5-3
僕たちはイタリア料理店に入った。時計を見ると八時半になるところだ。デパートの飲食店なんて十時には閉店だろう。そう思いながらメニューをひらいた。あまり楽しいとはいえない会食だけど、それも一時間ちょっとのことだ。それに、この時間は謎の解明に使える。
僕はビールを、彼女はグラスワインを頼んだ。それと〈カプレーゼ〉、〈エビとアボカドのブルスケッタ〉というのをオーダーした。よく冷えた飲み物はすぐにきた。
「あのさ、この辺できちんとしたまとめをしたいんだけど」
「ま、まとめ?」
「そう、まとめだ。ここのところ僕のまわりでは理解しがたいことが起こってる。昨日だってそうだし、この前、――ほら、後ろに引っ張られたときだよ、それだって理解しがたい。それに、他にもいろいろある。まずは君のことだ。君はいったい何者なんだ?」
「な、何者かって、き、訊かれても、」
「でも、普通じゃない。そうだろ?」
「ふ、普通です。わ、私は、ふ、普通の、に、人間です」
「そんなわけがない。普通の人間であればなんで肩ばかり見る? 僕はこれまでそんなふうにされたことなんてないんだぜ。それに自分でも言ってたじゃないか。他の人には見えないものが見えるって。だろ? だから、普通じゃないんだよ」
わずかばかり顎を上げ、彼女は見つめてきた。僕も同じようにした。とくにその目を見ていた。やめることはできなかった。涙がふっとあらわれ、と思った瞬間に溢れてきたからだ。
「なんで泣く?」
「だ、だって、」
「悪かった。言い方がマズかったな。ほんとごめん。そういうつもりじゃなかったんだよ。君は普通だ。ごくあたりまえの人間だよ。石を投げれば当たるくらいそこら中にいるタイプだ」
目は睨みつけるものに変わった。――ふうん、こういうこともできるんだな。怒りの感情も持ちあわせているんだ。
「ごめん。これも言い過ぎた。全面的に悪かった。な、だから泣くのはやめてくれよ。楽しく食事をしよう。つぎに気に障ることを言ったら殴っていい。だから泣くのだけはやめてくれないか」
「そ、そんな、さ、佐々木さんを、た、叩くなんて、で、できません」
「だろ? 僕も殴られたくないから口を慎む。――で、聴かせてくれないか? 君のことを。どんなことだっていい。僕は理解したいんだよ。君のことを理解したい」
口は半開きになり、首までもが真っ赤になった。ハンカチをくちゃくちゃにしてもいる。しばらくそうしていたけど気がついたのだろう、恥ずかしそうに膝の上へ置いた。
「あっ、あっ、あの、うっ、うっ、嬉しいです。そ、そんなふうに、お、お、仰って、く、くださるなんて」
「あ?」
僕も口をあけていた。それを見つめながら彼女は料理を取り分けはじめた。すこしうつむき、小皿にのせている。そうなると胸が強調された。
「わ、私、こ、こ、子供の頃から、ふ、ふ、普通じゃないって、い、言われてたんです」
「ん? ああ、そうなのか」
「よ、よく、か、か、からかわれても、い、いました。わ、私は、ご、ごく、ふ、普通のことを、い、言ってる、つ、つもりだったんですけど、そ、それが、ま、まわりの人には、わ、わ、わからないみたいで」
皿を差し出し、彼女はトマトを口にした。唇はオイルに濡れ、舌先がそこを舐めている。ホール係が音もなくやってきて料理をサーブした。
「じ、じ、自分にとって、あ、あ、あたりまえの、こ、ことが、ほ、他の人には、ま、ま、まったく、わ、わからないなんて、り、り、理解できなかったんです。わ、私に、み、見えることが、ど、どうして、み、みんなに見えないのか、ふ、ふ、不思議でした。だ、だけど、じゅ、じゅ、十歳の頃に、あ、諦めました。じ、じ、自分と、お、同じように、こ、こ、この世界が、み、見えない人たちと、しゃ、しゃべることなんて、な、ないと、お、思うように、な、なったんです」
うつむきながら彼女はフォークを使ってる。僕は非常に柔らかそうな胸を見つめた。それから、激しく首を振った。
「ど、ど、どうか、さ、されましたか?」
「いや、なんでもない。それで? それでどうなったんだ?」
「は、はい。そ、それから、わ、私は、あ、あまりしゃべらない子に、な、なりました。お、お友達も、で、できずに、ひ、ひ、一人でいるように、な、なったんです。も、もし、は、母が、た、助けてくれなかったら、が、学校にも、い、行かなかったかも、し、しれません。だ、だけど、わ、私が、と、と、登校したがらないのをみて、は、母が、い、言ってくれたんです。よ、よくわかるとです。あ、あなたの気持ちは、よ、よくわかると、い、言ってくれました。は、母も、わ、私と同じで、い、い、いえ、わ、私なんかとは、く、比べようも、な、ないくらい、い、い、いろんなものが、み、み、見える人なんです。ち、ち、小さい頃から、そ、そうだったようで、わ、私と、お、同じような、け、経験も、し、してたみたいなんです」
僕は手を挙げた。よくわからなくなってきたのだ。
「ちょっと待ってくれ。さっきから言ってる『はは』ってのはお母さんのことか? いや、まあ、そうなんだろうけど」
「は、はい。そ、そ、そうです。は、母は、わ、私にも、と、と、特別な力があるのだと、い、言ってくれました。そ、そ、それは、だ、誰もが持ってるものでは、な、ないのだと。そ、それを、り、り、理解してくれる、ひ、人は少ないけれど、は、は、恥ずかしがったり、か、隠したりする、ひ、必要はないのだとも、い、言ってくれました。い、い、いずれは、わ、私も、そ、そ、その力で、ひ、人を助けることに、な、なるだろう、そ、そ、それまでは、な、何事も、しゅ、修行だと、お、思いなさい。わ、私も、――と、こ、こ、これは母のことですが――わ、私も、こ、子供の頃は、そ、そ、そうだったのだからと、い、い、言ってくれたんです」
ビールを飲み干し、僕はホール係を呼んだ。謎はかえって深まった。母親も『見える人』ってことか? あの時代錯誤的なメイクを施した母親が? いや、この女は『先生』と一緒に暮らしてるんじゃないのか?
「あの、よくわからないんだけどさ、君のお母さんも『見える人』なのか? でも、君には『先生』ってのもいるよな? 昨日、僕としゃべった人だよ。そっちは『先生』なわけだから、当然そういう人なわけだろ? ってなると君も含めて三人いることになる。ちょっと多すぎやしないか? いや、別に沢山いたっていいけど、ちょっと複雑に思えるな」
彼女は椅子に背をあてた。口は半月状になっている。
「あっ、あの、そ、そ、その『先生』というのが、わ、私の、は、母なんです」
「はあ? 『先生』がお母さん? どういうことだ?」
「す、すみません。も、申し上げて、な、なかったですよね。じ、じ、実は、わ、私、た、たまに、は、母の手伝いを、す、す、することがあって、そ、そのときには『先生』と、よ、よ、呼ぶように、し、してるんです。さ、昨夜は、あ、ああいう、お、お話だったので、つ、つい『先生』と、い、言って、し、しまいましたが、そ、そ、それは、は、母のことなんです」
追加の料理がやってきた。〈ラム肉のグリル バルサミコソース〉というやつだ。僕はそれを切り分けた。
「手伝いってのは、その、霊視みたいなことか? ――ああ、カフェで会ったときはその帰りだったのか。だから、『先生』って呼んでたってこと?」
「そ、そうです。わ、私は、ま、まだ力が、き、き、きちんと、そ、そなわって、い、いないんですけど、た、たまに、て、手伝いを、た、頼まれることが、あ、あ、あるんです」
「ふうん、そういうことだったのか。で、どんなことするの?」
「はっ、はい。は、母が、み、み、見たことと、わ、私に見えたことを、す、す、すり合わせたりです。む、む、難しい、じょ、状態の方は、そ、それだけ、た、た、たくさんのものが、つ、つ、憑いてますから、ひ、一人で全部、み、見るのは大変なんです。つ、つ、憑いているもの同士の、ち、力関係を、み、見極めなくては、な、ならないので、は、母は、お、主に、い、一番強い霊を、わ、私は、そ、それ以外のを、み、見るように、し、しています」
「なるほど」
僕はラム肉を頬張った。こうやって聴いてるとだんだん信じられるようになってきた。この子は確かに見えているのだろう。左肩に「すごいの」がいるのも動かしがたい事実ってわけだ。しかし、理解までは至らない。仕組みがわからないのだ。
「さ、佐々木さんは、ま、まだ、し、し、信じられない、み、みたいですね」
「今のは僕の考えを見たってことか?」
「い、いえ、そ、そうじゃありません。わ、私は、ひ、ひ、人の、か、考えが、わ、わかるわけじゃ、な、ないんです」
「でも、この前は考えてたことを当てたぜ。僕を騙した女と君に関わりがあるんじゃないかってのを言い当てた」
顔を近づけ、彼女はじっと見つめてきた。これから最も重要なことを言う――といった表情だ。
「あ、あのときは、わ、わかったんです。い、いえ、そ、そう、か、感じたんです。あ、あれは、わ、私にも、ふ、不思議なことでした。で、でも、そ、それを、は、母に、は、話したら、」
「話したら?」
尻はむず痒くなっていた。いいものか悪いものかわからないものの、なにかしらの予感があったのだ。僕は急いで口の中のものを飲みこんだ。
「は、母は、あ、あなたにも、そ、そ、そのときが、き、きたのねと、い、言ってました。わ、私の、ち、力が、か、完全なものに、な、な、なるときが――という、い、意味です」
「力が完全なものに? それはもっとよく見えるようになるってことか?」
「た、たぶん、そ、そ、そういうことだと、お、思います。わ、私にも、よ、よくは、わ、わかりませんが」
僕は首を振った。やはり理解しがたいのだ。言われたことはわかる。しかし、納得はできない。ホール係が最後の料理を持ってきた。〈テナガエビのトマトクリームパスタ〉だ。
「それで、お母さんの言う『そのとき』ってのはなんなんだ?」
「はっ、はい。あ、あ、あくまでも、は、は、母が、そ、そう言ってると、い、いうことなのですが、わ、私にも、そ、その、きっ、きっ、きっかけが、で、できたと、い、い、いうことらしいです。め、め、め、巡りあったと、い、いうことです。だ、だ、だけど、わ、私も、そ、そ、そ、そうじゃないかと、お、お、思って、い、い、い、いたんです」
「はあ」とだけ僕は言った。普段に増してどもってる彼女はやはり予感をあたえた。どちらかというと悪い方の予感だ。
「で、どうなったら君の力は完全になるんだ?」
「そっ、そっ、その、おっ、おっ、男の人を、しっ、しっ、知ることで、そ、そ、そうなると、きっ、きっ、聴いて、い、います」
「は?」
首を引き、僕は眉をひそめた。彼女はまだ顔を突き出している。
「ええと、それはつまりヤルってこと? ――いや、違うな。今のは忘れてくれ」
「ヤル?」
「いや、違うんだ。そうじゃない。つまり、君が言ったのは寝るってことか? そうすると君の力は完全になる?」
ということは処女か? そう思いつつ僕は胸元を見つめた。白い肌は透き通ってみえる。
「そうだ、忘れてた。ところで君はいくつなんだ? それすら僕は知らなかったんだ」
「は、はい。に、に、二十七ですけど」
二十七歳にしていまだ処女か。いや、そんなのはどうだっていい。――いやいや、そうでもないぞ。
「あっ、あの、そ、それが、ど、どういう、」
「いや、それはいいんだ。確認したかっただけだから。でも、そんな話はさらに理解できないぞ。寝ると力が完全になるなんて」
「あっ、あの、す、す、すみません。そ、そ、その、寝るっていうのは、ね、眠るって、い、意味ですか? そ、そ、そうだったら、わ、私の、い、い、言ってるのとは――」
彼女は完璧にうつむいてしまった。っていうか、その格好はやめてくれないかな。目のやり場に困るから。ん? いや、寝るってのはただ眠るって意味じゃない。僕は椅子によりかかった。非常に疲れてしまったのだ。
「ふうっ」
深く息を吐くと彼女は顔をあげた。瞳は潤んでる。髪を掻きまわしながら僕はこう言った。
「まどろっこしい言い方はやめよう。その、なんだ、君が言ったのはセックスするとってこと?」
潤んだ瞳のまま彼女はこくりとうなずいた。――それはすぐわかるんだ。




