プロローグ『再生の音』
雨が降っていた。
細く、静かに。屋根を叩くその音は、古びたレコードのノイズのように途切れ途切れで、彼の鼓膜を柔らかく揺らしていた。
室内は薄暗かった。
灯りはすべて落とされ、唯一、機材の動作ランプがぼんやりと青白く灯っている。彼はその前に静かに座り、深く息を吐いた。
蒼 颯真――
その名を、いま呼ぶ者はほとんどいない。彼は研究室で独り、時間と記憶の境界を越える装置と向き合っていた。
「記憶が、もし過去に戻れるとしたら……君に会えるんじゃないかって、思ったんだ」
言葉は独り言のように、あるいは遠くにいる誰かに向けた祈りのように、静かにこぼれ落ちた。
頬に触れた涙の理由は、自分でももうよくわからなかった。
けれど、その涙の温度だけが、確かに彼をこの部屋に繋ぎ止めていた。
機材の中央に、古びたレコードが置かれていた。
それはかつて、彼女と共に聴いたものだった。
擦り切れたジャケット、かすかに焼けた盤面――過去がそのまま、形になったようなそれを、そっと針にかける。
ゆっくりと、逆回転が始まる。
――カタリ。
針が音を拾う。
やがてスピーカーから、逆再生された旋律が滲むように溢れた。
ギターの音が後ろ向きに流れ、ボーカルの声は意味を成さない音になってゆく。
なのに不思議と、彼の胸の奥はざわめいた。懐かしい。けれど、すでに触れられない何か――
「君を、忘れさせたくなかった」
彼は静かに目を閉じる。
そして、逆再生装置のスイッチに手をかけた。
パチッ――
低い電子音とともに、すべての音が反転する。
雨音すらも巻き戻るように、静寂が満ちていく。
世界がゆっくりと、巻き戻っていく。
意識の深部へと、ゆっくりと彼の記憶が沈んでいった。
それは、
ひとりの男が過去に触れ、
もう一度、彼女に出会おうとする物語の始まり。
けれど、彼はまだ知らなかった。
それが「再会」ではなく、「出会い直し」の旅になることを――