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首を振りつつ歩き、僕は堀端の柵に腰をおろした。歩道から内側に凹んでる場所だ。たまにランナーが横切るだけで人通りはなかった。
「それで、どうしてそんなことを知ってる? ――いや、さっきのつづきを聴かせてくれ。前回の合コンで僕はある女性と会い、しばらく一緒に暮らした。その後で、でもって言ったよな。でもなんだっていうんだ?」
「そ、そ、その女性は、い、い、いなくなった。そ、そ、そうですよね? あ、あ、あなたは、い、い、幾つかの、た、大切なものを、な、な、なくしてしまった。も、も、持ち逃げ、さ、されたんです」
僕は髪を掻きまわした。意味がわからない。どうして誰にも言ってないことを知ってる? ――ん? あの女と繋がってるのか?
「い、いえ、わ、わ、私と、そ、その、じょ、女性とに、か、か、関わりは、な、ないですよ」
「どうして考えてることまでわかる? 君はいったい何者なんだ?」
「わ、私にも、よ、よ、よくわからないんです。で、で、でも、わ、わかってることも、あ、あります。わ、わ、私は、む、昔から、い、い、いろんなものが、みっ、見えるんです。ほ、ほ、他の人には、みっ、見えない、も、ものが、みっ、みっ、見えるんです」
「それで僕に起こったことも、考えてることも見えたっていうのか?」
「し、し、し、信じて、い、い、いただけます?」
「いや、信じられるわけがない」
「そ、そう、そうですか」
彼女はうつむいてる。風が吹き、柳の枝を揺らした。その奥を鮮やかなウェアのランナーが走っていった。
「ただ、もし本当に君がそういったのを見たってなら、他になにかないのか? 僕のまわりで起こったことで他に見えたものは?」
口は半月状にゆるんだ。僕はその顔に起こる変化を見つづけていた。そのとき感じた心の動きは自分でも不思議なものだった。
「あっ、あっ、あります。が、街灯が、と、と、突然、き、消えましたよね? そ、それは、つ、ついこのあいだ、あっ、あっ、あったことです。で、でも、それ以前にもあった。さっ、さっき言った、じょ、女性と、で、出会う前にも、あっ、あったはずです」
「その通りだ。どうしてそんなことまでわかるんだ?」
「わ、私にも、よ、よ、よくわからないんです。こ、こ、こんなに、ひ、ひとりの人のことが、み、み、見えるなんて、い、今までなかったことですので。で、で、でも、あ、あ、あなたのことは、みょ、妙にはっきり、わ、わかるんです。だ、だ、だから、ど、どうしても、おっ、おっ、お伝えしなくてはと、お、思って」
腕を組み、僕はしばらく考えた。それから静めた声で訊いてみた。
「初めて会ったとき左肩を、そのちょっと上辺りを見てたよね? もしかして、なにかいる?」
「え、ええ。い、い、います。す、すごいのが。そ、そ、それが、あっ、あっ、あなたを、わ、わ、悪い方へ、つ、連れて行こうと、し、し、してるんです」
「じゃ、街灯を消したのもそいつってわけか?」
「い、い、いえ、そ、それは違います。が、街灯が消えるのは、け、警告です。あ、あなたを、み、見守ってる、しゅ、守護霊様が、そ、そ、そうやって、け、警告を、し、してくださって、い、いるんです」
守護霊様ね。そう思いつつ僕は左肩を見た。ここに「すごいの」がいるってわけか。そいつが悪い方へ連れて行こうとしてる?
「しっ、信じて、く、く、くださいます?」
「いや、やっぱり信じられない。だって、そうだろ? 君には見えることがある。僕を含めた大多数の人に見えないものが見える。そういうことだよな? 実際、誰にも言ってないことを君は言い当てた。ただな、理解できないんだよ。肩になにかいるってのも信じられない。僕には見えないんだからな」
「で、でも、か、か、感じることは、あ、あるはずです。そ、そ、その感じることに、し、し、従っていれば、わ、わ、悪い方へ、み、み、導かれることも、な、な、なくなるんです。し、し、信じてください。わ、わ、私は、あ、あなたが、し、し、心配なだけなんです」
彼女はにじり寄ってきた。興奮してるのだろう、顔は真っ赤になっている。僕は仰け反った。
「わかった。わかったから。――いや、何度も言って悪いけど全面的に信じてるわけじゃない。ただ、心配してくれてるのはわかった。で、つまりはこの後も悪いことが起こるってことか?」
「そ、そ、そうなんです」
「具体的にわかるのか? なにが起こるかって」
「は、はっきりとは、わ、わ、わからないんです。た、ただ、あ、あ、あなたに、よ、よ、よくないことが、お、お、起こるのが、わ、わかるだけで。だ、だ、だけど、そ、それは前のときよりも、ず、ず、ずっとよくない、こ、ことなんです。も、もっと、ず、ずっとよくないこと」
今の状況だってあまり芳しからぬものだけどね。そう思ったとき妙なことが起こった。背後から肩をつかまれた感覚があったのだ。
は? と思った瞬間にそれは引っ張ってきた。僕は腕を伸ばし、脚をぎゅっと閉じた。そうなると腕は彼女の背中へまわり、脚もふくらはぎを挟むことになる。つまるところ僕は抱きつくことによって難を逃れたわけだ。
「ほら、」
囁き声がした。――いや、ほらって。
「あ、危ないでしょう? こ、こ、こうやって、わ、悪い霊は、あ、あなたを、く、く、苦しめようと、し、し、してるんです。だ、だから、ご、合コンに、い、い、行くのは、や、やめた方が、い、いいですよ。そ、そ、それが、わ、私の、お、お、お伝えしたかった、こ、こ、ことなんです」
吐息は耳にかかってる。非常に女性らしい香りを嗅ぐことにもなった。鷺沢萌子がいなくなってから久しぶりに嗅ぐ香りだ。僕は身体を押し出した。堀を窺うとそこには誰もいない。
「もう帰る」
首を振りながら僕は歩きだした。なににたいしてかわからないものの腹がたっていた。まったく好みでないどころか苛々させられる女に抱きついてしまった腹立ちなのかもしれない。あるいは理解できないことにたいしてだった可能性もある。
理解できなくとも存在してるなにかへの怖れが激しく混乱させたのだ。彼女の顔は晴れやかにみえた。頬は薄く染まってるし、口角もあがってる。
「なんでそんな顔してる?」
「お、お、お伝え、し、したかったことを、い、い、言えたので」
「じゃ、こっちにも言いたいことがある。君に言いたかったことだ。姿勢は良くしてた方がいい。背が高いのを気にしてるんだろ? だけど、どんなに取り繕うとしたってそんなの誤魔化せるわけがない。だったら堂々としてた方がいい。あと、髪はまとめた方がいいね。すくなくとも頬にかかってて顔が隠れてるってのはよくない。眼鏡も換えるかコンタクトにした方がいいね。カフェで会ったときは眼鏡してなかったろ? その方が断然よかった。化粧もちゃんとした方がいいな。それじゃ薄すぎるよ。もうちょっと濃くていい。いいか? もっと自信を持つんだ。声も大きくしてね。そうしてればどんなブスだってそれなりにみえる。うつむいて顔を隠してたら美人だってブスにみえるんだ。わかる?」
「はっ、はい!」
僕はもちろん嫌味を言ったつもりだ。しかし、慌てたようにヘアゴムを取り出してるのを見て自信がなくなってきた。
「あっ、あっ、あの、こっ、こっ、これで、よ、よ、よろしいでしょうか?」
「え? ああ、そうだね」
「あっ、ありがとう、ご、ございます!」
風が巻き起こるくらいの勢いで彼女は頭を下げた。そのつむじを見ながら僕はそっと溜息をついた。