前の景色がゆがんでいくのを感じた。


(え……なに……?)


目の前で通り過ぎた人影のひとつが、彼に似ていた気がした。


けれど、それはもう追いかけられないほど遠くに溶けていた。


由奈は、その夜、眠れなかった。


ベッドに横たわっても、まぶたの裏に浮かぶのは、今日出会った“知らない人”の顔だった。

優しげな目元。どこか寂しそうな笑み。

それらはすべて、彼女の記憶の中に「ない」はずなのに、まるでかつて愛した誰かを思い出しているような錯覚を与えた。


(彼の名前、聞けばよかった……)


そんなことを思ってから、ふと気づく。

自分はそもそも「名前を聞こう」とすらしなかったことに。


まるで、“聞いてはいけない”とどこかで知っていたかのように。


携帯を手に取り、ふとホーム画面を見ると──そこには見覚えのないアプリのアイコンが並んでいた。

「日記」「レコードノート」「逆再生記録」……


(……私、こんなの入れたっけ?)


恐る恐るタップしてみる。

音もなく、画面が開く。そこには文字が並んでいた。


《2025年5月、由奈、笑ってくれた。》


《今日の夢、同じだった。オルゴールと、あの音楽。》


《まだ気づいてない。でも、もうすぐ……》


手が震えた。

その文体は、どこかやさしくて。

自分を見守るように綴られている。でも、由奈にはそれが誰の手によるものなのか、まったく思い出せなかった。


“記録”が先に存在し、記憶が遅れて追いついてくる──そんな逆転現象が、確かに自分の身に起きている。


「……夢、見なきゃいいのに」


ぽつりとこぼれた言葉は、まるで誰かに届くのを拒むように、小さく、切なかった。



その夜、由奈はまた夢を見た。

夢の中で彼女は、古い音楽を聞いていた。逆再生されたレコードの音。

不思議と、涙が頬を伝っていた。


目を覚ました瞬間、呼吸が乱れていた。

夢だったのに、胸がぎゅうっと締めつけられるような痛みに襲われる。


(もう……やだ……)


でも、やめられない。心が、求めている。

その“誰か”を。

名前のない、けれど確かに知っている誰かを。



数日後、由奈は再びあの喫茶店を訪れた。

何かに導かれるように、まっすぐに。


扉を開けると、前回と同じ曲が流れていた。

古びたレコードが回り、店主がやさしいまなざしで迎える。


「いらっしゃい」


「……あの、こないだ、こちらに来た男の人って……」


「ああ、彼? いつも同じ時間に来るけど、ここ最近は見てないねえ」


「そう、ですか……」


店主の答えに落胆しながらも、由奈は窓際の席に腰を下ろす。

そのとき、席の脇に置かれたラックの中から、1枚の紙片がひらりと落ちた。


それは、誰かが書いたメモだった。


《名前は、もういらない。君が忘れても、僕が覚えているから。》


息を呑んだ。指先が、微かに震える。


(やっぱり……あの人……)


でも、どれだけ追っても、正体には届かない。

過去に遡ることができるなら──そう思ったとき、由奈の意識にまたあの音楽が流れ込んできた。


あの夢の中で聴いた、逆再生の旋律。

耳鳴りのように、ゆっくりと世界が傾いていく。


「……あなたは、誰……?」


ぽつりと漏れた言葉は、誰にも届かなかった。



その夜、アプリがまた勝手に起動した。


《記憶は、上書きされる》


《でも、感情は消えない》


《もし君が、もう一度僕を探してくれたら……》


《今度こそ、名前を呼んでくれるだろうか》


由奈は、その文字を見つめたまま、そっと目を閉じた。


気づけば、涙が頬を伝っていた。

心が、覚えている。

誰かを。忘れたくない誰かを──。


そして、彼女は静かにその名前のない人へ問いかける。


「あなたは、私の……なに?」


  

夢の中。

誰かの背中が見える。

必死に追いかけようとしても、追いつけない。


でも、その人はふり返らずに、ただ遠ざかっていく。


それでも、最後の最後に、彼の声がした。


「──また、会えるよ」


その一言が、由奈の心に深く残った。



朝。

目覚めた由奈は、手帳にこう書きつけていた。


《夢の中の誰かが、私を待っている。》


《でも私は──まだ、あなたを知らない。》




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ