第2章「心の中の空白」
朝の光が、薄くカーテン越しに差し込んでいた。
由奈は、ベッドの上でしばらくぼんやりと天井を見つめていた。目覚めた直後から胸の奥にひんやりとしたものが残っている。まるで夢の続きを心のどこかに置き忘れたような感覚。けれど、その夢が何だったのか、まったく思い出せない。
起き上がって時計を見ると、まだアラームの鳴る一時間前だった。ため息と共に毛布を払い、ベッドの縁に腰掛ける。ぼんやりと、窓の外に目をやると、ビルの隙間から朝焼けが覗いていた。
ここ最近、由奈はよく“同じ夢”を見ていた。いや、正確には“同じ感覚”の夢だ。視界はぼやけ、言葉は聞こえず、ただ静かに音楽が流れている。レコードのようなノイズ交じりの旋律が逆回転し、風景がすべて後ろ向きに進んでいく。不気味ではなく、むしろ懐かしくて涙が出そうになるような夢だった。
由奈は顔を洗い、軽く朝食をとると、いつも通りの身支度を整えた。
会社までは電車で十五分ほど。平日の通勤電車は今日も混んでいたが、由奈は車窓に映る自分の姿をただ見つめていた。ぼんやりとした違和感が、消えてくれない。
(なんだろう……何かが欠けてる気がする)
車窓の外に流れる景色はいつも通りなのに、見慣れた町の風景がどこか遠くの国のもののように感じることがある。日常に歪みがあるわけでもない。ただ、心のなかにぽっかりと“空白”がある。
会社に着いても集中できず、書類をめくる手がふと止まる。
──何か、忘れている。
そう思ったとき、ふいに視界の端に何かがよぎった。音も立てずに机の上に置かれた付箋。そこには、こう書かれていた。
「ゆうなさん、きょうは風が強いから気をつけて。」
誰の字でもない。見覚えもない。けれど、その文字を見た瞬間、心が跳ねた。
(……誰?)
名前で呼ばれたのは、職場の誰かかもしれない。だが、周囲の人たちは普段そんな書き方をしない。ふざけたメモかとも思ったが、その文字はとても丁寧で、どこか優しさが滲んでいた。
(知ってる……この感じ。誰か、こんなふうにわたしのことを……)
気づけば、その付箋をそっと胸元にしまっていた。
その日の夜、由奈はまた“夢”を見た。
重たげなレコードの針が、逆に進んでいく。ざらついた音の向こうで、誰かの声がした。だが、言葉は聞き取れず、風の音とともに消えてしまう。
目覚めたとき、涙が頬を伝っていた。
(また……この夢)
息を整えて枕元を見ると、そこに一枚の紙があった。目を疑う。昨夜までは確かに何もなかった。小さなメモ帳の切れ端のような紙に、ペンでこう記されていた。
「ぼくは君を忘れない」
(……どういうこと?)
部屋の戸締まりはしていた。誰かが入れるはずがない。だが確かに、そこには“存在の痕跡”があった。
その日から、日常の中に奇妙な違和感が増えていった。
例えば、誰もいないはずの部屋の奥から響く足音。後ろを振り向いても誰もいない。
例えば、スマートフォンのメモアプリに知らない文章が打ち込まれていた。「あの曲、覚えてる?」という問いかけ。再生履歴に見覚えのないレコード曲。
恐怖というよりも、胸が締めつけられるような感情に包まれる。“怖い”よりも“懐かしい”という感覚が強かった。
(誰かが、わたしを思い出そうとしている……?)
気のせいにしようと何度も思った。だが、夢もメモも“気のせい”で片づけるには濃密すぎた。何より、“名前を知らない誰か”の気配が確かにあった。
週末、由奈はひとりで街を歩いていた。駅前の古書店に立ち寄ると、奥のレコードコーナーから、あの“逆回転の音”が聴こえてきた。ぞわり、と背筋を伝う寒気とともに、胸が苦しくなる。
そこには、若い男性が立っていた。背は高く、黒いコートの背中が静かに揺れている。
(……誰?)
顔は見えなかった。だがその背中を見た瞬間、息が詰まった。
次の瞬間、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。
目が合った。何も言葉は交わさなかった。ただ、由奈の中で何かが“震えた”。
それは理屈ではなく、確信に近かった。
(この人……知ってる)
記憶の中には存在しない。けれど、心が覚えていた。胸の奥の“空白”が、ほんのわずかに埋まる音がした。
だが、彼は微笑むだけで、何も言わずに立ち去った。
残されたのは、逆再生されたレコードの音と、由奈の胸の痛みだけだった。
──そして夜、また夢を見る。
あの背中。あの声。彼の言葉。
「君の時間が、ぼくを忘れていく」
夢の中で、由奈はその言葉を聴いた。
目覚めたとき、心が震えていた。
彼が誰なのかも、何があったのかもわからない。けれど、ひとつだけはっきりとわかっていた。
(わたしは……誰かを忘れてる)
それは、とても大切な誰か。忘れてはいけなかったはずの、誰か。
胸の奥に空いた穴は、記憶ではなく、“感情”で形作られていた。
──まだ出会っていない誰かを、すでに恋しいと感じる。