夜がふたりを許すまで(Leticia and Rino)
その街には、空と海の間に境界線があった。晴れた日にはなおさら、両者の青は鮮やかで、そして、決して交わらなかった。
波打ち際に、白いレースの帽子の縁を指でいじりながら歩く、少女の姿があった。その陰から覗かせる表情には、十一歳のものとは思えない憂いと、確かな美しさがある。豊かな黒髪に、はっとするほどの碧眼。少女の容姿を構成する全てが、年齢以上の落ち着きを形作っていた。
この古い港町は、父方の祖父の故郷も近い。地中海のほとりにある保養地には移住者も旅行者も多く、余所者であっても目立たない。
母国に友達はいなかった。ここでも、友達はできないだろう。ーー自分の家は、普通じゃないからだ。
父・ヴィートは額当てをしている。自動車事故のせいだと聞かされているけれど、レティシアはその話を信じていなかった。ただの銀行員などではないと、もっと小さい頃から思っている。
「あの人はね、口と書類で人を動かすのよ」
ダンスホールの喧騒の中、グラスを揺らしながら、母は仲間のダンサー連中にそう言っていた。銃も殴り合いも、時代遅れだから、と。
「あの人のおかげでこれが飲めてるけど、近々、どっかに引っ込んだ方が良さそうって思ってるの」
母・コレットは、ブロンドと碧眼の美しい、金と自由を選んだフラッパー・ガールだ。良家の出身だということを、常々鼻にかけているが、放蕩っぷりに耐えかねた両親に勘当され、ダンサーになった。
上流階級の仮面をかぶっている二人のおかげで、レティシアはきちんとした服を着せられ、テーブルマナーを学ばされ、フランス語で詩を暗唱できるように訓練されていた。でもそのすべてが、両親の生き方と釣り合っていないと思っているし、それが永遠に続くことを考えると、叫び出したいほど息苦しかった。
夜になって、父と母は、近隣の富裕層と船上パーティーへ出かけていった。
レティシアは、メイドのメアリーにおやすみを言うと、大人しく子供部屋に入ったが、少し経ってからそっと屋敷を抜け出し、浜辺へ向かった。
船の汽笛が、夜の入り江に重く響いていた。
その音に、レティシアは立ち止まる。夜の砂浜の冷たい粒が、サンダルの隙間から入り込んできたが、気にもならなかった。パーティーの船は、白く大きくて、まるで夜の海に浮かぶ城のようだった。
しばらく歩いていくと、遠い喧騒と波音の間をぬって、ずずっ、ずずっと鈍い音が聴こえ始めた。
ふと前方の暗闇に目を凝らすと、ボートの横腹が砂を擦っているのだった。
ボートが独りでに陸地で動くはずがない。押しているのは、同い年くらいの少女だった。肩につくくらいの長さのブロンド、白いシャツにドロワーズ、素足。寝巻きのまま外に出てきたのだろう。月の光に照らされたその姿は、まるでどこか別の世界から来たように見えた。
「……手伝おうか?」
レティシアは、気付けば声をかけていた。少女が顔を上げると、少し驚いたように目を丸くし、そして、笑った。
「ありがとう。重たくてさ、波打ち際まで動かしたいんだ」
二人で力を合わせ、ボートを押した。少女は砂を手で払いながら、名を尋ねてきた。
「レティシア。あなたは?」
「……リノ」
「変わった名前ね」
思わず漏らした感想が失礼だったかと反省するより早く、少女は続けた。
「ママがつけたの。男みたいだって言われるけど、気にしてない」
リノはそう言って、また笑った。着ているものも話し方も、どこか風変わりだった。でも、嫌ではなかった。むしろ、目が離せなかった。
「お礼に、沖まで乗せてあげるよ。行ってみたいんでしょ?」
パドルを交代で握りながら、二人は波の上を進んだ。遠くに光の点がゆっくりと動いている。
「あの船に、ママが乗ってる」
リノが言った。
「ママは毎晩、ああして遠くに行くの」
「わたしの両親もよ……」
レティシアが同調すると、リノははっと息を呑んだ。
「じゃあ、わたしたち、同じだね」
「……友達に、なってくれる?」
自分で自分の言葉に驚いたが、レティシアは、いたって自然に依頼した。口の上手い父に、初めて感謝すらした。
少しの沈黙のあと、リノは頷いた。
「じゃあ、明日も会おう。もっと遠くへ行こう。あの岬の向こうに、不思議な岩屋があるの。秘密基地にしよう。役に立ちそうなものを持ってきて」
レティシアは当然請け合った。心がふわりと軽くなった。青い夜の上を、ボートはゆっくり、岸へと戻っていった。
翌朝、レティシアは早くに目を覚ました。けれど、両親の目を盗んで荷造りを終える頃には、昼をとっくに過ぎていた。重たくて大きな鞄には、毛布と食器、蝋燭、母の鏡台から拝借した懐中鏡と香水瓶まで入っていた。
父と母は商談に出かけていた。家中の掃除、洗濯に勤しむメアリーの目をすり抜け、裏門から駆け出す。昨日の浜辺へと続く小道は、風が吹いていた。
遅くなったので、待っていないかと心配だったが、リノはちゃんと、昨日の場所にいた。
彼女も大荷物だった。錆びた缶詰、打ち捨てられた工具、ロープに布団に、壊れかけのランタン。
「遅かったね」
リノは笑って言った。
「ごめんなさい」
「謝るなら、背負って」
二人で荷物を積み、ボートを出す。向かうのは岬の先、不思議な岩屋。街からは見えない、小さな入り江の奥にある秘密の場所だという。
風が強まっていた。潮の匂いが鼻を刺す。日は徐々に傾き、空は金色に染まりはじめる。
「ねえリノ、あの光、灯台よね?」
「うん。今日は人が多いな……」
船が行き交っている。灯台の明かりが、いつもより強く揺れていた。
唐突に、レティシアは悟った。
「……わたしたち、探されてる?」
「かもね。でも見つからない。ちゃんと隠すから」
リノはきりりとした表情で言った。
潮の流れが急に強まる。レティシアは漕ぐ手を止め、目を細めた。
「リノ、でも、これ……帰ったほうがいいんじゃない?」
「もう、じきに夜だ。戻るより進んだ方が近い」
リノの声が、低く鋭くなっていた。その声音に、レティシアは一瞬、言葉を失った。
波がボートの片側を叩きつけ、ぎしりと音を立てた。レティシアが叫ぶより早く、リノは身を乗り出して、転げ落ちかけたところを、すんでのところで引っ張ってくれた。
「バランス取って! こっちに体重かけて!」
レティシアはリノの言葉に従って必死に動いた。飛沫が顔を打ち、視界がにじむ。
ーーもう駄目かもしれない。そんな考えが頭をかすめたとき、リノがレティシアの肩をぐっと掴み、低い声で言った。
「大丈夫。絶対に沈ませないから」
その目の真剣さ、力強さに、レティシアは気圧されたように頷いていた。
波が牙をむき、ボートは常に、転覆寸前だった。荷物は濡れ、声はかき消された。
それでも二人は、たどり着いた。岩に穿たれた洞穴、波がくぐると歌うように響く不思議な岩屋だ。
二人でランタンを灯し、リノの指示で、ボートを外から見えない岩陰へ隠した。
「ここが、わたしたちの秘密基地だよ」
リノはそう言って、岩の壁に布をかけ、持ってきた荷物を並べはじめた。
外はすっかり夜だった。空と海の境は、夜になると溶けてなくなる。
二人は岩床の上に毛布を敷き、倒れこむと、泥のように眠った。
光が、岩屋の天井に穿たれた小さな穴から差し込んでいた。ーーなんとか、生きて朝を迎えたのだ。
明るくなって周囲を確認すると、ここは、波が削った崖の下で、奥行きのある空間は、外からは想像できないほど広く、天井は高く、ところどころに窓のような穴が穿たれていた。そこから差し込む光が、静かに濡れた石壁を照らし、青く沈む海の反射が内壁にゆらゆらと踊っている。
「海と空……同じ青に見えるのに、交わらないんだね」
リノが言った。
「……どうして?」
レティシアは、リノの言葉の裏に何かを察知して問うた。リノは答えず、膝を抱えて座っていたが、しばらくして、くしゃみを一つすると、呟くように言った。
「忘れかけてたけど、風邪を引きそうだ」
たしかに岩屋は、冷えた空気に満ちていた。
レティシアが火をおこそうと身を屈めると、リノも手を伸ばして手伝った。捲り上げた袖から出ているのは、レティシアよりはるかに筋張った腕だった。
濡れた服が身体に張り付き、骨ばった肩が透けている。ーーそれに、平らな胸、すらりとした背中……少女のそれとは違う、でもどこか繊細な線をしている。
「……リノ?」
呼びかけると、リノは一瞬、動きを止めた。
「あなた、本当は……」
「本当は、ぼく、レティシアと同じじゃないんだ」
リノは観念したように言った。
海の波音が間に滑り込む。レティシアは言葉が出なかった。ただ、頭の奥で、いくつもの細かな違和感が、次々と繋がっていった。
「……ずっと、そうしてたの?」
「うん。ママはね、ぼくらを捨てたパパみたいな人が嫌いなんだ。パパに似てるぼくのことも……だから、女の子みたいにしてたら、少しは見捨てないでいてくれるかもしれないって思うから」
リノの声は、まるで潮風にさらされた貝殻のように、乾いた響きがした。
「ーー君が、友達になってって言った時、本当は怖かったんだ」
レティシアは、焚き火の火を見つめながら、ゆっくりと手を伸ばした。指先が、リノの肩にそっと触れる。
リノは小さく微笑んだ。岩屋の高窓から射し込む朝の光が、二人の影を青く照らしていた。
「……お母さん、好きなんだね」
レティシアは、それを羨ましいと思った。ママが好き、そう言えるリノが。
二人は、秘密基地に籠りながら、小さな暮らしを続けた。缶詰を分け合い、貝を拾い、波の音を聞いた。
けれど、それは長くは続かなかった。
それは、月も雲に隠れた静かな夜だった。
岩屋の奥で、レティシアとリノは、小さなランタンの明かりを囲みながら、パンの切れ端と、温めたスープを分け合っていた。窓のような岩の隙間からは、遠く灯台の明かりがちらちらと見える。外の風はすっかり冷たくなっていたが、毛布にくるまった二人の間には、小さな火種のような安心があった。
レティシアがうとうとしかけたそのときだった。
微かな、しかし確かな気配が、岩屋の外に近付いてくる。リノがすぐさま立ち上がり、ランタンの火をぱっと消した。
「しっ、誰か来る……!」
レティシアの背筋に冷たいものが走った。
「リノ、隠れよう……!」
だが間に合わなかった。岩の影から男が現れた。帽子を目深にかぶり、無精髭を生やした若い男だ。暗がりでも、その目が笑っていないことがはっきりと分かる。
「よう、嬢ちゃんたち。ピクニックか?」
男の声は低く湿っていた。リノがレティシアの前に立ちふさがる。
「どうしてここが……」
「お前のママが心配しててな。そろそろ帰って来いってさ」
男の背後に、細い女の影が浮かび上がった。リノの母親だった。化粧の濃い女だ。夜会用のショールを羽織り、煙草を吹かしている。
「品のいい顔をしてるな、お嬢ちゃん。親御さんは、さぞかし心配してるだろうよ」
男はにやりと笑って、リノを見下ろした。
「少しは見込みがあるじゃねぇか、俺たちの会話を聞いてたな?」
「リノ……どういうこと?」
レティシアが問うが、リノは答えなかった。唇を固く結び、ただ母を見つめていた。
その母が、無言のままかすかに頷いた。ーーまるで、何かを了承したかのように。
「さあ、行こうか。お嬢ちゃんがいるだけで、大金が動くんだ」
レティシアの腕を乱暴に掴んだその瞬間、リノが叫んだ。
「やめて! レティシアに手を出すな!」
男がリノを睨みつける。だが、レティシアはその時、リノの叫びの中に、震えるような後悔と、どうしようもない必死さを聞いた。
「……まさか、リノ、あなたが……」
リノの表情が崩れた。
レティシアは、何も言い返せなかった。ただ、悔しさに任せて唇を噛み、顔を伏せた。
壁のしみが、濡れた獣の皮のように見えた。
地下室は湿っていた。照明は裸電球ひとつだけで、ぶら下がったコードが、かすかに揺れている。コンクリートの床に敷かれた毛布の上に、レティシアは膝を抱えて座っていた。
向かいの壁にも、同じようにリノが座っていた。男に刃向かった折檻だそうだ。
しばらく、ふたりとも黙っていた。湿気と黴のにおいの中で、ただ相手の息づかいだけが、沈黙の底を撫でていく。
「……ごめん」
先に口を開いたのはリノだった。
レティシアは返事をしなかった。ただ、まっすぐにリノを見た。胸の奥には、怒りも呆れもなかった。そこにあったのは、悲しみに似た静けさだった。
天井の上ーー階段の向こうの、上階から、低くくぐもった声が響いてきた。
「ええ、ええ。……娘さんは無事です。ただ、お父さまが……取引に応じてくれないと、ね」
男の声だった。リノの母の愛人。ぬめった舌が電話口に貼りついているような、湿った響きだった。
「150万リラーー小銭だろ? そんなもの、毎晩のパーティーで吹き飛んでる」
レティシアは睫毛を震わせた。現実が、ようやく身に沁みてくる。
「リノ……あなた、知ってたの?」
低く、静かに。レティシアは問いただした。こういう時の口調が、自然と、父に似ていると思いながら。
リノは目を伏せた。
「最初は、逃げようって思ってたんだ。ほんとに。あの岩屋で、二人で暮らせるって……」
彼は言葉を詰まらせた。
「ママたちが冗談で言ってたんだ。君が越してきたとき、『ああいう娘を誘拐でもすれば、身代金が手に入るかも』って。まさか、それが本当になるなんて……」
レティシアは一瞬、目を閉じた。
「馬鹿だわね、リノのママも。わたしのパパはアメリカで人生二、三周分の財産を作ったのよ」
上の階ではまだ、電話のやりとりが続いている。
「現金で。銀行口座じゃない。……娘は、無事に返すさ」
嘘だ。そんなこと、ギャングの娘だから、分かっている。
あの男は、金を取ったらレティシアを“処理”するつもりだろう。ーーこの窮地を乗り越えるにはどうすべきか、レティシアは一生懸命考えた。
沈黙が落ちた。
それは重く、痛いほどの沈黙だった。地下の空気すら動きを止め、世界がその言葉の中でひび割れていくのを待っていた。
リノが、震える唇で絞り出した。
「……ママに、褒めてほしかったんだ。ずっと」
天井から、くぐもった声がした。
「……で、誰が金を受け取りに行くんだ?」
「あんたワルなんでしょう、あたしにそんなことさせないわよねぇ?」
レティシアはそっと、口を開いた。
「ーーねえ、リノ」
ゆっくり顔を上げ、少年を見据える。
「“本当に”二人でやっていく気があるなら、チャンスをあげる」
レティシアは、膝を抱えたリノの腕を強く引いた。
「リノ、よく聞いて」
リノは驚いた顔でレティシアを見つめていた。
「全部、あなたが仕組んだ“ごっこ遊び”ってことにさせるのよ。あなたが、あの馬鹿な二人を納得させて」
リノは唇を噛みしめた。首を振ろうとしたが、レティシアは遮って続けた。
「それで、お金はあなたが受け取りに行くの。失敗しても、子供のしたことって済まされる。……でもそれだけじゃだめ」
レティシアはリノの肩を掴み、声を潜めながらも強く言った。
「わたしのパパとママに、こう言って。『自分を人質に、レティシアと交換してほしい』って」
「ーーなに言ってるのさ……」
「お願い。これはもう、“ごっこ遊び”じゃないの。でもあなたなら、できる」
リノは視線を逸らした。しばらくの沈黙の後、レティシアは彼の手を取って、微笑んだ。
「ママがちゃんとリノを愛しているか試せるわよ? わたしのパパなら、人質交換に乗るわ。ーーあの馬鹿な男は、わたしを殺すかもしれないけれど、その前に、あの男が死ぬでしょうね」
コツコツ鳴くヒールの音ーー誰かがドアノブを回した。
「出てきな」
リノの母は、気怠そうに呼びかける。ーーレティシアを一応は縄で縛ったが、所詮は、物慣れない女の手業だった。
一階に上がると、額当てをした父がいた。その手でリノの口元を塞ぎ、後頭部に拳銃を突き付けている。目だけが、レティシアを見ていた。見たことのない色を浮かべたその瞳が、心に焼き付いた。
「人質交換だ」
父はこともな気に言った。完全に、相手を見くびっている。ーーそれはそうだろう。素人相手に、元ギャングが怯むはずもない。冷えた声だった。
しかし、リノの母は笑った。乾いた、狂ったような笑いだった。
「そんなガキいらないわよ。役に立たない、裏切り者の出来損ない」
「さあ、金だけ渡せ。坊やは、いずれここで骨になる」
男も吐き捨てるように言った。
男がレティシアの腕を掴んだ。
と、その瞬間、父が銃を抜き、撃った。ーー銃声。だが、それと同時に、男も引き金を引いた。
レティシアは、本能でその手を掴んだ。渾身の力で、男の手ごと、銃口を父に向けて……。
二発目の銃声が、木造の小屋を震わせた。
父が膝から崩れ落ち、男も一瞬遅れて、どさりと倒れた。銃弾はそれぞれの身体に吸い込まれた。
レティシアはしばらく、何も聞こえなかった。世界が無音になった。
「……ルシアァーン!」
リノの母が叫んだ。金切り声とともに、男の遺体に縋りつく。彼女の指は血に染まり、頬にすがるように触れていた。
レティシアはその姿を見つめながら、ゆっくりと、男の手から拳銃を引き抜いた。
手が震えた。けれど、心は決して揺れなかった。
彼女は、リノの母に銃口を向けた。
女が崩れ落ちた。赤黒い血が、冷たい床に広がった。
しん……と、静寂が戻る。硝煙の匂いと、死の気配だけが残る小屋で、レティシアは床に膝をつき、拳銃を手放した。
リノはただ、呆然とこちらを見ていた。
「ごめんね、リノ」
自分自身の声が、やけに静かだと思った。泣いているような、笑っているようなーーその境界線は、夜霧のように曖昧だった。
小屋を抜け出した二人は、風の残る夜明けの海沿いを歩いた。靴の裏には濡れた砂、空にはまだ眠れぬ星が一つ、残っていた。
「空と海は、同じ青に見えるけど……」
レティシアは呟いた。
「たしかに、交わらない。でも、空が泣けば海がそれを受け止めて、空は、海が孤独じゃないように、鏡になって、ずっと抱きしめているように思えるの」
そんな言葉では、リノの心の傷を癒すことはできないと分かっていた。
「リノ、あの人たちは相討ちで死んだの。ーーあなたは、一度はわたしを売ろうとしてた。だから、わたしの要求を飲んで一緒に行かなきゃならないわ」
友達になるのよ、とレティシアは付け加えた。
「ーーぼくが、男の子でも?」
リノは涙でぐちゃぐちゃの顔を上げた。
「嘘つきのぼくを、レティシアは信じられる?」
「空と海の境は、夜になると溶けてなくなるわ」
レティシアは有無を言わせなかった。父に似て、交渉は得意だった。
港の朝は早い。だが、今朝の静けさは格別だった。遠くの波止場で魚を運ぶ音がしても、列車の汽笛が鳴っても、この街角には届かない。
青年は、煙草の火を指の先で潰しながら、路地裏の扉に目を遣った。
音もなく開いた扉から、黒髪に碧眼の美しい娘が滑り出てきた。片手には、薄汚れた古いトランク。もう一方の手には、茶封筒をひらひらさせている。
「取ってきたのか?」
青年の声に、娘は頷いた。
「イレーネ・ソール。1922年、アドリア海沿岸にて戦災孤児として発見。出所は不明だが、証言者がいる」
青年は読み上げ、ページの端を指先でなぞった。ははっ、傑作だな、と笑う。
「もう、君は誰にも見つからないな」
娘は、静かにトランクの取っ手を握りしめた。
「ねえ、リノ」
娘が呼びかけると、青年はよしてくれよ、と言った。
「ぼくはジュード・ベレットだよ」
じゃあ、とイレーネは仕切り直した。
「ねえ、ジュード。わたしたち、これで、本当にいなくなったわね」
怖いものなんて、ないわ。と声に出す。
二人は歩き出した。
水平線の彼方、空と海の青は、やはり交わることはなかった。でも、その隙間を、二人の影がすり抜けていった。
誰にも知られることのない、新しい朝が始まった。