第34話「終わりにして始まり」
「よくぞ戻った。そして、帝国への残留を選んだ事、感謝する」
「滅相もありません……」
「ではルストフェルト。少しの間、彼女と二人きりになりたい。下がってくれ」
「ハッ! それではアリサさん、また後程」
そうして、ルストフェルトはキビキビとした足取りで謁見の間を後にする。
「様と呼ぶのを辞めたのだな、彼」
「はい。出来れば呼び捨てぐらいまでして欲しいのですが……」
「時にアリサよ。其方は虫が苦手か?」
「いえ……その辺の男性よりは得意かと」
「では、少々余に付き合ってくれ」
私はテオバルト陛下が案内するまま、王宮内の中でも奥の奥。
誰も訪れない様な場所に、その施設……昆虫博物館があった。
ガラスケースには、何百種類もの蝶などの華やかな虫から、あまり人気の無い蜘蛛まで多種多様な昆虫の標本が納められており、また保存状態も良い。
「凄い……」
「まだ帝国領土内の昆虫しか集められていないがな」
「それでも十分ですよ……凄いな」
「ここにある標本は全て僕がやったんだ」
「えっ!?」
皇帝自ら!? こんなにも綺麗な標本を!?
「虫を標本してくれる様な者は、僕以外に居ないのでね」
日本人は結構昆虫採集などをするからカブトムシへの忌避感は薄いけど、確か欧米の人は昆虫嫌いが当たり前だと聞いた。
それは恐らくこの世界の人もそうなのだろう。だが、テオバルト陛下だけは違う。
帝国原産の厳ついクワガタムシのケースを眺めるその表情は、ようやく朗らかで人懐っこい顔つきの年齢相応の物に見える。
「ほら、あそこだ。虫系の魔物のコーナーがあるんだが、是非ともアリサに見せたい」
そう言って、無邪気にテオバルトは私の手を引っ張って、私の腕ほどの大きさがある虫の棚まで連れてくる。
「これはアリ型の魔物、その隣がハチ型の魔物だ」
素晴らしい。ちゃんと彼なりにハチ目で揃えているようだ。
しかし、全ての生物は神の被造物であると考えられるこの世界で生物の分類なんて学問はあるのだろうか?
「どうしてこの魔物を見せたいのですか?」
「アリとハチは別の虫だ。そう考えられている。何故なら前者は土の中に、後者は木の上に巣を作るからな」
「それは……」
「だが、ここを見て欲しい。この大きさでなければ気づき難いが、どちらも同じ形の顎を持っているだけでなく、胸部や腹部のくびれの形も同じだ」
やはり、この世界には分類学なんてものはない。だけど、彼の口ぶりはまさか……。
「全ては神が作ったとされるが、私は違うと考える……アリとハチ、二つの虫は元々同じ虫だったのではないか?」
なんということだ。天才はここにも居たんだ。
彼は複数の虫を観察する事で、宗教観が支配する世界にも関らず進化論を導き出したのだ。
「凄い……正解です」
「何?」
「ハチは動物界、節足動物門、昆虫網、ハチ目に分類され、アリもまたハチ目なんです……!」
「それはなんだ……アリサ、もう少しわかりやすく言ってくれ」
「皇帝陛下。貴方が導き出した通り、生物は子孫を残す過程で自分達の姿かたちを変えながら多様な生物に別れていったんです」
「其方の世界では、そこまで分かっているのか?」
「はい。それを進化論と呼びます。そして、生物分類によって、どの様な進化を辿って今この時代にどんな生物になったかの類推を表すのが、今言った動物界とか昆虫網とかなんです」
「待ってくれ……では、ここに保存してある全ての虫達が元は同じ生き物だったというのか?」
「それどころか人間だって同じ生き物だったんです」
「なんてことだ……!」
こんな顔で感銘を受ける少年、小学校でよく見たな。
みんなカブトムシの話に、今のテオバルト陛下の様に目を輝かせて――。
「……アリサ、余は絶対にリガネ教を滅ぼそうと思う」
唐突に、さっきまでの少年の様な表情は消え去って為政者の顔つきへと変貌する。
「どうして……急に……」
「進化論は異端の中の異端だ。リガネ教がこの世界を支配する限り、この学問が栄える事はない」
「それは……そうです……私の世界の歴史が物語っています」
「そして、リガネ教がある限り、先の戦と似た卑劣な者達が現れる。私は奴らを許す事はできない」
その鋭く細めた瞳には怒りと憎しみの炎が灯り、もしもバルドゥインがあの日、戦死していたらと思うと……彼は宗教廃絶への道を邁進した事は間違いない。
こんな風に、誰かから話を聞くこともせずに……。
「……」
私も聖女殺しで異端者の誹りを受けた身だ。信仰心が無ければリガネ教を庇い立てする義理もないのだが、テオバルト陛下の言葉を聞いて、胸がざわつくのはなぜだろう。
「私と共にリガネ教の無い世界を作ろう、アリサ」
けど、少し考えてみれば、簡単に見つかった。
私はリガネ教など信仰していない。
それでも、ルストフェルトやバルドゥイン、イゾルデにシュテファニエ。彼らは敬虔な信徒であり、彼らは私の良き友人だ。
リガネ教を守る私に義務がない様に、その信仰心を侵犯する権利もまた無い。
何よりテオバルト陛下の行く末を、歴史は示している。
「できません、陛下。そして、宗教廃絶もダメです」
「な、何故だ!? 其方も見ただろう、宗教を笠に着た者達の所業を!」
「それでもダメです。貴方がやろうとする事は、純粋に信仰している人達をも焼いてしまう。そんな覇道を歩めば、帝国はいずれ滅びます」
「滅びない強い国にすればいい……!」
いつもは合理的に考える彼にも関らず駄々っ子の様な事を言う。それだけバルドゥインが危険に晒された事が堪えたようだ。
「違うんです。人が人である限り信仰は消えません。宗教廃絶を掲げても、未来永劫消えない敵を産むだけ」
「ならば敵が現れる度に全て潰す。我が国であればそれが可能だ」
「その敵がバルドゥインでも、ルストフェルトでも出来ますか?」
「なっ――!?」
「僧侶を殺して覇道を歩み続けた結果に、最も信頼していた臣下に裏切られた者がいた事を私の国の歴史は記しています。同じ道をテオバルト陛下には辿って欲しくない」
「ではどうしろと? このまま堕落し、腐敗を続けるリガネ教を見過ごせと」
「だから――宗教改革をしましょう」
「宗教……改革……?」
「確かに今のリガネ教は間違っています。でも間違っているのは宗教じゃなく、それを取り仕切っている連中なんです。だったら私達が先導して違う考えがあるって事を知らしめるんですよ」
私の世界でルターがやった様に、この世界で既にイゾルデが始めた様に、全ての人が聖書を読んで自分なりの解釈で神を信じ、自分なりの信仰心を持つ。
権威主義から個人主義への移行。帝国という政治体制からすれば不都合ではあるがテオバルト陛下なら分かってくれるはずだ。
「人間、無理矢理取り上げられて納得はできません。それよりも別の選択肢を提示していく事で人ぶそれぞれ考えさせる。時間は掛かりますけど、それが一番平和で確実に今のリガネ教を壊すのに最適なんです」
「……出来るだろうか、そんなに気の遠くなる様な事」
珍しくテオバルト陛下は気が弱くなっている。
きっと彼もバルドゥインとリガネ教に関する政策で決裂するかもしれないと、実は心のどこかで思っていたのかもしれない。
まだ私よりも年下なのに、皇帝なんて重責を負わされているんだ。こんな面を今まで曝け出す余裕なんて無かっただろう。
なら、私が年上として、何よりバルドゥイの友人として彼を安心させてあげなくちゃね。
「できます。何故なら私がこの世界の一員になったから」
テオバルト陛下は孤独な王様なんかじゃない。
今ここで宗教廃絶を踏み止まってくれたのなら、彼の味方になってくれる人は大勢いる。
「私にお任せください。きっと、今よりずっと面白い世界にしてみせますから」
「……信じてみよう。バルドゥインを救ってくれた其方の事を」
私は最敬礼した後、皇帝に見送られながら博物館を後にする。
さぁ、忙しくなるぞ。“理系魔女の宗教改革”。始まりだ――!




