7-3
「僕は反対だな! やっぱりどうしても反対だ!」
「あなたは黙ってなさい!」
「いや、黙ってるなんてできないよ! 僕は反対だ! こんな男じゃカミラちゃんがかわいそうだ。そうだろ?」
「はっ! あなただって似たようなものだったでしょ? 偉そうに人のこと言えるの?」
「いや、ソフィア、そういうことじゃないだろ」
ソフィア? 篠崎ソフィアってことか。アゼルバイジャン人を母に持つ、ハーフの篠崎ソフィア。まあ、確かに彫りの深い顔をしてるよな。そう考えてるあいだも夫婦喧嘩はつづいていた。
「あなたの方がもっとたちの悪い女に騙されてたじゃない。吉原雪乃。名前だって偽名っぽいってことでは変わらないわ。あなた、あの女にいくら貢いだと思ってるの? もう忘れたわけ? ふんっ! 忘れるわけないわね。この前寝言で言ってたわよ。『雪乃! 雪乃! 僕を――』って。あれはなに? なんて言おうとしたの? 『見捨てないでくれ!』とでも?」
「い、いや、そんな。なあ、なんでこんな話になるんだよ。カミラちゃんだって聴いてるんだぞ。それに、ほら、この人だって困ってる」
「あなたが!」
そう叫んで、母親は立ちあがった。ネックレスはじゃらじゃら揺れている。
「あなたがそうさせたんでしょ! いい? これは重要なお話なの。あなたの大切な娘の将来がかかってるのよ。もう一度だけ言うわ。あなたは黙ってなさい! いい? わかった?」
首をすくめ、父親は両手を挙げた。頬は歪みまくってる。
「この人は理解したいと言ってるの。きちんと理解したいと。カミラはわかってるわ。私たちの娘は様々なことを知ってるの。この人――佐々木さんだって覚悟を持って来てるのよ。それこそ自分の昔を思い出しなさい。あの頃のあなたに比べたらずいぶん立派な姿勢じゃない。理解してから選び取ろうというのですからね」
「わかったよ」
娘は笑顔でソファへ向かった。しゃがみこみ、脚を擦ってる。心温まる父娘の絵というところだ。しかし、それには違いないものの激しくうんざりさせられた。
「つづきを話すわね。あなたを騙した女の話よ。生き霊にとって、その女の登場は誤算だったの。彼女――これは生き霊の方よ――その彼女が呼び寄せた低級な霊がやったことだわ。でも、あなたが女性不信になるならいいって考えたんでしょう。その部分では一応の成功を得たってことよ。だけど、その女はライターも持っていったでしょ? それには強い念が籠もってたの。つまり、そのライターがあることで大きく力を及ぼせたの。媒介してたってことよ。そういうのはよくあることだわ。――ああ、ついでと言ったら怒られるかもしれないけど、そのネクタイピンも同じ。それはお祖父さんの形見分けとして貰った物のはずよ。あなたの守護霊様はそのお祖父さんだわ。ずっとあなたを見守ってくださってるわ。強い力でね」
僕はネクタイピンを見つめた。それから、顔をあげた。眉根を寄せ、母親は目をつむってる。
「もし、それが本当だったとして、彼女はどうして僕のことを思いつづけてるんですか?」
「その人はあなたと別れてからひどい病気に罹ったの。もう四年も入院してるわ。そこでずっとあなたのことを考えてる。――山崎美早紀さん。そういうお名前よね? 彼女は自分の命が保たないのを知ってるわ。思い出すことといえばあなたのことばかり。別れたのを後悔してるのよ。でも、生きられないのを知ってるから頼ろうとはしてないわ。あなたがどんな性格かよくわかってるんでしょうね。連絡すればあなたは彼女のもとに行くでしょう? それじゃいけないって思ってるのよ」
そこで母親は目をあけた。顎を引き、唇を歪めてる。
「ただし、その思いが彼女を生き霊にしてるわ。理屈でわかってても感情は押しとどめられないの。あなたの周囲から女を排除したいと思ってるし、自分が死ぬときは一緒に死んでもらいたいとさえ願ってるのよ」
僕は奥歯を噛んだ。その瞬間に涙が溢れ出た。名前を耳にしたときから用意されていたのだ。それと同時に、無性に腹がたってきた。
「たとえ今のが本当だったとしても、それですべてが説明できても、やっぱり信じられない。僕には見えないんだ」
母親は指を向けてきた。表情は抜け落ちている。
「肩に痣ができてるはずよ。それは後ろからつかんでる形になってるでしょ? あなたには目に見えることまで起きてるの。それは非常に危険な徴候だわ」
「ライターがなくなったことで力は弱まったんじゃないんですか? これは今あなたが言ったことだ。矛盾してますよね? それなのにどうして変な痣ができるんです? これは美早紀の手なんかじゃない。どこかにぶつけたかしたんだ」
「理解したかったんじゃないの? 自分の身に起こってることを、その本当の意味をあなたは曲げようとしてるのよ。受容しなくちゃならないわ。ありのままの事実をありのままに受けとらなければならないの。そうできないならもっとひどい状況に陥ってしまうわ。これは可能性の話じゃないの。そうなってしまうの。――あまり言いたくないけど彼女はもうそろそろ死ぬのよ。自分でもそうとわかってるの。だから、最期の力を振りしぼってあなたを連れていこうとしてるの」
「それだってあなたが言ってるだけのことだ。僕に彼女は見えないし、理解できない。いや、話として理解できても納得はできない」
「あくまでも見えないことは信じられないと言うのね? いいでしょう。では、すこし違うことを話すわ。理解してもらえるといいんだけど」
母親は顎を反らした。背中を押しつけ、手を組み合わせている。
「いい? あなたが見てるものは、あなたの目に映ってるものだわ。目でとらえ、脳で判断し、記憶と擦り合わせ、たとえば、あれを木だと判断する。でも、それはあなたの目よ。私のではないわ。あなたの脳も私のとは違う。記憶だってもちろんそうでしょう?」
僕は観葉植物を見た。怒りは急速に萎み、悲しみだけがひりひりと残っていた。
「それでも木は木だ。僕が見ても、あなたが見ても木であることに変わりはない」
「ほんとうにそうかしら?」
頬は歪んでいった。そのままの表情で長椅子を指している。
「これは何色?」
「緑ですね」
「そう、緑と呼ばれる色に見えるわね。でも、あなたはどうしてこれを緑と思ったのかしら? この色はあなたの外にあるの? それとも記憶にあるものと擦り合わせて緑と判断したの? これを緑と認識できない人もいるわ。それに緑と認識しても、それはあなたが見てる色と完全には一致しない可能性もあるのよ。私たちは画一的な網膜を持ってるわけじゃないし、記憶だって違う。ひとつの言葉であらわされる概念だって本当は様々にグラデーションしてるものなの。ひとつであることなんてありえないのよ。ところで、風がこの部屋を通り抜けてるわね? あそこには百合が咲いている。私にはわからないけど、もしかしたらあの香りはこの部屋に漂ってるかもしれないわ。あなたは感じる?」
百合は風に揺れている。ただ、香りは感じられない。僕はゆっくり首を振った。
「もしここに犬がいたら百合の香りを嗅いでいたかもしれないわ。私やあなたにとって感じられない程度の香りであっても、それに気づくものもいるの。人間の中にだってきっといるはずよ。いい? 自分の感覚で捉えられないからといって、それは無いわけじゃないの。中には気づくものもいるのよ。あなたは五年近くずっと犬に見つめられていた。犬たちはなにを見てたの? あなたが気づけなかったものを見てたのよ。あなたの感覚では捉えられない存在を見つめてたの」
娘は長椅子に戻った。胸を張り、肩を反らすようにしてる。その表情は複雑にみえた。しかし、僕は首を振った。違う――と思ったのだ。幾つもの感情を同時に持っていたとしても、彼女の芯には揺らぐことのないものがある。確信めいたものを持ってるのだ。そして、それは受容を促すものだった。
「自分を中心に据えてるとそういうことにも気づけないわ。私たちは不確かな世界に生きてるの。抽象的なものがこの世界には溢れてるのよ。言葉だってそう。私たちはありのままを見ることができなくなってるの。すべてを抽象的な概念に落とし込んでるからよ。いい? このソファの色はこのソファの色なの。緑なんかじゃないわ。あの木だって、そんなひとつの言葉では言いあらわせないはずの存在なの。私たちが便宜的にそう言い慣わしてるだけ。さっきはああ言ったけど百合の香りを感じる犬もいれば、そうでない犬だっているでしょう。だけど、それが正しい世界なのよ。あらゆるものは個別的であり、不確かでもあるの。ありのままを見なければならないわ。この世界は本来的には複雑なものなのよ。それを見ないようにしてる方が危険だわ」
母親は顔を突き出してきた。額には汗が浮かんでいる。
「私はあなたと比べてより良く見えるわけじゃないのよ。カミラだってそう。もちろん生まれ持ったものはあるわ。でもね、これは誰もが持ってるはずのものなの。私たちはただ見ないようにしていないだけ。見ないってことができないよう生まれついたの。そして、ありのままの世界をありのままに見ようとしてるだけなのよ」
僕は手を挙げた。ちょっと待ってくださいと示したつもりだ。
「それであなたは様々なものが見えるってわけですか? すべてを理解できると? ――いえ、もう疑ってはいません。だって、名前もその通りだし、彼女はそういう状態になってるんでしょう。そのことは、こう、ひどく――」
言い淀んでるあいだに母親は話し出した。その声は優しさに満ちたものだった。
「すべて理解できるなんて、そんなおこがましいことは言わないわ。ただ、実際に起こってることに目をつむり、――いい? 見えたことだって人は見ないようにできるものよ。あなたがさっきそうしたようにね。でも、それじゃいけないのよ。きちんと見つめることが必要なんだわ。あなたは理解したいと言った。私はすこしだけあなたより見えることがあるわ。だから、それを伝えたの。あなたなら理解できるはずよ。求めてたからできるはずなの。時間はかかるかもしれないけど、ありのままの世界を見られるようになれるわ」
僕はそれまでに起きたことを違う視点から見ようと試みた。ありのままを見ようとしたのだ。それはひどくつらいことだった。怖ろしくもあった。そのものというのはなんとグロテスクで、禍々しいものなんだろう。僕はそういうものから目をそらしつづけてきたのだ。
ただ、あの街灯が消えた日からなにかが変わりはじめていた。それは徐々にではあるけど到達すべき地点を教えこもうとしていたに違いない。




