第3章「あなたを知らない私」
駅のホームに降り立った瞬間、胸の奥がひどくざわめいた。
通い慣れたはずの道なのに、視界に映る景色がどこか遠く見える。まるで、現実ではない別の時間に迷い込んでしまったような感覚。
由奈は、自分の鼓動がいつもより早いことに気づいていた。
仕事の帰り道。ふと立ち寄った駅前の小さな書店。その前で、彼女は足を止めた。ショーウィンドウに並んだ古本たちは、どれもくたびれた背表紙をしている。それなのに、そこに吸い寄せられるようにして手を伸ばしていた。
──なぜ、こんな場所を知っているの?
視線の先、ガラス越しにふと見えた人影に、心臓が跳ねた。
彼は、そこにいた。まるでずっと彼女を待っていたかのように、立ち尽くしていた。
(……知ってる。知らないのに、知ってる。)
初めて見る顔。だけど確かに見覚えがある。
名前も、どこで出会ったのかも思い出せない。それでも、その目の奥にある哀しみの色だけが、心の奥にずっと焼き付いている気がした。
「……こんにちは」
彼が言った。
由奈は無意識にうなずきながら、言葉を返すこともできずにいた。
ただ、その声音が深く胸に響いた。耳の奥で反響するような低く静かな声。その声を聞いた瞬間、景色が反転したような錯覚がした。
彼──蒼 颯真は、何も言わずにほほえんだ。
•
「ここ、入ってみませんか?」
そう言って、颯真が指さしたのは、書店の並びにある古びた喫茶店だった。
見落としてしまいそうなくらい目立たない佇まい。けれど、どこか懐かしい空気が流れていた。由奈は戸惑いながらも、首を縦に振った。
扉を開けた瞬間、空気が変わった。
木の香り。古いレコードが奏でるやわらかなジャズ。穏やかなランプの光に包まれて、そこはまるで時間が止まった世界のようだった。
店内に客はほとんどおらず、ふたりは窓際の席に座った。
「不思議ですね、私……こういうお店、初めてなのに」
「そうなんですか?」
「でも、なんとなく……懐かしい感じがするんです。記憶って、不思議ですよね。ふとした匂いとか音で、心だけが先に思い出すような……」
颯真はうなずいた。
「……それ、すごくよくわかります」
会話はたどたどしくて、ぎこちなかった。けれど、沈黙は苦にならなかった。
まるで、ずっと以前から隣にいたような安心感があった。
•
由奈は、彼の名前を尋ねなかった。
彼も、自分のことを語ろうとはしなかった。
なのに、テーブルの間に流れる空気は、心地よかった。
「もし、誰かを忘れてしまったとしても……」
不意に由奈が口にした。
「心が覚えてることって、あると思いますか?」
颯真は少しだけ目を伏せた。
「あると思います。……むしろ、忘れてしまった“あと”に残るのは、きっと気持ちだけなんじゃないかと」
「気持ちだけ……」
「形も名前も消えてしまっても、たとえば誰かを大切だと思う気持ちだけが、最後まで残るんだと思います」
言葉のひとつひとつが、由奈の胸に落ちていく。
気づけば彼女は、テーブルの上でそっと拳を握っていた。
(この人は……誰?)
どうして、私はこの人にこんなにも惹かれているの?
どうして、涙が出そうになるの?
•
別れ際、ふたりは言葉を交わさなかった。
颯真は微笑み、由奈は小さくうなずいた。それだけで充分だと思えた。
──また、会える。
なぜかそう確信できた。
そして、由奈が駅の改札を通ろうとしたそのとき。
誰も触れていないスマートフォンが、勝手に起動していた。
画面には見覚えのない日記アプリが開かれている。
《彼女が少し、過去に戻った》
《記憶の中で、名前のないまま僕を探している》
《けれど、彼女はまだ僕を知らない》
目を見開いた由奈は、その瞬間──目の前の景色がゆがんでいくのを感じた。
(え……なに……?)
目の前で通り過ぎた人影のひとつが、彼に似ていた気がした。
けれど、それはもう追いかけられないほど遠くに溶けていた。
由奈は、その夜、眠れなかった。
ベッドに横たわっても、まぶたの裏に浮かぶのは、今日出会った“知らない人”の顔だった。
優しげな目元。どこか寂しそうな笑み。
それらはすべて、彼女の記憶の中に「ない」はずなのに、まるでかつて愛した誰かを思い出しているような錯覚を与えた。
(彼の名前、聞けばよかった……)
そんなことを思ってから、ふと気づく。
自分はそもそも「名前を聞こう」とすらしなかったことに。
まるで、“聞いてはいけない”とどこかで知っていたかのように。
携帯を手に取り、ふとホーム画面を見ると──そこには見覚えのないアプリのアイコンが並んでいた。
「日記」「レコードノート」「逆再生記録」……
(……私、こんなの入れたっけ?)
恐る恐るタップしてみる。
音もなく、画面が開く。そこには文字が並んでいた。
《2025年5月、由奈、笑ってくれた。》
《今日の夢、同じだった。オルゴールと、あの音楽。》
《まだ気づいてない。でも、もうすぐ……》
手が震えた。
その文体は、どこかやさしくて。
自分を見守るように綴られている。でも、由奈にはそれが誰の手によるものなのか、まったく思い出せなかった。
“記録”が先に存在し、記憶が遅れて追いついてくる──そんな逆転現象が、確かに自分の身に起きている。
「……夢、見なきゃいいのに」
ぽつりとこぼれた言葉は、まるで誰かに届くのを拒むように、小さく、切なかった。
その夜、由奈はまた夢を見た。
夢の中で彼女は、古い音楽を聞いていた。逆再生されたレコードの音。
不思議と、涙が頬を伝っていた。
目を覚ました瞬間、呼吸が乱れていた。
夢だったのに、胸がぎゅうっと締めつけられるような痛みに襲われる。
(もう……やだ……)
でも、やめられない。心が、求めている。
その“誰か”を。
名前のない、けれど確かに知っている誰かを。
数日後、由奈は再びあの喫茶店を訪れた。
何かに導かれるように、まっすぐに。
扉を開けると、前回と同じ曲が流れていた。
古びたレコードが回り、店主がやさしいまなざしで迎える。
「いらっしゃい」
「……あの、こないだ、こちらに来た男の人って……」
「ああ、彼? いつも同じ時間に来るけど、ここ最近は見てないねえ」
「そう、ですか……」
店主の答えに落胆しながらも、由奈は窓際の席に腰を下ろす。
そのとき、席の脇に置かれたラックの中から、1枚の紙片がひらりと落ちた。
それは、誰かが書いたメモだった。
《名前は、もういらない。君が忘れても、僕が覚えているから。》
息を呑んだ。指先が、微かに震える。
(やっぱり……あの人……)
でも、どれだけ追っても、正体には届かない。
過去に遡ることができるなら──そう思ったとき、由奈の意識にまたあの音楽が流れ込んできた。
あの夢の中で聴いた、逆再生の旋律。
耳鳴りのように、ゆっくりと世界が傾いていく。
「……あなたは、誰……?」
ぽつりと漏れた言葉は、誰にも届かなかった。
その夜、アプリがまた勝手に起動した。
《記憶は、上書きされる》
《でも、感情は消えない》
《もし君が、もう一度僕を探してくれたら……》
《今度こそ、名前を呼んでくれるだろうか》
由奈は、その文字を見つめたまま、そっと目を閉じた。
気づけば、涙が頬を伝っていた。
心が、覚えている。
誰かを。忘れたくない誰かを──。
そして、彼女は静かにその名前のない人へ問いかける。
「あなたは、私の……なに?」
夢の中。
誰かの背中が見える。
必死に追いかけようとしても、追いつけない。
でも、その人はふり返らずに、ただ遠ざかっていく。
それでも、最後の最後に、彼の声がした。
「──また、会えるよ」
その一言が、由奈の心に深く残った。
朝。
目覚めた由奈は、手帳にこう書きつけていた。
《夢の中の誰かが、私を待っている。》
《でも私は──まだ、あなたを知らない。》