再起の名を告げ
裂けた闇が閉じると同時に、湿った静寂が残った。
ツバキ・リンドウは膝をついたまま、拳を土に押しつけている。
肩口で跳ねる呼吸のたび、甲冑の留め金がかすかに鳴った。
「……ツバキ」
蒼——Aou——はそっと名を呼んだ。
返事はない。ただ、剣士の背に乗った震えが、わずかにおさまっていく。
UIウインドウを閉じると、視界の隅にメッセージが浮かんでいた。
Ver. 3.21.0 緊急パッチ《データ整合クリーンアップ》
適用まで:01:00:00
対象:認可外オブジェクト/不明IDプレイヤー・NPC
——この領域に存在する全てを、例外なく削除します。
——それは、“ゲームの終了”じゃない。
ツバキという存在が、消えるかもしれないという意味だった。
蒼は腰の《守護晶石〈ガーディア・クリスタル〉》を手に取った。
石はまだ淡く鼓動しており、かろうじてツバキのデータを記録している。
けれど、それも——あと1時間。
「……お主、泣いてはおらぬな」
おもむろに、ツバキが立ち上がった。
その表情に迷いはなく、ただ静かな決意だけが宿っていた。
「……わしは、消えるかもしれぬ。
されど、それを惜しむほど、弱くもない」
剣の柄を握り直し、蒼へ振り返る。
「影を斬り、姫様を弔う。それが、わしの“名”じゃ。
わしが、ここに在った証よ」
蒼は何かを言いかけたが、唇を閉じた。
代わりに、小さく息を吸い込む。
——たった1時間で、全てを終わらせなきゃならない。
彼女が、彼女のままで在るうちに。
「……じゃあ、俺のジョブは裏エンジニア。
ログ掃除より速く、バグの巣を踏破する。
1時間で終わらせる。全部。」
「……一時間……?」
ツバキは、時間そのものではなく、蒼の目を見ていた。
その先に何を賭けているのか、読み取ろうとするかのように。
そして、静かに頷く。
「よい。お主の“仕事”を信じよう。
その間、わしは剣を磨く」
ツバキは岩壁の湧き水で剣を洗い、刃を静かに拭っていた。
その背には、もう迷いがなかった。
蒼はその姿を背に、ログウインドウを開き、静かに分析を開始する。
【緊急告知】《認可外プレイヤーに関するデータ干渉ログ》
影響元:未定義個体(ID:BAKU_Ω-01)
状況:外部オブジェクトとの強制結合/形式整合エラー進行中
ID:BAKU_Ω-01。
あの《獏》——霧夢の都市に配置された、ボス個体。
そして、“影”——名を喰らう異端の存在。
……あいつは、ツバキを捕らえていた。
なのに、喰らわなかった。
「……違う。食べられなかったんだ」
《獏》は、この世界における“確定された存在”だ。
だが、《影》は“不定形の喰らう者”。
両者が融合した今、そこには明確なデータ矛盾がある。
蒼は確信する——それこそが、唯一の“穴”だ。
「未定義な存在を、無理に取り込めば、処理が破綻する。
……毒だよ、あいつにとって」
ツバキが生き延びたのは偶然じゃない。
“喰えなかった”んだ。定義が曖昧で、矛盾を孕んでいたから。
ならば——
「喰えないものを、喰わせてやる。
こっちから、“毒”をぶつけに行こう」
蒼の指が、システムチャットの裏口を叩く。
その先には、まだ見ぬ異端の者たちが待っている。
「準備は……整いつつある。
この1時間で、終わらせる」