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第1章「見知らぬ誰かの面影」

六月の雨が、街を濡らしていた。


 出勤ラッシュを終えた車両には、どこかゆったりとした空気が漂っていた。ガタンゴトンと揺れる車内、曇った窓の外を、傘の波が通りすぎてゆく。七瀬由奈は、吊り革につかまりながら、その景色をぼんやりと見ていた。


 車内の空調は効きすぎていて、首元に冷気が入り込む。鞄の中からストールを引き出して首に巻くと、かすかに香る柔軟剤の匂いが鼻をくすぐった。


 ──何かを忘れている気がする。


 そんな感覚が、ふと、胸の奥から湧き上がった。


 朝食は食べた。化粧もした。鍵も財布も持っている。それでも、心の奥底に、小さな違和感が沈んでいるような気がしてならなかった。


 まるで、昨日の続きを知らないまま、今日に来てしまったような。


 


 ***


 


 職場での一日は、いつも通りのはずだった。


 都内の出版社で事務として働く由奈は、午前中は原稿の整理とスケジュール調整に追われ、昼には先輩と近くのカフェでパスタを食べ、午後は資料作成に没頭した。時計を見たときには、もう17時を回っていた。


「今日もお疲れ、由奈ちゃん。先に上がっていいわよ」


 編集長の言葉に軽く会釈をし、社屋を出ると、空はすっかり薄曇りになっていた。駅へと続く道の途中、ビルの隙間に見える古びた公園が目に入る。


 ──見たことがある気がする。


 けれど、来た記憶はない。昔の夢で見たのかもしれない。どこか懐かしくて、でも、今の自分とは結びつかない風景だった。


 ふと、足が止まる。


 公園のベンチに座っていた少年が、一瞬だけこちらを見たような気がした。でも、由奈が視線を向ける頃には、もう誰もいなかった。


 


 ***


 


 帰り道、駅ビルの中にある小さなレコードショップの前で、由奈は足を止めた。まるで吸い寄せられるように、無意識にドアを開ける。


 「いらっしゃいませ」


 店内は、静かだった。客は由奈ひとり。壁際に並ぶジャケットたちが、淡い照明に照らされている。レジの奥には、ターンテーブルがあり、誰かがかけたレコードがゆっくりと回っていた。


 ──逆再生。


 その音楽は、はっきりと逆方向に再生されていた。旋律が反転し、まるで時間そのものが巻き戻っていくような、不思議な感覚。


 「……」


 涙が、知らぬ間に頬をつたっていた。


 何かを思い出したわけではない。ただ、懐かしい。ひどく切ない。心のどこかが、強く揺さぶられる音だった。


 なぜ泣いているのか、自分でもわからなかった。けれど、その音を離れがたく思う気持ちだけが、確かにあった。


 


 ***


 


 その夜、由奈は夢を見た。


 冷たい雨の降る公園。ベンチに座る誰かの背中。振り向きざまに、その人が言った。


 ──「やっと、会えた」


 目が覚める直前、その言葉だけが、確かに耳に残っていた。


 


翌朝、目覚ましの音が鳴るより早く、由奈は目を覚ました。


 まぶたを閉じたまま、夢の余韻に耳を澄ます。あの声、あの言葉。けれど、思い出そうとすればするほど霧のように薄れていく。


 ──やっと、会えた。


 誰の言葉だったのだろう。


 見えなかった顔。名前も思い出せない。ただ、その声だけが、胸の奥に残っていた。初めて聞くはずなのに、懐かしくて、温かくて、少しだけ、泣きたくなった。


 


 ***


 


 職場では、今日も通常運転だった。


 コピー機の紙詰まりを直し、午前の打ち合わせに同席し、メールをさばく。だけどどこか、心が上の空だった。


 レコードの音。逆再生された旋律。あれを聴いたとき、自分の中の“何か”が目覚めたような気がした。


 ふと、スマートフォンのメモ帳を開くと、見覚えのない文章が残っていた。


 >「雨の中、きみを見つけた。それだけで、世界が止まった気がした。」


 ──いつ、こんなものを?


 書いた覚えがない。けれど、どこかで確かに“思った”気がする。言葉の温度や語感が、自分の心の中とぴたりと重なっていた。


 その瞬間、頭の奥でなにかが“ひっかかる”ような感覚があった。


 


 ***


 


 帰宅途中、電車を降りてから駅前のロータリーを歩く途中で、また雨が降ってきた。傘を開きながら足早にアーケードへと入ると、ふいに、背後で誰かの声が聞こえた。


 「七瀬さん?」


 振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。


 背は高く、黒い傘をさしていた。落ち着いた目元に、どこか物憂げな気配をまとっている。けれど、由奈の記憶にはない顔だった。


 「……ごめんなさい。どなた、でしたか?」


 彼は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに微笑んだ。


 「失礼しました。……人違い、だったかもしれません」


 頭を下げて、傘の下の暗がりへと戻っていった。


 その後ろ姿を、由奈はなぜか目で追いかけていた。心の奥にひっかかる、懐かしさのようなもの。それが、名前のないまま、胸に沈んでいった。


 


 ***


 


 家に帰ってシャワーを浴びたあと、レコードショップでもらったフライヤーが机の上にあるのを見つけた。


 《月に一度だけ、“逆再生”の夜。》


 その一文を読んだ瞬間、胸の奥がかすかにざわめいた。


 それは、昨日の涙の理由と、今日の夢と、そして駅前で出会った彼の瞳――すべてが一本の糸でつながっているような、不思議な感覚だった。


 


 その夜、また夢を見た。


 逆再生される音楽の中、誰かが小さなオルゴールを回している。


 やがて、声が聞こえた。


 ──「きみが、ぼくを忘れてしまう前に」


 目覚めたとき、枕が少し濡れていた。



土曜日。久しぶりに予定のない休日。


 朝から降り続く雨は、薄く白いカーテンを濡らしていた。由奈はマグカップを片手に、ベランダ越しの空を見上げる。どこかで聞いた気がする雨音。どこかで感じたことのある孤独。


 「……なんなんだろう、これ」


 最近、ずっとこの“違和感”が消えない。


 日常は続いている。仕事も生活も特に問題はない。だけど、自分の中のどこかがぽっかりと空いたまま、うまく息ができていない気がするのだ。


 まるで何かを“忘れてしまった”ような。


 それは、大切なもの。心にしっかりと根を張っていたはずの感情――


 


 スマートフォンのカメラロールを何気なくスクロールしていると、1枚の写真が目に留まった。


 それは見覚えのない公園の風景だった。ベンチが一つ、雨に濡れている。背景には、桜の木と、小さなブランコ。


 撮った記憶がない。


 場所もわからない。でも、なぜか涙がにじみそうになる。


 その風景には、懐かしい空気があった。まるで、かつてそこに“誰か”と一緒にいたかのような。


 


 そのとき、ふいに耳鳴りがした。シャーッという音が、脳内で反響する。


 ……ちがう、それは音楽だ。逆回転する音楽のような――レコードを逆再生したときのあの音。


 頭を抱えた瞬間、視界がふらつき、椅子に手をついて体を支えた。


 何かがこぼれ落ちていく感覚。忘れていた記憶が、微かにこっちを見ているような。


 名前。声。雨の日の傘。

 けれど、それはまだ“影”のまま形を持たなかった。


 


 夕方になっても、心のざわつきは収まらなかった。


 気づけば、あの日訪れたレコード屋へと足を運んでいた。呼ばれるように。何かを確かめるように。


 店内には静かに、古いクラシック音楽が流れていた。


 あのときとは違う曲。けれど、それでも涙が出そうになる。


 誰かがそっと、手を伸ばしてくれていたような。

 誰かが、そこにいてくれた気がするような。


 


「探してるんですか?」


 不意に声をかけられ、振り返ると、店の奥から女性店員がこちらを見ていた。


「いえ……なんとなく、また来たくなって」


 そう答えながら、自分でも理由がわからなかった。ただ、ここに来なければいけない気がした。


 「音、気になりますよね。時々、“逆再生の夜”って名前で流してるんです。レコードって、順番を変えると、まるで違う物語になるんですよ」


 違う物語。


 その言葉が、由奈の胸の奥に何かを落とした。


 


 帰り道、夜風に吹かれながら歩いていると、またあの感覚が襲ってくる。


 視界の隅に、誰かの姿が見えた気がした。


 だけど、振り返っても誰もいない。


 ただ、雨の匂いだけが、少しだけ懐かしくて――


 


 


 ──記憶の奥底で、誰かが、こちらを見つめていた。


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