高校時代の後輩のユーレイに28年間守ってきた童貞を捧げた話
ガタンゴトンと電車が走る。
扉のガラスに押し付けられながら、ぼ~と流れていく景色を見てる。
あ~、今日も終わった終わった。早く帰りてえなあ。あと、何駅だよ。
なんて思いながら。
満員電車ももう慣れたもので、壁に押し付けられても、手すりに押し付けられても、おっさんに押し付けられても、ぼけらっとしてストレスを流せるようになった。
ああ、駅に着いてから、歩くのダリィなあ。どっか、寄ってくか? でも、早く帰りてえなあ。
まあ、別にね。早く帰ったからって、なにかすることがあるわけじゃない。
ビール飲みながら、ネットやるか、ゲームやるか、なんか動画見るか。そんなもんだし。
メシどうすっかなあ。なんか作るかなあ。袋ラーメンまだ、あったっけか?
そんなことを考えていたら、ものすごく、唐突に、そう、チャキーンとなにかが閃くように、彼女が欲しいと思った。すごく、切実に、切羽詰まった感じで。
はあ、ストレス溜まってるのかな。
毎日二時間程度の残業で帰れるわけだし。土日もしっかり休めるわけだし。まあ、そんなに仕事もきつくないし。ストレスっていえば、ちょっと後輩にイライラするくらいだ。
どうってことはない。
だけど、そう、あれだ。虚しさだ、これは。満たされない何かを抱えているんだ、俺は。
ああ、彼女欲しい。あと二年で、三十だぜ、おい。童貞だぞ、まだ。どうなってんだ。
彼女欲しい、まだ童貞、これヤバいじゃない。という流れで、ああ、どうしよう、どうしよう、とか一人で焦っていたら、いつのまにか電車が空いてきた。
そんで、風俗に行くべきか行かざるべきか、それが問題だ、みたいに悩んでたら、最寄り駅についた。
電車を出ると、「はあ、今日も終わった。もう、俺、超自由だ」みたいな解放感で、焦燥感が吹っ飛んだ。
こうやって、童貞のまま歳をとってきたんだな、俺は。マジ、やばいね。
途中、コンビニに寄って焼肉弁当とビールを買った。なんか、もう袋ラーメンも作るのダルくなっちゃった。
アパートの外階段をのったりのったり上ったら、なんか女子高生が目に入った。二階通路の天井の蛍光灯の下、俺の部屋のドアを見てる。
ボタンを止めてない紺色のブレザー。膝上二十センチくらいのタータンチェックのプリーツスカート。ついでに下に着たシャツはインしてない。襟の青いリボンは緩めに結んでる。
肩の高さの金色に近いような茶髪を、指先でいじいじしながら立ってる。
あそこ、俺の部屋だよな。隣じゃないよな。絶対俺の部屋だよな。
なにあの女子高生。えっ、コスプレしたデリヘルとかいうやつのお姉さん? いや、そもそも、そんなもん頼んでねえよ、まだ。
ああ、ひょっとしたら、隣部屋と待ちがえてるのかもしれんぞ。隣が頼んだデリヘルのお姉さんだ。きっとそうだ。
とにかく、ドアの前に女子高生がらしき存在があろうが、帰宅するという当然の権利を行使させてもらう。
なにしろ、そこは俺の部屋だからな。
カツンカツンとわざと足音を大きくたてて、廊下を進む。
女子高生らしき者が、ビクっとして、こちらを向いた。
大きな目を彩る重そうなつけまつげ。ピンク色のリップ。細い眉毛。
うん、ギャルだ。
コスプレだったら、超クオリティたけぇな。
その女子高生のギャルっぽい生き物は、俺を見ると、なんか照れくさそうな、だけど嬉しそうな、というかひと言でいうとキラキラしたエモい顏になった。唇を開きかけ、なにか言いたそう。
ああ、これは、あれだ。
やっとお客さんが来た。マジ、困るんだけど、呼んどいて不在とか。
なんて感じ……じゃねえな、全然。
近づくと、もうはっきり分かった。彼女、本物だわ。コスプレとかじゃない、本物の女子高生だわ。だって、どう見ても、十代中ごろだもん。
えっ、パパ活とか、そういうやつ? 未成年相手に犯罪じゃね。
いや、単に隣部屋のおっさんの親戚とかかもしれんけど。会ったことのない親戚の部屋に泊めてもらいに来た、とか?
それで、俺をそのおっさんと勘違いしてるみたいな。
あれえ、でも隣のおっさん四十過ぎだぞ。俺、そんな老けてるか。老けてるかもしれんな。
女子高生は結局、俺が近づくまで何も言わなかった。俺を上目づかいで見ている。その目が潤んでいるせいで、なんだかものすごく居心地が悪い。
「どうしたの? そこ俺の部屋なんだけど。隣と間違えてるんじゃない?」
「あの、森長良先輩……ですよね」
あっ、人違いじゃねえや。俺の苗字だもん、それ。
それにしても会社のクソ後輩に呼ばれるのと、ぜんぜん違うなあ。
「そうだけど。君、誰?」
言いながらも警戒心はマックスだ。
人間違いじゃないなら、詐欺とか、なにかの勧誘とか、そういうんじゃなかろうか。
少なくとも女子高生の後輩など、俺にはいない。
「えっ、覚えてないんですか? 私ですよ。私」
なんだ、私私詐欺か?
ていうか、そのめちゃくちゃションボリした顏やめて。この子、演技派過ぎない?
いかん、彼女の演技に引き込まれるな。都会暮らしももう十年だ。そう簡単にカモられはしないぜ。
「マジ、覚えてないとか。泣けるけど」
実際にポロっと涙が流れた。
おい、演技派過ぎるだろ。どんだけ本格的なレッスンしてきてんだ。それともあれか、女優志望なのか。
とにかく、関わっちゃダメだ。
鞄から鍵を出すと、とっとと開けて、部屋に入った。拒絶をはっきりと示すために、強めにドアを締める。
「あの、私、真希菜。楠真希菜です」
ドア越しに聞こえた涙声。
暗闇の中、俺の記憶が、さっとフラッシュバックした。
楠真希菜。
―――森長良先輩。
そう、呼ぶ彼女の姿が……。
◇
十年前。高校三年生。
俺は放課後、文芸部の狭い部室に通っていた。古びた部室棟の端っこ。隣は漫研で不定期に活動しているもんだから静かで、図書室なんかよりずっと時間つぶしに向いていた。
もともと、文芸部に入ったのも時間つぶしのためだった。
母親の勤め先が近くだったから、帰りは送ってもらうためだ。電車代もったないもんね。
文芸部の活動なんてほとんどなかった。というか、三年間、ほぼなにもやってないな。一応、先輩もいたけど、本を読んでるか、受験勉強してるかだった。
なんか、ボッチのはきだめみたいな場所だったな。
で、先輩が卒業した後は、俺一人。プライベートルームみたいで、超快適。
勉強は家に帰ったらやるとして、三年に上がったばっかの時期は、もっぱら本を読んでた。
彼女、楠真希菜が俺のプライベートルームを侵略したのは、ゴールデンウィークが終わって、数日経ってのことだった。
その日も、ホームルームが終わるといつも通り、とっとと教室を去り(友達いなかったしな)、学校のはしっこに建ってる平屋の部室棟に行った。
こう、薄暗くて、かび臭くてさ。
なんていうか、不要な文科系部活を追い出そうという意志を感じてしまう窓際感の漂った場所。
どん詰まりに、俺の部屋と化した文芸部があるわけだが、なんか、そのドアの前に人が立っているのが見えた。
女子である。
十七年間、彼女のいたことがなく、女友達もろくにいたことのない。女子ってだけで、なんか妙な圧力を感じてしまう。
えっ、なに、あの人。そこ、俺の部屋なんだけど。漫研なら隣ですよ。
そんなことを思いながら、わざと足音を大きくたてて、近づいた。
女子がこっちを向いた。
制服を着崩した女子。ただでさえ苦手な女子の中でも俺がもっとも苦手とする陽キャ的女子。ギャルだった。しかも、かなり可愛くて。
ニコニコした笑顔を向けてくるもんだから、すごいドキドキした。
やめて、そんなに見られたら、挙動不審になるから。
ギャルはなにも言わず、ニコニコ人好きのする笑顔で俺を待っていた。
その前に立った俺は、まあ、話しかけるしかなかった。
「ええと、ここ文芸部だけど。なんか用?」
漫研なら隣ですよ。隣。
「先輩、ここの人ですか?」
限りなく金髪に近い茶髪を指でいじりながら言った。
「そうだけど。君は?」
「とにかく、中に入っていいですか?」
「えっ、うん、ちょっと待って」
なんだよ、間違いじゃないのかよ。ギャルが文芸部に何の用だよ。君、本とか読まないでしょう、絶対。
偏見に満ち溢れながらも、鍵を開けて、ドアを開く。
細長い部屋に白い長机が、ドデンと一個。椅子が適当に置いてあり、壁際には歴代の先輩たちが残していった本がずらり。まあ、一応文芸部ですから。
蛍光灯をつけて、机に鞄を置く。
ギャルが続いた。肩にかけていた鞄をポイっと雑に放った。おかげで、鞄が机をツーと滑って、落ちるギリギリで止まった。
「ここって、毎日やってるんですか?」
ギャルがキョロキョロと部屋を見回しながら言った。
「やってるっていえば、やってるね」
特に活動はしていないがな。
「どっちなんですか?」
目尻の下がった眠そうな垂れ目を向ける。
「俺は毎日来てるけど、別に活動はしてないよ。本読んでるだけ」
「じゃあ、入部しますね」
「えっ、でも、いっとくけど、ここなんの活動もしないよ。部員は俺一人だし」
「すっごく、いいです。私もなんにもしたくないんで」
「俺、あんまりしゃべんないよ」
基本、話すの苦手だからな。ボッチだからな。
「超オッケーです。私もしゃべりたくないんで」
それはそれでなんだか腹が立つな。人の領域に侵略に来て、先住民拒絶とか。
「なんで、よろしくお願いします。ええと……なんとか先輩」
「森長良」
「ちなみにファーストネームは?」」
「告。森長良告」
「じゃ、よろしくです。森長良先輩。私、楠真希菜。一年です」
ファーストネーム聞いた意味あんのか?
◇
俺は、仕方がなく、本当にしぶしぶ、新入部員のギャル楠真希菜を受け入れた。しょうがないよな。入部したいっていうなら。
でもって、当初は、まあ、どうせ、そのうち来なくなってユーレイ部員コースでしょ、とポジティブに考えていたんだが。
なんか知らんが、毎日、来た。
ギャル、毎日、部活に来る。
新入部員のマキナは、かったるそうに放課後部室にやってきて。奥まってる俺の席の対面に座る。
つうか、ちけえよ。席、ほかにあるじゃん。なんで、対面なんだよ。これだから、陽キャは、さあ。
でもって、無言でスマホをいじる。
距離が近いから、なんか、気になるんだよなあ。
スマホ見るなら、ここじゃなくて良くね?
マキナがたてるちょっとした物音でイライラしたり、なんかただよってくる甘い匂いにドキドキしたりして、全然、文字が頭に入ってこない。
全然、集中できねえよ。
まあ、ラノベ読んでるだけなんだけど。
「森長良先輩。いつも、本読んでません?」
「そ、そりゃあ、文芸部だし」
いきなり話しかけられてどもる。
もっと、これから話しかけますよ、みたいな振りしてくれないかな。陰キャはすんなりコミュニケーションモードに入れないんだよ。
「なに読んでるんですか?」
体を傾けて、俺の手にある本の表紙を覗こうとする。
「異世界に、てん? ……チートで……ハーレ……。ちょっと、意地悪しないで見せてくださいよ」
「いや、人に見せるもんじゃないから、こういうの」
「表紙だから人に見せるものじゃないんですかあ?」
「いいから。スマホいじってなさいよ。文芸部の癖に人の読んでる本に関心とか持つなよ」
まあ、そんな会話をしたりしなかったり。
しゃべりたくないと言ってた割には、ときどき話しかけてくる。
あれか、ギャルにしてみれば、ぜんぜんしゃべってない方なのか。
とにかく、マキナは毎日、飽きもせずに来た。スマホをいじったり、ときどき話しかけてきたりするために、部活にやってきた。
「森長良先輩って、ボッチなんですか?」
「……まあ、ボッチといえばボッチだ」
といえば、じゃなくて完全にボッチだけどな。
ていうか、なんで、そんなにさらりと人の急所をついてくるの?
「見かけるといつも一人で歩いてますもんね」
「友達いないからな」
「先輩、話、膨らませられないですもんね」
だから、そういうこと言うなよ。さらっと。なに、煽ってんの、この後輩。
「そっちは、いつも賑やかだな。もう青春まっさかりって感じな」
たまに廊下とかでマキナとすれ違うと、ほぼ必ず陽キャに囲まれてる。ガヤガヤとそれはもう、陽キャ風を切って歩いてる。
楽しそうだね、学校生活。
ははは、とマキナは乾いた笑いをした。
そこに少しだけ、疲れのようなものを感じた。
青春も大変なのかね。
あと、マキナはときどき、おやつをくれた。
「先輩。飴いります?」
「味による」
「メントール」
「いらね。甘いの無いの?」
「ないですね。チョコいります?」
「そういうのはバレンタインに頂戴」
「いいですよ。それまで部室に来てくださいね」
自分で振ってなんだが、クソ照れるだろ、そういう返し。たとえ、義理だとしても。
マキナがなんでこんな、しょうもない時間つぶしをするのか、分かったのは、六月に入ってからだった。
毎日降り続く雨。ただでさえ、ジメジメして陰気な部室棟が、もうキノコとか生えそうなレベルの湿度になって。
それでもマキナは毎日、やってきた。
制服がブレザーから、ベージュのニットベストと半袖シャツに変わって。
ふと、顔を上げると、女子の露わな二の腕とか見えて、ドキッとする。
マキナがスマホをいじりながら、何度目かのため息を吐いた。
なに? これ、疲れてるアピール?
どうしたの? って聞いた方がいいのか?
などと考えている間にも、また来た。
ため息。
「ど、どうしたんだ? ため息ばっかりついて」
自分から話しかけると、未だにどもるのであった。声のトーンも若干高いしさ。
「なんか、最近、疲れちゃって。勉強のし過ぎですかねえ」
「お、すごいな。まだ一年なのに」
「嘘ですよ。そんなわけないじゃないですか。返し、下手すぎません?」
「悪かったな」
知らねえよ、返しとか。なに、ここは陽キャ養成所か?
「カーストってあるじゃないですか」
「あるな。インドに」
「ああ、そういうのいいんで」
なんだよ。さっき返しをひねれみたいな感じで言ってただろうが。
「私のグループ、まあ高いんですよ。カースト」
確かに、ザ・陽キャって感じだった。騒がしかったしな。
「中学の時は、まあまあ、上から三番目くらいの? いい感じの力の抜けたグループで。それでも、なんか疲れちゃうですけど。あんまり、圧力って言うんですか? そういうのがないグループだったんですよ。あっ、分かります、そういうの?」
こいつ、俺を超下に見てるな。
「たぶんな。遊びに行かない、って言われたら、いくいく、みたいに返せって感じだろ」
「まあ、だいたい、そんな感じです。今のグループそれがすごくて」
「アクティブそうな奴らだもんな」
「私、自分でなにかを決めたりって苦手で。人に言われたこと、いつもやっちゃうんですよ。だから、振り回されちゃって」
「楽してるな」
「そうですね。反対するの疲れるんで。流されるのが楽なんですよ」
俺と真逆だな、と思った。
俺なんて、人と合わせるのが苦手で、だから孤立したりするんだが。
「だから、ここ避難場所です」
なんと言えばいいのかわからなかったので、そのまま黙っていた。そうしたら、マキナはずいっと身を乗り出してきた。
襟元からちょい胸元が見えた。チラッとだぞ、チラッと。
「先輩はいいです。なんの圧力もかけてこないし。話さなきゃあって感じでもないし」
「居心地悪いなら、抜けりゃあいいじゃん」
無責任に言ってみた。まあ、他人事だしな。
「ボッチは嫌ですね」
この野郎。喧嘩売ってのか。
「この部屋の空気、好きですよ」
その言葉になんか、妙にドキドキしてしまった。
「かび臭いだけだろ」
照れ隠しにそう言った。
マキナとは連絡先の交換もしなかった。
だから、一学期があと一週間で終わろうって頃。彼女がパタリと部室に来なくなっても、どうしたのか聞くこともできなかった。
まあ、俺のことだから、もし連絡先を知っていても、聞きはしなかったと思うけどさ。
そのまま夏休みになり。長い休みが明けて二学期となり。
そのままマキナは二度と部室へは来なかった。
その後、彼女のある噂を聞いた……。
◇
「思ったより、本が少ないですね」
目の前の女子高生がカラーボックス二つ分の本を眺めて、首を傾げた。
1Kのフローリング部屋。シングルベッドに本棚にしてるカラーボックス。折り畳みのテーブル。
部屋にあるのはそんなもんだ。
その小さなテーブルを挟んで、クッションにペタンと足の内側をつけてWみたいな感じに座ってる女子高生。
本人の名乗ったところでは楠真希菜らしい。あの高校三年の一学期だけの後輩。
実際、彼女は本人に見える。十年も前の記憶でも、さっと蘇ったそれはとても鮮明だった。目の前の女子高生と記憶のマキナは同一人物に思える。
だが、当たり前だが、そんなことはありえないわけだ。十年もの時間は、メイクでどうこうできるものじゃない。
「最近は、もっぱら電子書籍で買ってんだよ。じゃなきゃあ、部屋が本で埋まる」
「そうなんですか。私、本とか買わないから、よく分かんないですけど」
「なんか、飲む?」
「あっ、下さい、下さい。実は喉からカラカラで」
キッチンの冷蔵庫から作り置きの麦茶を出して、洗ってそのまま水切り桶に突っ込んであるグラスをとって、注ぐ。
「ありがとうございます。あっ、先輩はビールなんですね。いいなあ。私にも一口くださいよ」
「未成年に飲ませるわけにいかんだろ」
「私、未成年じゃないですよ」
「鏡見ろ、鏡」
「見ましたよ。先輩待ってるときに。もう、ビックリでした。高校時代の私がいるって」
俺はビールを開けるとグビリとあおった。
なんなの、この状況。飲まなきゃやってられんよ。
「いただきます」と言って、女子高生はえく行儀よく麦茶を飲んだ。
「で、君、なんなの? 楠真希菜の妹かなんか?」
「私、一人っ子ですよ。知らなかったんですか」
ジトっとした目で見られる。
「いや、知らないだろ」
「でも、私、先輩に四つ離れたお姉さんがいるのは知ってますよ」
「えっ、なんで? 怖っ」
「だって、話したじゃないですか。そんなこと。お姉さん頭が良くて、医者を目指してたんですよね」
その通り。なんか、やっぱ詐欺師かなんかじゃないか、こいつ。カモの身辺調査を先にしてあった、とか。
「そんな、胡散臭そうな目で見ないでくれませんか? 先輩の方が挙動不審で胡散臭いですからね。言っときますけど」
だけど、さ。
こういう返しとか、すごい懐かしいんだよ。マキナっぽいんだよ。記憶にある。
「私、ユーレイですよ」
「幽霊は麦茶飲まんだろう。あと、鏡にも映らないんじゃないのか?」
「でも、私、自分が死んだ瞬間覚えてますもん。こう、ブスッとお腹を刺されてですね。痛い、痛いってお腹を押さえて。そうしたら、なんか硬いもので、ガンって頭を殴られたみたいで。血が水たまりみたいになってて、そこに顔をつけたんですよ。それでまた、ガンって頭を叩かれて」
後頭部をナデナデする。
「それで、気が付いたら、ドアの前に立ってたんですよ」
玄関ドアを指さす。
「なにそれ」
いやに生々しい。
「それで、中に入らないとって。先輩に会わないとって。その思いだけがあって。で、肩に鞄背負ってるし、高校時代の制服着てるしで。鏡を見たら、高校生じゃないですか。これ、絶対ユーレイになったんだなあって。納得した感じです」
「えっ、じゃあ、なに、ついさっき殺人事件が起こったってこと?」
いや、にわかに信じられませんて、そんなの。
「どっかで君のヤバい死体が、転がってるってこと?」
ははは、と無理に笑う。いや、笑うしかないだろ。
自称マキナユーレイがキッと眠そうな目を見開いて睨みつけてきた。
「ちょっと不謹慎じゃないですか。私が死んだんですよ。殺されたんですよ。もっと、こう、ないんですか? 可愛そうに、とか、仇は俺が取ってやる、とか」
「じゃあ、まあ、とにかく、俺の文芸部の唯一の後輩だった楠真希菜が死んで、君がその幽霊だったとしよう。じゃあ、なんで、俺のとこに化けて出たわけ? 化けて出るなら、殺した奴のところに出ろよ。俺と君の関係なんて、超薄いじゃん」
実際、俺は存在すら忘れてたわけだしな。
自称マキナユーレイが恨めしそうな顔で俺を見る。幽霊だけにな。
「なんか、ひどいこと言われました」
「いや、だってそうだろ」
「じゃあ、なんで先輩はあんなこと……」
自称マキナユーレイが言葉を詰まらせて、うつむく。
あれ、なんか罪悪感が込み上げてきた。
俺が悪いのか? これ。
超気まずい沈黙。
グビグビっとビールを飲み干す。全然、酔わねえよ、アルコール入ってのか、これ。
「つうかさ。なんで殺されたの? なに、通り魔? 犯人の顔見た?」
不機嫌そうな顔を上げる自称マキナユーレイ。なんか軽蔑の眼差しだ。
「先輩、ホント、デリカシーないですね。殺された張本人にそういうこと聞きます?」
「いや、だって、気になるだろ。普通に。殺されるほどの恨みを買ってたら、ちょっと引くだろ?」
「はっきり言って、殺されてもしょうがないくらい恨まれてたと思います。心当たり、超ありますから」
開き直った感じで言った。
「不倫で家庭崩壊させたり。あと、キャバ嬢してたんで、太客、破産させたり」
うん、引いた。どんびきだ。
同時に、なんか、切なさのようなものが込み上げてきた。こいつ、あの後、そんな風に生きてきたのかよ。
バンって、小さなテーブルが叩かれた。
自称マキナユーレイが掌を打ち付けたのだ。麦茶入りのグラスが揺れて。ビールの空き缶が転がった。
「なんですか、その目。人の人生、勝手に憐れまないでくれませんか? 超むかつくんですけど」
そりゃあ、そうだよな。自分の人生を一生懸命こいつなりに生きてきたんだもんな。
それこそ、憐れむなんて失礼な話だ。
「悪かったよ。君なりに、いろいろ悩んで、選んできたことだもんな。俺が評価するようなことはダメだよな」
すると自称マキナユーレイは泣きそうな顔になった。本当に、もう今にも涙があふれそうな。なんというか、惨めさにうちひしがれてるような。
「選んでなんかないです。私、結局、ずっと流されて。楽に生きてきました。その結果が、これですよ。笑われたって、しょうがないですよね」
あの時、と彼女はつぶやくように言った。
「あの時、ドアを叩いていたら……違ったんでしょうか」
◇
昔、話しませんでしたっけ。うちの母親のこと。私の意見を全然聞いてくれない人なんですよ。
ほかから見たら理解のある優しいお母さんに見えたのかもしれませんけど。
例えば、私がピンクの靴が欲しいって言ったとするじゃないですか。
「あら、お母さんは、白の方がもっともっと似合うと思うな。白にしなさいよ」
だから、私の物は全部、母親の好みだったんですよ。服も靴も、鞄も。玩具も。
父親は無関心でしたね。私にも母にも。家に寝に帰ってくるだけ。お給料は良かったみたいですけど。
それでも、一度、どうしても欲しい玩具があって。ええと、要するにしゃべるぬいぐるみみたいなやつで。超流行ってたんですよ。小学校三年くらいかな。女子はみんな持ってたんです。
だから、私も欲しくて。母に誕生日プレゼントはそれにして欲しいって言ったんです。
「ああ、流行ってるものね。でも、ああいうの、すぐ飽きるわよ。それより、図鑑とかどう?」
それで、父に交渉したんですよ。どうしても、プレゼントは、あれがいいって。
なんて、言ったと思います?
「君のことはママに任せてるから」
これだけです。
娘が泣きながらお願いしたのに、ですよ。
その時から、なんか、もういいかなって。
母親の言う通りにしてきました。
自分で決めたり、考えたりするのが、面倒くさくなって。だって、どうせ聞いてもらえないし。
学校でもそんな感じに、周りに合わせて、友達とか先生の言うようにしてきました。
それでも、中学までは、それなりにうまくいってたんですよ。
主張するのをやめて、ずっと周りに流されていれば、敵もつくらないし。
でも、高校に入ってから、それがうまくいかなくなってきたんです。
高校生活が始まって、すぐに仲良くなったのは桧山有紗って子で。ほら、覚えてます? グループのリーダっぽい子。いわゆる、声の大きい子ですね。
ああいう、自己主張の強い子は、私みたいに流されるタイプが好きなんですよ。いいなりになるから。
エリ、緑山恵理がいつのまにか近くにいて。エリは要領がいい子ですね。なんていうか、利に敏いって感じで。
それで長澤君たち男子グループと仲良くなって。長澤君はクラスのアイドル枠ですかね。ほら、イケメンでさわやかで、明るくて、みたいな。
それに元気で押しの強い斎藤君。やっぱり要領のいい、藤木君。
まあ、あれですよ。アリサが長澤君を狙ってたからなんですよ。結局。
だからでしょうね。とにかく、放課後遊びたがるわけです。カラオケとか。
でも、長澤君も斎藤君も部活に入ったから。すぐに放課後、男子は私たちに付き合わなくなったんですけどね。
そこでアリサは考えたわけです。
長澤君の入ったサッカー部のマネージャーに私がなれば、私を待ってたり、会いに来る名目で、サッカー部の練習を見に来れるって。
「ねっ、マキナ、サッカー部のマネージャーやんなよ」
ゴールデンウィーク中に、そんなことを言われました。
自分でやるのは、大変だから嫌なんですよね。
いつもの私なら、たぶん流されてそのままサッカー部に入部したと思うんですけど。
私、長澤君に狙われてたみたいなんですよ。
つまり、彼はアリサじゃなくて、私がタイプだったみたいで。
困るんですよ、はっきりいって。
露骨にアプローチしてくるタイプじゃなかったけど。視線とかで、分かるんです、そういうの。
もし、私がサッカー部のマネージャーになったら、絶対に自分に好意があると思ったんじゃないですかね。
ここで流されたら、長澤君の彼女になって、アリサの敵になって、絶対面倒くさいじゃないですか。
あと、私、長澤君って、ちょっと好きじゃなくて。
父親に似てるんです。雰囲気が。
外面はすごく良くて。その分、身内に無関心、みたいな。ちやほやされて育ってきたからか、自己中だし。
だから、私、入りたい部活があるって嘘ついたんです。
それで、あの日、文芸部へ行きました。大変じゃなかったら、どこでも良かったんですよ。
部活棟をウロウロして、でも、小学校から、自分でなにかを決めたことがない私には、決められなくて。決断できなかったんです。
それで、ドアの前に立ってたら、先輩が来たんですよ。
文芸部は、私にとって本当に都合が良くてですね。
部員も先輩一人だけだし。なにもやらなくていいし。放課後、アリサたちと過ごさなくていいし。
ははっ、そうなんですよ。もう、アリサたちといるの、結構、しんどくて。
アリサがプライドを保つために、私をサンドバックにしたり。
エリがアリサのご機嫌をとるために、私を下げたり、いじったり。
そういうの本当に、疲れるんです。
二人とも、なんていうか、いじめっこ気質って感じで。
まずったなあ、って彼女たちとグループになったの後悔しても、今更どうしようもないじゃないですか。
だから、本当に、文芸部は良かったんです。
居心地よかったなあ。
先輩、ほっといてくれるじゃないですか。無関心だからってわけじゃなくて、なんていうんですかね。敬意? なんかそういうものですよ、きっと。
ああ、そう、尊重。ちゃんと、私のことを尊重していて、だけど放っておいてくれて。
話しかけたらちゃんと答えてくれて。
ふふっ、気にしてたんですか?
返しが下手だって言ったの。
コミュニケーション能力が高くて、デリカシーのない人よりずっといいですよ。そういう人、多いんですよ。自分では面白いって思ってるんです。
きっと、私が両親に求めていたのは、そういうことだったんじゃないかと思うんです。
私のことを尊重して欲しいって。私が選んだことをきちんと見守って欲しいって。
覚えてますか、先輩。
進路の話をしたときのこと。先輩はK大を目指してるって言ってましたよね。理工学部でしたっけ。私、その時、全然ピンとこなかったんですけど。
超頭良かったんですね。後から知ってビックリしました。
ええと、話それちゃったけど。
その時、先輩が私に聞いたんですよ。
「そっちは、将来どうすんの?」
さあ? て私は答えました。
ホント、全然、考えてなかったですし。
母親ですか?
ああ、その頃はですね。もう、なんか私に無関心になってましたね。不倫してたみたいですよ。その相手に夢中、みたいな。
勝手ですよね、本当に。
「さあ? て。自分のことだろ。ちゃんと考えろよ。今のうちから、理系か文系か、それくらいは決めといた方がいいよ」
先輩、ちょっと怒ってましたよね。
それで、私が答えるのをちゃんと待ってくれてて。
その時、初めて、自分がなになりたいのか、考えたんですよ。でも、ぜんぜんわかんなくて。それで、先輩が読んでる本が目に入ったんです。
「文系ですかね。本に関わる仕事とかいいかも」
適当にそんなこと言ったんです。
「いいじゃん。それ」
そう言ってくれたんです。
なんか嬉しかったな。
私が言ったことを、きちんと受け止めて、応援してくれて。
嬉しかったな。
気づいてました? 私、先輩のこと好きだったんですよ。
◇
へっ、と素っ頓狂な声が出た。
マキナユーレイが、さらっと言った言葉に、心臓がものすごい勢いで暴れまわった。
じっ、と俺を見つめる女子高生幽霊の頬は、ほんのり赤くなっていた。
幽霊なのに血の気が昇るって、おかしくないか?
いや、いろいろつっこみどころの多い幽霊だけどさ。
「マジですよ、これ」
マキナユーレイがダメ押しに言う。
えっ、いや、そういうこと、なんで十年前に言ってくんないの?
死んで化けて出てから言われても困るだろ。
そんな皮肉で頭を冷やそうとしても、幽霊からの告白は、思った以上に俺を動揺させた。
なぜって、告白されたの、生まれて初めてだからな。しょうがないだろ。
「私が、一度だけ本気で好きになった人ですよ。先輩は」
言って、マキナユーレイは寂しそうに笑った。
「付き合った人はいっぱいいるんですけどね」
ああ、そうだ。
思い出した。彼氏ができたんだよな、あの後、マキナに。
それであの噂が……。
◇
自覚はなかったんですよ。
先輩のこと好きだって。
ただ、毎日、放課後が楽しみでした。部室に行って、先輩の顔見ると、なんか胸の中にたまったモヤモヤが、すっと消えるんです。
スマホをいじってて、ときどき、先輩の顔を見るんです。
真剣に本を読んでいる顔を見てましたよ。
にへらっ、て笑ったりするところとかも。
私が見てたこと、気づいてなかったでしょう?
それに、先輩とちょっとした話をするのも好きでしたよ。
だけど、七月に入って、困ったことになったんです。
エリと藤木君が付き合いだしたんです。
そう、要領のいいもの同士のカップル。
こう言ったら何ですけど、利害が一致したのかもしれませんね。
それなりに見栄えが良くて、面倒くさくなさそうな相手と付き合っといた方がいいって。
エリの方から、アプローチしたみたいですよ。じゃないと、斎藤君を押し付けられそうだったから。
ええと、そうですね。斎藤君はクラスの男子のリーダーみたいな。声が一番大きい男子ですね。顔はまあ、普通。スポーツマン。体育会系ですかね。明るくて、あけすけ。はい、教師とかにタメ口利くタイプです。
彼はとにかく、ヤリたかったみたいです。
エッチがしたかったんですよ。彼女が欲しいってより、それですね。
で、彼は私たち三人のうち、誰かと付き合あうつもりだったわけです。できれば、夏休み前に付き合って、休みの間、ヤリまくりたい、なんて考えてたんじゃないですかね。ああ、彼、バレー部に入ってたんですけど、あっさり、やめちゃってました。
運動神経はいいけど、努力しないタイプですね。
エリが藤木君と付き合ったから、残るは私とアリサですよね。普段の感じだと、アリサと斎藤君、結構、やりとりしてて。仲良さそうだったんですよ。
だから、ひょっとしたら、斎藤君はアリサ狙いだったのかも。
でも、アリサは長澤君狙いじゃないですか。
そのアリサにしてみたら、私と斎藤君をくっつければ、残った長澤君と自然にくっつきやすいじゃないですか。
長澤君ですか? プライド高いから、自分から告るなんて、絶対しませんよ。
それで、アリサと斎藤君は手を組んだんですね。
エリと藤木君が付き合ってから、やたらとアリサは私と斎藤君をくっつけようとしてくるんですよ。
それに要領のいいエリ、藤木君カップルも乗っかって。もう、すごかったんですから。
私たちのグループって、クラスを仕切ってる感じで。そのうち、クラス中で、なんか、私と斎藤君の噂が立つようになってきて。
で、ある日、斎藤君に告られました。
「なあ、俺と、マジで付き合わない?」
みたいな感じだったかな。
あれは、断れないですよ。
なんていうか、もう、そういうところに追い込まれていたんです、私。
好きな人がいないとか、そういう、言質をちょこちょこ取られてて。断る理由を潰されてて。
まずいなって思うんだけど、私、ずっと流されて生きてきたから。どうしようもなくて。
斎藤君を振るには、もう生理的に無理っていうくらいしか言いようが無くなってたんです。
でも、そんな風に断ったら、どうなるかなんて分かるじゃないですか。
だから、私、オッケーしたんですよ。
頷いたとき、先輩の顔が浮かびました。
その時です。私がはっきり先輩のこと好きだって自覚したのって。
おかしいですよね。今更って感じですよね。
でも、そうだったんですよ。
文芸部に行かなくなったの、そういう理由なんです。
無理ですよ。先輩の顏なんて、絶対見れなかった。
もっと早く、気づいて、先輩に告白してたら良かったんだけど。
そうこういっているうちに夏休みになりました。
斎藤君、すごかったですよ。すごい勢いでデートに誘ってくるんです。
アリサもみんなで出かけたがって。ダブルデートならぬトリプルデートって感じですかね。
手をつないで、キスして。
そういう段取りってものをガンガン踏んでいくわけです。エッチしたいから。
斎藤君って、俺が、俺が、なわけです。もう、自分の話を聞け。そして感心しろ。褒めろ。みたいな。だから、楽っていえば楽でしたけど。
私、思うんですけど。
楽しいと楽って、漢字は同じだけど、ベクトルは全然違いますよね。
楽しいことって楽じゃないですよね。
楽なことって、結局、楽しくないですよね。
きっと、本当に好きな人と付き合ったら、感情がいろいろ揺れて、苦しいこととか、辛いこととかあって。でも楽しいんでしょうね。
でも、私は、楽をしたから。
ちっとも楽しくなかったですよ。
七月の最後の日。斎藤君の家に行きました。両親は仕事で留守。もう、ここで決めるって雰囲気がビンビン伝わってきました。
「なあ、いいよな」って言って、私に断らせるつもりなんてない癖に。
ゴムもバッチリ用意してあって。ホント、準備万端でしたよ。
聞いてた通り、ものすごく痛くて。でも、それより、吐きそうなくらい気持ち悪かった。
◇
あ~あ、とマキナユーレイが言った。頭の後ろで手を組んで。天井を見上げて。
「せっかく、高校時代のユーレイになるなら、夏休み前の私が良かったなあ」
俺は胃のあたりがムカムカしていて。マキナが男に組み敷かれて、ヤラれてるところなんかが、頭の中に次々と浮かんできて。
不快でしかたなかった。
それに、あの映像。
俺が目にしたスマホの小さな画面の、あの吐き気のする映像が、記憶の彼方から蘇ってきていた。
「なんで夏休み前じゃないってわかるんだ? 春の君かもしれないだろう?」
平静を保って、そんな言葉を絞り出す。
マキナユーレイが俺をじっと見る。
まるで頭の中を覗かれたみたいで、落ち着かない。
「分かりますよ。私が先輩の部屋の前に立ってた意味も。理由も」
◇
男って、エッチすることしか考えてないんですかね。結局、恋人をつくるのって、愛とか恋とか関係なくて、ただヤリたいからなんじゃないですかね。
夏休み中、もう、何度も斎藤君の家でエッチしましたよ。一回やれば、あとはもうヤリ放題って思ってたんじゃないですかね。
断ろうとすると、しつこくくらいついてくるんですよ。なんで? いつならいい?
相変わらずアリサはみんなで集まりたがってて。イベント一杯、グループ交際ですよ。
そういう時に、斎藤君がエッチの話をするんですよ。優越感に浸りたかったんじゃないですかね。
でも、おかげで、夏休みの終わりぐらいに、アリサと長澤君が付き合い始めました。
ちょっとホッとしましたけどね。
夏休みが終わると、斎藤君はどうやってエッチをしようか、いろいろと考えてたみたいですよ。
ほら、今までは両親が仕事で家を留守にしてたから、私を連れ込めたわけです。でも、彼の母親パートだったらしくて、学校が終わってから家に行ったんじゃあ、母親が帰ってるわけです。
かといって、何度もホテルに行けるほどお金なんてないし。
「マキナの家、行こうぜ」
なんて何度も言われたけど、絶対嫌だったから、母親は専業主婦で家にいるって嘘ついてました。その頃は、不倫真っ最中で、ほとんど家にいなかったんですけどね。
でも、嫌いな人間に家とか入って欲しくないじゃないですか。
あっ、嫌いって言っちゃいましたね。
ええ、ホント、大嫌いでしたよ。
あの事件が起きる前から。
二学期が始まって。私、毎日、毎日、文芸部に行きたいって思ってたんですよ。
先輩と、まったり過ごす時間が恋しくてたまらなかった。
でも、やっぱり行けなかった。
そんなある日の放課後。
夏休みが明けて、二週間後くらいだったかな。
斎藤君が、なんかニヤニヤして。まあ、ひと言でいうと、エッチのこと考えてる顏なんですけど。
ちょっと、付き合え、って言ってくるわけです。
で、どうせ、人気のないところに連れてかれて、エッチするんだろうな、と思ってたんですけど。
まあ、実際その通りで。
連れてかれたのはバレー部の部室でした。
体育館近くにあったじゃないですか。ああ運動部棟っていうんですね。文芸部のある部室棟とは違っていいところですよね。
当然、部活の最中だから部員なんかいなくて。汗臭い部屋の中に、制服が脱ぎ散らかされてて。
ええっ? って感じですよ。だって、いつ部員の人たちが帰ってくるかわからないし。汗臭いし。
もう、さっさと終わらせたかったですよ。
斎藤君はそれを、私もその気になってるとか、思ったんでしょうかね。
なわけないじゃないですか。
そんな時に限って、斎藤君はしつこくて。
もう、終わったならさっさと出ようよって、思ったんだけど。
まあまあ、ゆっくりしようぜ、ですよ。
バレー部やめたのに、神経太いなって思ったんですけど。ちゃんと理由があったんですね。ホント、どうしようもない理由が。
それで、まあ、例の事件につながるんですけど。
バレー部員猥褻事件、とでも名前が付いたんですかね。知りませんけど。
まだ服も着てないのに、ドアが開いて、部員が戻ってきたわけです。三人くらい。
制服だったから、バレー部の引退した三年だったのかな。
焦りましたよ。ヤバって。
でも、斎藤君はへらへら笑って。
チース、とか挨拶して。
で、先輩たちがジロジロ、見てくるわけですよ。
まあ、要するにですね。斎藤君、エッチがしたいがために、バレー部の先輩に部室を貸してもらったわけです。レンタル代として、私とエッチできるって条件で。
男って独占欲ってないんですかね?
恋人が他の男とエッチしたら嫌じゃないんですか?
まあ、たぶん、斎藤君は自分がエッチできれば、どうでも良かったのかもしれませんね。
私も、なんか、もうどうでも良くなってました。断ると、うるさいし、しつこいし。バレー部の人たちとエッチするのも気持ち悪いですけど。斎藤君とエッチするのも気持ち悪いし。
結局、コミュニケーションと同じですよ。何も考えず自分の役割をこなすだけ。
それで、ある日、バレちゃったんですよ。
それはそうですよね。声とか、漏れるだろうし。
これが事件の顛末です。ろくなもんじゃないでしょう?
◇
本当に、ろくなもんじゃなかった。
胸糞悪くてしょうがなかった。
マキナユーレイは、なんでもないことのようにつらつらと話したけど。痛みを感じないくらい傷ついていたんだってくらいは俺にもわかる。
高校三年の二学期に、ある噂を耳にした。
バレー部部員の何人かが停学になった。部室で一年の女子とヤッてたからだって噂。
噂を聞いたときは、アホか、と思いつつ、ちょっと羨ましいななんてあさましいことを思ったけど。
俺は、それから後に、その一年がマキナだったと知った。
やっぱ、ギャルってビッチなんだな、なんて思ったけど。実はものすごくショックだった。
だから、あの時、俺がやったことは、たぶん、八つ当たりの部分も多かったんだと思う。
「まあ、それで私も停学になったんですよ。斎藤君も。斎藤君の親、すごい厳しいらしくて。それで、私とは自然消滅って感じです。私、停学明けても学校行かなかったんですけど、全然、連絡とかしてこなかったし。良かったですけどね、別れられて」
マキナユーレイが言った。
それから、挑発するみたいに襟のリボンをいじる。そのたびに、シャツの胸元が開いて、白い谷間が見えた。
「先輩、このビッチが、とか思ってるでしょう?」
「別に」
いや、ちょっと思ったけど。
「それじゃあ、今度は先輩が話してくださいよ。先輩が起こした事件のこと。あれって、十一月くらいですよね。そのころまだ学校行ってなかったから、担任が訪ねてきたんですよ。出席日数がそろそろやばいってことですね。その時に、担任が先輩の事件を教えてくれたんです」
頭をかいて、誤魔化そうと思った。
だけど、マキナユーレイは、視線をそらすことなく、俺を見つめていて。
「感情に動かされて行動する奴は馬鹿だって。先輩言ってたじゃないですか」
ため息が出た。その通りだよ。
だけど、もし、もう一回人生をやり直したとしても、俺はやっぱりああしていたと思うんだ。
だから、感情だけで動いたわけでもないじゃんないかな。
◇
バレー部の起こした事件を聞いても、俺には関係のないことだと思ってた。
陰キャの俺は、不純異性交遊も乱交も、なんも関係ない世界の人間だったもん。
いつも通り、放課後は文芸部の部室で本を読んでた。
いや、受験勉強もしてたよ。おかげで、ちゃんと第一志望にも受かったんだから。
体育祭が終わって、風が冷たくなってきた頃。
いつもみたいに部室にいったら、部屋の前に、見慣れない連中がいた。三人。確か、あいつら三年だったよな、といぶかしみながら近づいた。
「よっ、文芸部員?」
一人がフランクな感じで言った。
「そ、そうだけど。なんか用?」
うん、正直、初対面で相手複数で、超ビビってた。体格いいしさ。
「部員、あんた一人なんだろ?」
「ああ、そうだけど」
「ちょっと部屋見せてもらっていい?」
「別にいいけど」
なんだこいつら、と思いながら数の威圧感に負けて、鍵を明けて、連中を中へ入れた。
「いいじゃん。いいじゃん」
「ここならバレねえんじゃね」
なんか、盛り上がる連中。
だから、なにがだよ。うぜえな。
「あのさ。この部屋、貸してくんない。ときどきでいいんだけどさ」
「はっ?」
精一杯、不快感を表明した。
そりゃあ、そうだろ。居場所を貸せって言われたら温厚な俺もムカっとくる。
「いい話なんだって」
すっごいフランク。肩なんか組んできてさ。
うぜええ。
「バレー部の部室の話、知ってる?」
肩組んでるのと別の奴。
「俺たち、その停学になった部員な」
もう一人が、スマホ出して、ポチポチ、シャッシャッといじって。
「これこれっ」って俺につきつけた。
そう、君が映ってた。
あんなもの撮らせるなよ。アホ。
「ここ貸してくれたらさ。あんたにもヤラせてやるから」
「大丈夫。超ビッチだから。もう彼氏の前でもすごかったから」
「しぶったらさ。写真、ネットにばらまくって脅せばいいよな。それか、斎藤に連れてこさせるか」
そのあとも、連中いろいろ言ってたけど、覚えてないな。
気が付いたら、殴ってた。大声あげながら。
なんで?
俺だって分からないよ。
ただ、君が楽しかったみたいに、俺も楽しかったんだろうな。初めて後輩ができて。
喧嘩はどうなったか?
ははっ、それ聞く?
あのさ、俺、ヒョロガリだったでしょ。
相手、腐っても運動部だぜ。しかも、三人な。
ボコボコにされたに決まってんじゃん。
だけど、運のいいことにさ。その日、隣に漫研がいたんだよ。先生呼んできてくれて、まあ、なんとか助かった。
全部、言ってやったよ。包み隠さず。
それで、連中は停学。しかも、学校が、もし君の卑猥な写真やなんかが流出したら、そいつらを退学にするって言って、全部消させた。
グッジョブだよな。
◇
担任から先輩の話を聞いて。
私、どうしても会いたくて。先輩に会いたくて。
学校に行ったんです。クラスの空気はもう、最悪って感じで。斎藤君が、好き勝手言ってたみたい。私一人悪者でビッチのクズ。
だから、アリサにもエリにもシカトされて。ハブられちゃいました。先輩と同じ、ボッチです。
どうでもいいですけどね。
放課後になると、いつも部室棟に行きました。文芸部の前に立って。何度も、ドアを叩こうとしました。
でも、どうしても、体が動かなくて。
そのうちに、部室棟に行くことすらできなくなって。
私、弱虫なんですね。先輩に軽蔑されてたらどうしようって。怖くて。
廊下ですれ違った時に、顔も見れなかった。
そのうちに、先輩は卒業しちゃいました。
私は二年生になって。クラスも変わって。
だけど、例の噂のせいか、私の周りには、ちょっと不良っぽい子たちが集まってきたんですよ。
まあ、とはいえ、うちの学校ですから。タカが知れてたんですけど。
私はどんどん流されて行きました。
誘われるままパパ活して。その相手が妻子持ちだったのに、すごい私にはまっちゃって。
言い訳じゃないですけど。私、そんなにあざといことしてませんからね。ただ、役割をこなしてただけですから。
で、その不倫がバレて、大問題ですよ。
学校は退学。家は追い出されて。
そのまま上京しました。
だって、先輩、K大志望だって言ってたし。
パパ活したり、キャバで働いたり。なんでか、結構、うまくやれるんですよ。そういうの。
お客さんが、すごい私に熱入れてきて、結果、破産しちゃっても、そうなんだって思うだけだったし。
もう、本当に流されるまま。
いつも思ってました。
あの時。ドアを叩けていたら、って。
勇気を絞り出して、自分で決めた一歩を進むことができたら、違ったんじゃないかって。
ここぞって時に楽をしたら、踏ん張れなくなっちゃうんですね。人間って。
◇
「だから、死んだ後、このドアの前に立っていて。自分が高校生だって分かった時に、そういうことなんだって理解できたんですよ。私は、ドアを叩くために。先輩に会うために。ユーレイになったんだって」
言って、マキナは照れ臭そうに笑った。
「馬鹿ですよね。ホント」
感情で行動する奴は馬鹿だ。
俺は今でもそう思ってる。機嫌が悪くなって怒鳴り散らす上司とかな。マジで軽蔑の対象でしかない。
だから、やっぱり俺も馬鹿なんだろうな。
小さなテーブルに身を乗り出して、マキナを抱きしめていた。
下でグラスが倒れる音がした。床が濡れるだろうけど、知らん。
マキナの手が俺の背中に回ってきて。
吐息が頬にかかる。
「告先輩……」
そういえば初めて呼ばれたな。ファーストネーム。
◇
はっ、と目を開けると、いつもの天井が見えた。
ベッドの上。スーツを着たまま。
隣で寝てるはずのマキナはいなくて。
ああ、全部、夢だったのか、そう思った。
すごい、むなしい気持ちな。
だけど、まだ、夢に未練があった。
テレビをつけて、ニュース番組を見る。
同時にスマホで、殺人事件が無かったか調べる。
そんなものは無かった。
はは、やっぱり夢か。
なんか、やたら生々しいリアルな夢だったな。
マキナの肌の感触、マジで手に残ってるんだけど。唇の感触も。その、あれの感触も。
俺、欲求不満なのかな。やっぱり。
その後、朝っぱらから部屋を隅々まで掃除したが、狭い1Kのアパートに女子高生が入った痕跡はまるでなく。
そりゃあ、そうだよな、と俺は諦めた。
まっ、結局、全部、夢だったのさ。
◇
マキナの夢を見たからといって、俺の生活になにか変化があるわけじゃない。まあ夢ってそういうもんだし。
毎日、同じ時間の電車に乗って会社に行って。二時間くらい残業して、満員電車で潰されて、部屋に帰ってくる。
ああ、彼女欲しいなあ。マジで。
ときどき、マキナのことを思い出した。
あれは、全部夢で。俺の頭の中が造り出した妄想で。彼女はきっと普通に生きていて。幸せに暮らしていることだろう。
そう思うと、まあ、良かったんだな。夢で。
うん、その方がずっといいさ。
部屋に戻って、テレビ見ながらビールを一本、開けて。
ちょっとほろ酔い気分で、シャワーを浴びようと立ち上がった。
ピンポーン、とドアベルが鳴った。
八時過ぎだ。なんだよ、新聞の勧誘か?
うちにインターホンなんてもんはついてないから。こっそり近づいて、ドアスコープを覗いた。
魚眼レンズで歪んだ視界に、女性が立っていた。
焦げ茶色の肩までの髪。少し眠そうな垂れ目。軽く小首をかしげて待っている。
紺色のワンピースに白いボレロ。大人っぽい雰囲気に、一瞬、誰か分からなかった。
だが、それは本当に一瞬だけで。
彼女の声がドア越しに聞こえる前に、俺は、鍵を開けていた。
「私です。告先輩……」
その言葉の途中でドアを開けて。俺は驚く彼女を抱きしめていた。
「あっ、ちょっと痛いです。傷、塞がったんですけど、なんか、触るとまだ痛くて、ですね」
慌てて、楠真希菜を離す。
目の前にいるのが、幽霊なのか、本物なのか、分からない。だけど、どっちでも良かった。
「とにかく、中に入れよ」
「はい、お邪魔します」
彼女に背中を向けたとたん、涙が出てきた。慌てて顔を押さえる。
すっと、背中に柔らかいものがかぶさった。
「私、今度はちゃんと踏み出せましたよ。先輩」
「ああ、そうだな」
「先輩。泣いてます?」
「なんで俺が泣くわけ。馬鹿じゃねえの」
「私が女子高生の姿でここに来たこと、覚えてるんですね。ちゃんと」
「当たり前だろ。夢かと思ったけどさ。覚えてたよ」
ヒックとしゃくりあげる声。なんだよ、そっちも泣いてるじゃねえかよ。
「あの後、目を覚ましたらぁ、病院でぇ。私、殺されてなかったみたいでぇ。ずっとひと月くらい、意識不明だったみたいです。それで、リハビリとかして。やっと、会いに来れたんですよお」
鼻をズビズビさせながら、そんなことを言った。
あれが夢だったのか。それともやっぱり化けて出てきたのか。
ただ、すれ違った俺たちの道は、ちゃんとつながってたんだ。
俺はもう一度振り返って、マキナを抱きしめると、その唇に口づけした。
マキナが涙でぐちゃぐちゃの顔をくしゃっと歪めた。
「告先輩。お願いがあるんですけど」
「なんだよ」
「私と、付き合ってください」
それは彼女の宣言だったのだろう。
ちゃんと自分で決めれる。決断できる。行動できる。自分を変えることができたという。
だったら、こう答えるだけだ。
「俺なんかで良かったら」
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
【連載版】始めました。途中までは一緒ですが、エンディングの最後の方から変わります。イチャイチャ、大めになるかと思います。良かったら、読んでみてください。
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