3-1
僕は部屋の片づけをはじめた。
それは被害状況を克明にしていく作業でもあった。あのジッポライターも盗られたんだな――などと思いながらの片づけだ。
そのライターは五年前までつきあってた彼女(犬に見つめられてると指摘してきた子だ)からの誕生日プレゼントだった。煙草はもうやめたので使ってなかったけど盗られたと思うと悲しいものだ。
休日には集中して片づけた。朝からはじめ、カップラーメンを食べてからもつづけた。三時くらいには疲れ果て、コーヒーを飲みたい気分になった。ただ、コーヒーメーカーもなくなっている。
三割ほど整理のついた部屋を眺め、僕は溜息をついた。コーヒーを飲まない限りは動けない。こんな馬鹿げた、なおかつ悲しい作業をつづけるには燃料が切れてしまったのだ。
適当に文庫本を取り(それも床に放ってあったものだ)、僕はカフェへ向かった。そもそも一日で終わるような量じゃないのだ。ゆっくりやればいい。これは犯した過ちにたいする罰であり、すこしずつ解消していくしかないのだろう。そんなふうに考えてると子供の頃に読んだ話を思い出した。
それはなにかの罰で大きな岩を押し運ぶよう命じられた男の話だった。その男は急な斜面の頂上まで岩を運ばなければならない。しかし、運び終えた途端にもとの位置まで転がり落ちてしまう。何度も何度も、未来永劫にわたって、その男は大きな岩を運びつづける。それに終わりはない。なにしろ神罰だから。まあ、それに比べたら僕にあたえられた罰はずいぶん軽いものだ。不本意ながら物も減ったし、いつかは終わる。
カフェへ着くまでに僕は三匹の犬に出会した。散歩中のが二匹――黒いレトリバーと薄っぺらい大型の犬だ。その二匹ともがじっと見つめてきて飼い主を困らせていた。もう一匹は雑種の白い犬で、門扉の隙間から鼻を出し、目をあげてきた。首を傾げ、なにか言いたそうな表情をしている。
僕は落ち着かない気分になった。見えないなにかがくっついていて、それを見てるんじゃないか? そんなふうに思ったのだ。
馬鹿らしいけどそうでなかったらなんでこんなに見られるんだ? ほんと理解できないことばかりが起こってる。理解できないことに取り囲まれているのだ。
カフェは混んでいた。カウンター席に座り、僕は本を開いた。『ワインズバーグ・オハイオ』だった。学生の頃に一度読んだだけの、まだ持ってるとも思ってなかった本だ。適当にページを捲り、僕はコーヒーを飲んだ。ただ、思考はあらぬ方へと進んでいった。なぜか見つめてくる犬、突然消える街灯、謎の女が伝えたかったこと。
鷺沢萌子も頭に浮かんだ。あの天使のような顔。寝顔だって愛くるしかった。悶々と過ごした九日間に僕は幾度も見つめたものだ。あんなことをしでかすとは思えない顔で彼女は眠っていた。
なにかやむを得ない事情があって結果的に騙すことになったんじゃないか? たとえば父親がたちの悪い借金を拵え、ヤクザに拉致されてるとか。あるいは母親が不治の病なのかもしれない。緊急手術が必要だけど、それには大金が必要だ。そのための費用をいったん借りただけというのもありえる。いや、それじゃ『バーカ!!』の説明がつかない。電子レンジを持ちだした理由にもならない。
僕は頬杖をついた。泣きたい気分になっていたのだ。確かに馬鹿ですよ。素性も知らない女を住まわせ、鍋や食器まで持ち逃げされたんだから馬鹿には違いない。だけど、いろいろ訊いてはいたのだ。どこの出身かとか、親兄弟のこと、それまでどこでどのように暮らしていて、今はどういう状況なのか。あの女は全部こたえた。朗々と淀みなくこたえたのだ。そして、「ちょっと困った状態なの」と言ってきた。
「ルームメイトがいるんだけど、その子が男関係で揉めちゃってすごくナーバスになってるの。前に勤めてたお店の子なんだけどね、相手が頭のおかしな奴で私たちのマンションを見張ってるみたいなの。だから、その子も別の友達んとこに行ってるってわけ。私も戻りたくないの。ストーカー男に捕まって『彼女の居場所を教えろ』みたいなことになったら大変でしょ? そういうわけで帰るとこがないのよ」
コーヒーを飲みながら僕は発言を洗い直してみた。その上で瑕疵はない――と思った。ありそうな話だ。少々ドラマチックに過ぎるけど納得はできる。そして、あのときの僕は完全に納得してしまったのだ。
「じゃ、うちに来るか?」と僕は言った。二人とも裸で、さらさらした布団にくるまりながらだった。
「そんな、悪いわ。だって私たちさっき会ったばかりじゃない」
「悪いことなんてないよ。そうしてくれた方がうれしいんだ」
彼女はじっと見つめてきた。軽くうなずき、僕は顔を近づけた。
「ありがと」
唇を離す瞬間に、彼女はそう囁いた。
今となってはその名前だって本当のものかわからない。出身が秋田というのも、父親が水産加工の工場を経営してるというのも、大学生の妹がいるというのも、アパレルの店員をしていたというのも全部嘘なのだろう。だから、ストーカー男につきまとわれてるルームメイトも存在しないのだろうし、帰る場所だってちゃんとあったのだ。鍋や炊飯器は売り払い、僕のことを「バーカ!!」と思いつつ札束を数えてるわけだ。
本格的に泣きたくなってきたな。――いや、トラウマにとらわれていては駄目だ。立ち直るのだ。そして合コンに行き、新たな天使を見つけてやるんだ。そういった思いが強すぎたのだろう、店員が教えてくれるまで声をかけられてるのに気づかなかった。
「あっ、あっ、あの、」
「篠崎さん?」
僕は思いっきり首を上げた。彼女は「そうです、私は篠崎カミラです」とでもいうように激しくうなずいてる。
「あっ、あっ、あの、びっ、びっ、びっくりしました。だ、だって、さ、佐々木さんが、い、いるって、い、今まで、きっ、きっ、気づかなかった、も、ものですから」
「ってことは、前からいたの?」
「そ、そ、そうなんです。も、もう、か、帰るとこなんですが。きょ、今日は、せ、せ、先生と、いっ、いっ、一緒で、」
「先生?」
首を曲げると黒い幅広の帽子をかぶった太めの女が立っている。服も上下ともに黒で、持ってる財布までもが黒かった。全身黒ずくめというだけでもたんまり存在感があるのに、長いネックレスをじゃらじゃらと何本もかけていた。まったくいかにもな人物だ。宗教的な、あるいはスピリチュアルな臭いがぷんぷんしてくる。
「あっ、あっ、あの、さ、佐々木さん、こ、この前の、お、お話、で、で、できれば、は、早いうちに、お、お時間を、つ、つくって、も、もらえませんか? と、とても、じゅ、重要な、こ、ことなんです。ほ、ほ、本当に、じゅ、重要なんです」
覆いかぶさるようにしながら彼女は話しかけてくる。僕はそのあいだずっと首を曲げていた。女は真顔でこっちを見てる。僕を――いや、僕を透過した先を見てるような目つきだ。
「カミラ!」
地響きするような声がした。呼ばれた方は身体をびくんと揺らしてる。
「来なさい! 帰るわよ!」
「あっ、あの、さ、佐々木さん、」
肩をすくめさせ、僕は「呼ばれてるよ」とだけ言った。彼女は背筋を伸ばし(そうなると急に巨大化してみえた)、唇を引き締めた。それから遠慮がちに、しかし、しっかりとわかるように溜息をつき、出ていった。
いったいなんだったんだ? なんでこんなとこであの女に会う? しかも、『先生』ってのまであらわれたもんな。
僕は首を振った。わかりにくい疑念の他にも気になることがあったのだ。それはあの女から受けた印象に原因があるようだった。しかし、そっちはすぐにわかった。――そうか、眼鏡をかけてなかったんだな。